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【短編】いびつ 〜彼女と僕とその猫の〜
誰でもない誰かの話
僕の手に残ったのは、力強く脈打つ静脈の感覚。儚くも虚しい恋は、もう二度と誰かを愛することを許さないと、僕を締め付けるのだった。
歪む愛の形。
愛が歪んでいるんでしょうか。僕が好きな人は僕を半分だけ愛している。体と心ならば体の方と言えるだろう。何度抱き合おうともそれはとても歪だった。仕方なく、そうしているとでも言いたげで。
「明日は雨らしいです。傘、ちゃんと持って行ってください。」
彼女にそう言うと、ふっと笑う。
「のんちゃんは、気象予報士なの?私、雨って好きよ。美しいもの。まるであなたと同じよ。」
僕の唇を触りながらもう喋るなと言いたげだった。
8月の虹が綺麗な日、彼女はいなくなった。旦那さんと一緒に引っ越したのだ。その家にいた猫だけが取り残されて家の外をぐるぐると歩き回っていた。かわいそうにと思う前に、僕と一緒だと思ったのだ。僕は、旦那さんの仕事の手伝いをしていたのだから。
家の網戸をよじのぼろうとする猫は黒猫で名前をチャー子と呼ばれていた。ウグォンウォンと、悲しい声をあげて、家主が戸を開けるのを信じている。
「チャー。おいで。」
僕が声をかけると近寄ってきて脛に頭を擦り付ける。お腹が空いているのだろう、自宅に連れて帰ることにした。
「僕が置いていかれるのは分かるけど、君のことはなぜ忘れたんだろう。絹江さんは、そんな人だった?」
抱き上げて頭を撫でながらチャー子に語りかける。
彼女とチャー子と旦那さん。
僕からみれば、平和な3人…。2人と1匹。チャー子だけが取り残された。半分だけ愛された僕も。
『希望(のぞみ)くん、君はどう思う?自然な形というのは然るべきものが然るべき場所にある。そういう事ではないのかな?私はね…』
チャー子を抱きながら帰り道を歩く。旦那さんの言ってることはいつもよく分からなかったななんて考えながら。
旦那さんと彼女は、夫婦ではないし、かと言って親子でもない。他人であり家族であり、…何かしらで縛られた関係ではあったようにも思えた。彼女が旦那さんに抱かれながら喘ぐ声を何度も聞いた後、僕は彼女を抱いた。旦那さんにそうしろと言われ、それを監視される。仕方ないようで好きでも嫌いでもないそんな感情の先に半分だけ愛されているという感覚を得たのだ。
自宅に着いて、鍵を開ける。玄関に入ると同時にチャー子を降ろす。知らない家に無理やり連れてこられたのだ。少し足取りがおぼつかない。
「然るべき場所に然るべきもの…」
僕の家にチャー子。全く不自然で笑えてしまう。彼女の匂いが少しだけ。あとは全部この猫そのものの匂い。お腹が空いているであろう猫に鰹節を与えた。貪るように食べるし、鼻息が荒いから周りに散らかって、その度に床まで舐める。それを見ながらこの先を考える。
僕の収入源が突然消えた。
突然、猫を飼うことになった。
この2つが今の僕の現実だ。
なんて、少しだけカッコつけてみても、だからなんだって気分の方が強くなってくる。
そう。だから、なんだ?って話だ。23歳の僕の今。
旦那さんに電話をかけてみるも、電子的な音声しか流れない。完全に姿をくらませたのだ。彼女にしても同じことだった。
9月下旬。
台風による強い雨と風。仕事は自宅でできるものを見つけたから、こんな日はなおさら助かる。窓を揺らすほどの風に叩きつける雨。チャー子は少し興奮気味で窓の周りでそわそわと行ったり来たりを繰り返していた。
「少し落ち着きなさいよ。」
そう言って、頭に手をやると引っ掻かれた。機嫌が悪いような態度に可愛らしいと思ってしまう。こんなことを怖がるなんて守るべき対象であって間違いがないから。
だが、チャー子の興奮は雨や風によるものではないことがわかった。インターホンが鳴って玄関を開けると、ずぶ濡れの彼女が立っていた。
「のんちゃん、助けてくれないかしら。あなたに傘を忘れるなと言われたのをちゃんと聞いていなかったからこうなってしまったわ。助けて欲しいの。」
よく見ればスカートの裾は泥に濡れている。
「とにかく、中へ。シャワーを浴びてください。」
いなくなって、そんなに時間は経っていない。しかし、彼女はひどくやつれている。
僕はタオルと着替えを用意して、彼女のために部屋を少しだけ片付ける。
「のんちゃんありがとう。」
「あ、いえ。」
チャー子が、彼女の匂いを嗅ぐ。久しぶりに嗅ぐ飼い主の匂いに甘えた声を出すのだから、少し憎らしいと思う。僕は君に優しくしたけれど、君は僕にはそんな声は聞かせてくれなかった。
「チャー子!!」
彼女がチャー子を抱き寄せる。僕は少し複雑な気分になった。どんなに可愛がろうとも本当の飼い主には敵わない。代役は代役であって、本物ではないと見せつけられた瞬間だった。奥歯がギリっと音を立てるのがわかった。
彼女にとって、チャー子にとって、僕は本物にはなれない。
「チャー子を連れて帰ってください。」
僕はこのままだと
「のんちゃん?」
彼女を殺してしまう。
「もう、二度と僕に近づかないで。」
半分じゃない。
「そんな、…わたし、何かしたかしら。」
全部、愛して欲しい。
「何か?」
僕は彼女より彼女なんかより
「何か…なんて、今更聞くなよ。」
ずっと、求めている。
「のんちゃん?ねえ?」
だから、いっそ殺して、彼女を殺してしまいたい。
「僕に近づかないで。早く帰って。お願い。」
「のんちゃん?」
「そんなにチャー子が大事なら、なぜチャー子を置いて行ったんですか?」
彼女にしがみつく猫にも怒りが込み上げてきて。
「旦那さんがね、連れて行けないというものだから。」
「旦那さんは、どこへ?」
「……今、旦那さんはきちんとした奥様の元にいるわ。私より、やはりそちらをとったの。ずっと一緒いたけれど、私を捨てたのよ。のんちゃん、やはり本物には敵わないの。私、本物にはなれなかったのよ。まやかしに騙されていたの。愛なんて偽りでも塗り固めてできるものなのよ。何が愛よ。」
チャー子を床に下ろして僕を抱き寄せる彼女に対し、殺意を止めることができない。
「ひゃっ」
彼女を押し倒して首を絞める。
「くだらない。」
「のん…ちゃ…」
「くだらない。」
殺してしまえばいい。そうすれば僕のものになる。外の様子を探る必要はない。
「全部くだらない。」
体重をかけるほどに強くなる静脈の感覚。手のひらに感じるたびに涙が溢れてくる。
「の…ん」
口を塞ごう。もう声を聞きたくない。口を塞ぐために
「好きです。絹江さん。」
唇を重ねて手を緩めた。
好きだなんて軽々しい言葉を言ったのは初めてだ。
「だから、もう僕に近づかないで。」
窓を揺らす強い風に叩きつける雨。この中を帰すわけにはいかないような気がして。少しだけなら、まだ一緒にいようかとも思う。
「のんちゃん、私、旦那さんを愛していたの。あなたに抱かれたのも旦那さんに見てもらうため。チャー子を可愛がっていたのも、旦那さんに私を見てもらうため。私にはあの人しかいないの。今までもこれからも。…のんちゃん、ごめんなさい。」
全てわかっている。わかっていることを改めて告白された。
「僕はいい。…でも、チャー子は。」
「…悲しいけれど、私、猫は嫌い。」
チャー子が窓の外を見ながら聞こえないふりをしているのがよくわかる。もしかして、本当はずっとわかっていたのかもしれない。だけど、利用されていることをわかりながら自分にも得があるように彼女を利用していたのかもしれない。強か。そう思う。僕よりもずっとずっと賢い。
「絹江さん、チャー子は僕が引き取りましょう。」
「ごめんなさいね」
「…はい。」
絹江さんは、僕が締め付けた首を触りながら、何かに解放されたように笑っていた。
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#猫野サラさんのイラストお借りしました感謝