
【短編】いつかの冬の溶ける水〜湖の下の話
誰でもない誰かの話
じいちゃんはよく、湖面の凍った場所に穴開けて釣りをしてる。
ちいちゃいお魚で、ワカサギって。
針がいっぱいついた糸で、きっもちわりいうねうねの生き餌をくっつけて穴の中に垂らすとお魚が食いついた。
あっつい油にお魚に粉かけてドボン。
お魚の気持ちになったら考えらんないやって思った。
「いつきも食ってみろ」
そう言われて、さっきまで動いていたのになって思いながらも言われるまま食べてみたら
「何これ!信じられないくらいにうまいよ!!」
「そうか。良かったじゃねーか。」
僕の口から僕のお腹に入ったお魚は、どんな気持ちか知らないけど、うまい以外の何者でもなかった。
「コイツらな、まさか食われるなんて思ってないから、呑気にな虫が来たら今日もたらふく食ってやれってそこに針があるとも気づかずによ、食いつくんだよ。」
生き餌を針につけて穴の中に垂らす。
「じいちゃんは残酷だな。」
「違うな。」
「んー?」
「うまかっただろ?」
糸が下に引っ張られたらお魚がかかった証拠。
「…もう一匹くれよ。」
「自分で揚げてみな。」
バケツの中で、スイスイ泳いでいるのをわざわざ掬って、粉をつけて油に入れるのが悪い気がした。
「じいちゃん」
「ん?」
「生きてるよな」
「食いてーんだろ」
「うん。」
「そういうことだ。」
じいちゃんの目は、何か仕方ないって感じだし、
お魚にしたって、自分のこの先について何か思ってるかもしれないし。
「俺たちはな、そうやって生きてるんだ。
みんな一緒。…一匹でいいのか。」
「じゃあ、僕はこのお魚に、
ごめんて思わなくていいのか。」
「…いい。美味い美味いって食えば良い。」
釣ったら釣った分、食べてやんなきゃいけない。食べない分はどんなにおもしろくても釣ったらいけない。じいちゃんはそんなことを話しながら、どんどんお魚を油に入れていく。
始めのうちは熱くてびっくりして暴れるお魚も、観念して動かなくなる。そんな姿を見ているうちに、お箸を借りて一匹だけ油に泳がせてみた。不思議なほどに悲しくはなくて、嫌な気もしなかった。
「僕の体になったら僕と一緒に遊んでくれよ」
不意に出た自分の言葉に少し驚いたくらいだった。
肺まで凍りそうな空気。油であったかくなったお魚を一生分食べた気分だった。
それが、じいちゃんが死ぬずっとずっと前の話。
1月のアパートはとても寒い。
エアコンはあるけど部屋の構造がロフトがあるから天井が高くて温まりにくい。
「良い所だよ。夏も涼しいし、冬はスノーシューでトレッキングができるし。」
「興味ないよ。」
「良いと思うの。森林にハーブに、湖!」
「だから、ぜんぜん興味ないって。」
21歳。移住の話を持ちかけられている。田舎暮らしに憧れて大学を卒業してすぐに誰も知らない山の中に引っ越していくあれだ。
きっかけはなんでも良くて、都会暮らしに疲れたり、地域の伝統工芸に魅せられたり、森を守りたかったり。
彼女がそんなことを急に言い出して早半年。
「いつき、一緒に行こうよ」
「嫌だって。」
「じゃあ、別れる。」
この押し問答も半年続いている。別れるって言いながら、最後は別れたくないって泣くんだ。
「だって、いつき、都会には疲れたでしょ?」
都会には疲れていない。就活に疲れている。昨日も二次面接まで漕ぎ着けたのに、結果は不採用だった。
「このままだと、バイトで食い繋ぐしかないよ。」
ひどいことを言う。僕がどの会社からも必要とされないみたいに決めつけている。
「それよりさ、田舎でカフェやろうよ。畑やってさオーガニックのパンを作ってハーブティーとかソーセージとか出してる畑の中のおしゃれカフェ。いつきイケメンだから絶対流行る。」
安易過ぎて、その設計図は今すぐ燃やした方がいいと思う。
「パンとハーブティーとソーセージだけで、365日生きていくだけの儲けが出るとは思えないよ。だいたい初期費用はどうするの?設備は?個人事業だよね?税金のことちゃんとわかってる?衛生管理とか免許持ってるの?だいたい絵梨はさ…」
僕は、天井の低い空想物語の屋根を簡単に取り外してしまう。
「いつきは、いつもそう!!」
泣かせてしまった。泣いたって構わないと思う。僕の発言で誰かが立ち直れないほど泣こうとも関係ない。
「もう嫌!本当に別れる!!」
彼女がそう言い残してアパートを出て行った。追いかけなくても良いやって思ってその場から立ち上がろうとさえしなかった。
ただ、今まで人にしてきたことを振り返ると、正論をぶつけて壊したものがずいぶんあることに気がついた。
今のままで、なんで満足できないんだろう。
常に思っていることだった。
じいちゃんが死んだのは小6の時。
じいちゃんは遺産も遺品もろくに残していなかった。親戚のみんなが集まって家の中のものを整理したけど、貯金通帳にはわずかばかり数十万円程度の貯金しか残っていなくて、葬儀屋さんに払うものを払ったらなくなってしまった。
みんなは口々に何も残さなかったって言った。
台所には使い込んだ食器。
いつもいた居間にはワカサギ釣りの道具。
全部捨てるって聞いた。
「ねえ、お父さん。」
「なんだ?」
「釣り竿とか針とか僕にちょうだい。」
「あんなもんガラクタだ。持っていてもしょうがないだろ」
「じいちゃんは、アレでお魚食べさせてくれた。」
「…好きにしなさい」
じいちゃんの唯一のじいちゃんらしい時間だったんじゃないかって。そこに僕がいたことに意味があったんじゃないかって。
子どもながらに思ったけど、今、あの道具は全部実家に置いたまま父の言う通りなんの役にも立っていない。
LINEが来る。
”君、本当にもう私と会わないつもり?”
絵梨は、極端に寂しがりやで極端に怒りっぽいから絶対に田舎で暮らすなんて無理だって僕は思う。
だけど、半年も言い続けてる。なんでそんなにあんな不便なところに行きたいんだろう。風も冷たいし、コンビニも近くにないのに。
”今度、僕の地元に行こうか”
そうLINEを送った。
都会から比べれば人がいない。タクシープールのタクシーも台数が少ない。彼女にとってはそれさえも珍しい。
タクシーで15分。僕の実家に着いた。
でも、目的地じゃない。父も母もいない時間を見計らって来たのだ。
じいちゃんの釣り道具は、クローゼットの奥にまとめて置いていたからすぐに持ち出せた。
「ねえ、どこに行く気?」
「桧原湖」
「今から?」
「まだ、午後になったばっかりだ。ロッジもあるし一晩泊まってみようよ。田舎ってやつに。」
「君って意地悪だよね。」
「絵梨の設計図を具体的にしようと思うだけだよ」
意地悪をしているつもりはない。少し、頭にくるなと思った。だけど今は、僕がやりたいようにしているだけだし、しょうがないなって思う。
「どうやっていくつもり?」
「どうって?」
駐車場には、母が休みの時に使うためのビッツが一台。
「これを借りよう。」
「え?」
「鍵、持ってくるよ」
「待って待って、知ってるの?」
「何が?」
「おうちの人、今日、君が来て、車を借りること」
車は実家に来れば勝手に借りていたし、いちいち知らせることもなかったし、勝手に借りても何か言われることもなかった。
家に入って鍵のある引き出しを開けて鍵を持って来た。
「君、どこかおかしいよ。」
「そんな僕とよく付き合っていられるね。」
車に乗り込むと彼女は渋々シートベルトをする。僕がおかしいのだろうか。彼女が真面目なんだろうか。
高速に乗るにもETCが着いているし、カードも入っている。これらは全て母に請求が行くから後で振り込んでおくことにしている。
裏磐梯に着いて車を降りると彼女は一瞬で凍りついた。寒いとかなんとか言いながら僕の後をついてくる。
「こんなに寒いならもっと服を着てくればよかった。」
何も知らせなかった僕が悪いように恨みの目を向けてくる。
「これが、夏が涼しくて、冬はスノーシューでトレッキングができる田舎だよ。」
「鬼」
「そうかもね。」
僕がしていたマフラーを巻いてあげて、カイロを一つ握らせた。
「優しいなんて思わないから。」
精一杯の恨み節に笑いそうになった。笑ったら失礼だから、少し悲しい顔を作ってみたけど10秒ももたなかった。
「なんで笑うの!」
怒り出す彼女に子どもの頃の自分が重なる。
僕を初めてワカサギ釣りに連れて行ったじいちゃんもこんな気分だったのかな。
僕はじいちゃんの後について行って釣りをするのを見ていただけだからちゃんと釣りができるわけじゃない。
生き餌を上手くつける自信もないし、釣れたあときちんと針を外せるだろうか。
父に何度か釣りに行こうと言ったが、父は釣りが好きじゃなくてじいちゃんとの釣りを再現することはできなかった。
「絵梨、あのさ。」
夜のロッジは僕たちしかいない。薪ストーブにはなんとなく薪を焚べてみた。きちんと燃えてくれて暖がとれる。
「何?」
「僕ね、釣りってやったことないんだよ。」
「え?」
「絵梨はある?」
「あるわけないじゃない!」
怒ってしまった。怒るのも無理はないか。いきなり寒いところに連れてこられて、薪ストーブなんて初めて使う代物に、誰もいない少し気味の悪いロッジ。毛布もカビ臭くてないよりはマシだけどできれば使いたくないようだ。
「生き餌ってあるじゃない?」
「え?なんの話?」
「あれって、餌になるために生まれたのかな。」
「待って、お魚の餌の話?」
「そう。」
「だったらそうでしょ?」
「みんなそう思ったとして、何割がやっぱり嫌だって思うんだろう。」
「思わないでしょ」
「そうなの?」
「魚の餌に気持ちがあるって知っていたら、餌にしないと思うから、気持ちは無いの!」
「ふふ、怒んないでよ」
彼女のイライラはピークで、僕は彼女を自分の気持ちで弄ぶのが楽しかった。
彼女とはこれから先、何一つうまく行く気がしない。僕を散々試したようだけど、僕には何一つ響かなかったんだ。
「笑っていられるのも今だけだから」
「そうかもね」
「生き餌がつけられなくて、泣いても助けないから」
「絵梨だってできないでしょ」
「私は良いの!」
薪が燃えていく。炎の燃え上がるのが綺麗だ。
「ねえ、悪く無いね。」
絵梨が僕を見て微笑む。でも、残念ながらキスをしたいとも可愛いとも思わない。抱きしめたいともセックスしたいとも、全く思わない。
「本当に田舎に住みたいの?」
薪を一本、炎の中に入れながら聞いた。絵梨は何も言わない。今日だけで嫌になったんならそれはそれで良いんじゃないか。それに
「…僕には、もうわからないよ。ここの良さなんか」
昔の記憶は断片的に時に大きく現れる。
「いつき、じいちゃんから何かもらわなかった?」
お母さんがそう言って、僕の持っていたバッグを覗き込む。帰ってきてすぐに中身を引っ張り出されて何も入っていないバッグをひっくり返すものだから、僕は泣いた。
「泣いてもダメよ。何か隠してるでしょ?」
じいちゃんからもらったのは、たくさんのお魚。それと本当は、ハンコをひとつ。僕専用のハンコをもらっていた。
「お魚…全部お腹の中。」
「お魚だけなの?」
「うん。」
何回目かのワカサギ釣りの帰りに、僕のジャンパーのポケットに入れてくれた。絶対に誰にも見せちゃダメだと言われて、約束を守っていた。
「そう。じゃあ泣かないで。」
お母さんはすぐに僕を信じるから、じいちゃんとの約束は簡単に守ることができた。僕が泣き止むまで、僕を抱きしめる、顔も頭もたくさん撫でてくれる。
「寒かったでしょ。」
僕のニットの帽子を脱がせて母がまた頭を撫でる。母なりの精一杯の愛情表現だった。
「着替えてきてね。」
自分の部屋に入って鍵付きの宝物入れにハンコを入れた。なんのハンコなのかその時は全くわかっていなかった。
「ところで君は…」
薪ストーブをじっと見ていると彼女が推理小説みたいに話を切り出した。それがおかしくて思わず吹き出した。
「笑いのツボおかしいよね、君。」
丁寧に否定していただいて、僕は彼女の方をちゃんと見た。
「私がお魚が苦手だって知ってるよね。」
「あれ、そうだっけ。」
「やっぱり。…君は私をきちんと見てない」
「ようやく気づいたんだね」
最近…というか、出会った頃から僕は彼女をきちんと見たことがない。いや、彼女以外にも他人なんかどうでもよくて性格とか、行動とか僕には関係ない。
だから、そんな当たり前なこと言われてもおかしくてつい、また笑ってしまう。
「人と距離を縮めるのが苦手でしょ?私が近づいても離れていくのは君の方。」
本当のことを言われると、少し自分の中にある壁が崩れる気がした。雪が踏み固められたような壁に亀裂が入り崩れる。
「初めてだね。絵梨がそんなふうに言うの。」
偽物の出すような手つきで彼女の髪を撫でた。触れてみると温かく、寒い部屋もいつの間にか温まっているのがわかる。
「絵梨、僕といてもこの先何もないよ。」
「…わかってる」
「ならどうして、僕を求めるの?」
「好きだから」
真っ直ぐな目に僕は冗談みたいな気持ちが湧いてまたついつい笑ってしまった。人の気持ちを受け取る受け皿を持っていないことがはっきりとわかってしまう。
「ごめんね、今まで」
僕がそう言うと彼女が泣き始める。
3年の春、就活セミナーで出会った彼女。長い髪と黒い瞳で人懐こさを全開にして近づいてきた。逃げられなくて一緒にいるようになったけど、興味がないせいか彼女を深く知ろうとは思わなかった。
「君はズルいよ」
「そうかもね」
薪を焚べ続けると炎は勢いを増した。
山並みから朝日が登る。
『いつき、太陽はな1日の始まりなんだ』
一度だけこのロッジにじいちゃんと一緒に泊まった。
『いつか大人になったら、いつきが持って帰りなさい』
大きく言えばこのロッジはじいちゃんの別の家だ。何年も別の人が管理しているけど。
横を見ると彼女はまだ眠っている。起きる前にじいちゃんとの約束を果たそうと思う。
『親父がこれだけしか持ってないわけないだろ』
父が悔しそうに、四十九日に言っていた。
ロッジがじいちゃんのものだと言うことはじいちゃんの妄想であったなら僕はそれはそれでよかったと胸を撫で下ろすんじゃないかな。
『太陽に一番近いところにじいちゃんの大事なものをしまっておくからな』
南側に作られた使い勝手の悪いキッチン。システムキッチンの上、天井が開くようになっている。
システムキッチンに上がって天井の中に手を入れた。布の感触。引っ張り出した。
結局、僕がワカサギを釣るのは、よくできたテントの中だった。ビジターセンターのスタッフが常駐していて、ワカサギを釣るための穴も開いている。生き餌は500円。道具も置いてあるから、じいちゃんの道具は使わなかった。
「うわっ!きもっ!!」
一匹丸々だと大きいからナイフで半分にしてから針につけていく。
「絵梨、やってみなよ。」
「無理無理無理!!」
「やっぱり絵梨には田舎は向いてないよ。」
僕は淡々と生き餌を半分にして針につけた。
「穴に垂らして」
彼女に竿を渡す。恐る恐るゆっくりと針は湖の下へ。
「糸を引いたら引き上げるんだって。何匹かかるかな」
生き餌を切りながら僕が淡々と喋るから彼女は言葉を失ったようだった。
食べる分だけ…針に餌をつけて、穴の中に入れた。じいちゃんはあの頃どんな気持ちだったんだろう。氷の下のお魚に何か話しかけていたんだろうか。静かにただじっと。指の感覚に集中しながら。
『いつき』
じいちゃんの声がしたように思える。指を糸がつついた。引き上げてみると4匹。
「いつき、すごいね」
彼女が声を弾ませる。彼女の手元も引いているようだ。
「絵梨、あげてごらん」
素直に引き上げてくれた。3匹かかっている。
「すごいんだけど!」
目を丸くしてワカサギが跳ねるのを見ている。僕が自分の針のワカサギを外してバケツに逃すと思っていたよりもスイスイ泳いだ。まるで、今、息ができなかったことなんか嘘みたいに元気よく泳いでいる。彼女が釣り上げた方もそう。同じように泳がせると何事もなく動き回る。
「かわいい。」
なんでもかんでもかわいいって言えるのは無邪気を通り越して残酷だと思う。7匹のワカサギを何度も数えては
「ワカコ、ワカキチ、ワカノスケ…」
名前をつけ始める。僕より変わってるってそう思う。名前なんかつけたら食べる気にはなれないだろう。
「絵梨はこのワカサギ飼うつもりなの?」
「君は、食べてしまうの?」
世界中で僕だけがワカサギを食べるみたいに言ってくるから少し驚いた。
「一回釣り上げたら、あとは死んじゃうだけなんだよ。その死を無駄にしないために…。」
自分で言っていて、なんだかおかしいと思う。5歳だった僕には、じいちゃんはこんなふうに説明しなかった。食物連鎖と弱肉強食を小さな子どもに言ってもしょうがないからだ。じいちゃんは、何年分生きて僕にものを教えてくれたんだろう。
死を無駄にしないなんて綺麗な言葉を選ぶのは変に知恵がついたやつの言う言葉。
「私も食べようかな…」
「魚、嫌いでしょ。」
「自分で獲ったって思えば、食べられる気がする。…それにさ。」
「それに?」
「天然のお魚なんて幻でしょ。」
釣り場にいるワカサギは放流されてるから天然ではないはずだ。でも、そう思っているならそれが正解だっていいんじゃないかな。
「おもしろいね。」
じいちゃんがやってくれたみたいに、スイスイ泳いでいるワカサギを掬って粉をかけて油に潜らせた。
手を合わせて合掌する彼女に白々しさは感じなかった。多分、いただくってことを理解しようとしているから、僕も真似して手を合わせた。
万物の命をいただくこと。それは僕たちが生きるために欠かせないこと。
見事に唐揚げになってしまったワカサギ。
「せーのっ」
「ふふ、せーのって何?」
肝心なところで笑ってしまう僕。彼女がそれを無視して
「いただきます!」
箸を持って一匹、口に運んだ。嫌いだと言うお魚を食べるには覚悟がいるらしかった。
僕も小さくいただきますを言って食べる。あったかいハウスの中で食べると、あの頃食べたワカサギの味とは随分違うと思った。満たされているとはこういうことだと思う。
「なにこれ!信じられないくらい美味しい!!」
5歳の僕と同じ反応をする。だけど、僕ときたらあの頃のじいちゃんとはきっと同じ気持ちじゃないんだ。
じいちゃんみたいに優しい人間になれないことが悔しいってそう思う。
目の前の人がどんなに喜ぼうと、よかったねって言ってあげたい気持ちにはならないんだ。
「そしたら、もっと食べたら?」
お塩をひとつまみ、自分のワカサギにかける。たしかに美味しいけれど、僕には胸を弾ませるようなものではなかった。
「贅沢だね。こんなこと。」
「そうだね。」
そうだよ、じいちゃんは僕に贅沢をさせてくれていた。僕はそれが今になってわかった。2人きりでいる時間も自然とのつながりも全部贅沢だった。
「絵梨、どうするの?」
「え」
「やっぱり移住したいの?」
僕のじいちゃんとの時間は特別で贅沢なもの。それは日常じゃないから美しい。
「贅沢が当たり前になるのが寂しいって思うのは僕だけかな。」
じいちゃんは、ここでの暮らしが当たり前で日常だった。お魚との少しの駆け引きを楽しむのが唯一の自由な時間だったんだろう。
「この贅沢を味わいたい人に繋げたいって思うのは悪いこと?」
「湖の上にいたら、わからない世界の話…。」
僕は、田舎のなんでも知ってる空気が嫌いだ。近所の人の噂と悪口を嫌というほど聞いたのはじいちゃんが死んでから。父も母もじいちゃんを悪く言った。道楽に明け暮れて金を使い果たしたとか。
「田舎の世間は狭いよ。それでも良いの?」
人に興味がある人間は重箱の隅をつついてほこりを出すのが好きだから、僕は二度と帰ってきたくないと思う。
「田舎に疲れて、都会に帰ってこないでね。」
誰かのためになんか喋ったことはない。自分を守るために覚えた正論と憎まれ口。
「君は、やっぱりそうやって突き放すんだね。」
誰かのために生きるなんて馬鹿げていると思う。
天井の高い部屋。エアコンが効かないからファンヒーターを買った。毎年、迷っているうちに春になるから、迷うのをやめたんだ。
就活を再開すると、僕が働ける場所が見つかった。いまいち人間の感情についていけない僕には適した場所だと思う。
絵梨は田舎に行くことを諦めた。寒すぎて帰ってきてから40度を超える熱を出して、僕の看病を受けることになって考え直したようだった。聞けば田舎でカフェをやりたいなんて思ったのは地域おこし協力隊がテレビで取り上げられていてほんの少しの憧れで就活がうまくいかない自分を助けてあげたかったらしい。まあ、そんなところだろうと思ってはいた。
「君が私を止める理由がわかったよ」
熱でうなされながらそんなことを言っていた。現実は甘くないのだと実感したそうだ。
「でも、いつかやってみたら?一度夢見たことはやってみないと勿体無いと僕は思うよ。」
無責任にも程がある発言をしたのはこの日が初めてだった。じいちゃんが聞いたらずいぶんな物言いだって笑われそうだ。
ロッジから持って帰ってきた袋には、じいちゃんが全国にある銀行で作った僕名義の通帳が入っていた。
こんなものがよく何年もあの屋根裏にあったものだと関心した。預金は、8桁に届いている。ハンコを預けたじいちゃんの気持ちは優しさなんだろうか。
そうじゃないとしても金でしか物を見ない父たちから僕に逃したのは得策だと思う。
僕がこれを見た時のことをじいちゃんは想像したんだろうか。
必要な分だけ必要な時にって教えてくれたのがじいちゃんでよかったと思う。
これは僕とじいちゃんの一生の秘密。
だから、今の僕は”無いもの”としてこの袋をクローゼットの奥にしまい込んでいる。
湖の下のお魚とじっと話をしていたじいちゃんを思い出しては、人に関心を持つ方法を探している。
5歳の僕はまぎれもなくじいちゃんが大好きだったから。
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興味があったらどうぞ!
ワカサギ釣り、
私は生き餌が気持ち悪くて
つけられなかったんですけど
隣にいたおじさんがつけてくれたんですよ
そんな思い出があります。