【短編】共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜③
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少しだけ暖かいなって思う。お昼前の11時。
日中の太陽は残酷だと思う。全てを明らかにして影に逃げ込もうとも追いかけられる。
僕は少しだけ嫌だなって思いながら、約束した場所まで自転車で向かう。
川内さんに悪いなって思いながらアルバイト先の親方さんの奥さんの美恵子さんと出かけるようになった。
本当に悪いなって思わなきゃいけない相手は親方さんかもしれないけれど。
ランチをやっていない料理屋は、午後2時ごろから仕込みが始まるようだった。僕のアルバイトは夕方5時から。だから、仕込みの風景は知らない。
日中、美恵子さんは、お家の用事を済ませたり、趣味の映画を見に行ったり。比較的自由にさせてもらっているとか。
「アニメ映画はね、おばさん一人で見に行くには少し恥ずかしくてね。子どもが見る物でしょ?越智くんがいて良かった。楽しかった。ありがとう。」
僕には甘くて美味しいケーキをご馳走してくれて、美恵子さんはコーヒーを。
僕にまで届いてくるのは、コーヒーの香りよりもドラッグストアで手に入る甘ったるい香水の匂い。
「ご馳走様です。映画代まで…」
「いいのよ。」
生クリームが牛乳の味がする。スポンジは少し弾力があって挟んであるフルーツは季節を問わなかった。
「ねえ、タピオカってもうないのかしらね。」
「…このお店にはないですが、他のお店では息を顰めながらも静かに出番を待っているかもしれません。」
「まるでブームを去ったお笑い芸人ね。」
「とはいえ、ポテンシャルは高いはずです。」
「そうかしら。タロイモよ。」
「一部はこんにゃくであったり。」
「コンビニね。」
「僕はファミリーマートのタピオカミルクティーが好きでした。」
「でした…よね。そうよ。」
「また、あれば…おそらく買うと思います。」
「昔の恋人との再会のようね。」
「どうでしょう、昔の恋人はそのまま思い出に。」
「越智くん。」
「はい。」
「簡単な話よ。」
「え?」
「再会は美しいの。」
「…え?」
「思うものなの」
誰にも聞こえないように僕の耳に近づいて、大人らしいことを話す。甘い香水はより強く感じてシナプスの組み替えは、直結型で実に単純で、大事だった人との行為を思い出す。その人のボディクリームの香りさえも。
「そういうものだから。」
「へえ。」
口角を上げて作り笑いを浮かべる。僕のその顔を見て優しい笑顔を見せてくれる。
「恋人になりましょうか。私たち。」
炊飯ジャーのスイッチを押して、電子音が流れることに慣れてきた。
「ご飯炊いたの?越智くん。」
今日はアルバイトが休みだから川内さんの家に来た。夜6時にはうちにいるって教えてくれたから、勝手に来て勝手にご飯を炊いてみた。無洗米で一合のパックだからお米に触らなくて良い。
川内さんと目を合わせてはいけないような気がする。
「シャワー貸してください。」
「誰かとどこか行ったの?今日。」
「映画を見て、ケーキを食べました。」
「楽しかった?」
「アニメ映画は疲れましたし、僕はケーキよりマシュマロが好きです。」
「俺に隠し事がしたいの?かわいいね。」
「何も隠していません。全て話しました。シャワー貸してください。」
「いいよ。」
川内さんは僕を少しだけ揶揄うように僕が目を合わせないのをわかりながら、僕の顔を覗き込んでくる。眉間に皺を寄せて俯く僕ににっこり笑う。
「なんか、嫌なことあったの?」
縋らない。僕は決めている。
「ないです。」
「本当?」
「ないです。」
「泣いても良いよ。」
「泣きません。」
胸の奥をちくちくチクチク。声も言葉も匂いまで僕を揺るがす全てだ。
「恥ずかしくないよ。」
「嫌です。」
僕のネックウォーマーに川内さんが手をかける。静脈の近くを切って何針も縫ったその首を隠していることを知っている。
「強がらないで良いよ。どうしたの?」
涙が溢れて溜めきれなくて川内さんの手に落ちる。ポタポタポタポタ。血液の流れるその速度に似ている。
「僕は、女の人が嫌いです。」
「そうなんだ。」
「嫌いです。嫌です。いなくなればいい。」
「…だから、シャワー浴びたいの?」
「してません、汚いことは。」
「ふふ。信じるよ。」
川内さんに甘えてはいけないと、僕は依存してはいけないとわかっている。
川内さんの料理はとても簡単だけど、僕にはとても贅沢だと思った。
シャワーを浴びた後はどうにか傷跡をタオルで隠している。
実家にいると傷跡を目にするたび両親の表情が曇るから、季節を問わず首を隠していた。
「お風呂上がりは暑いでしょう。」
川内さんは僕の首のタオルを外せとばかりに言ってくる。
深く息を吐いて、傷跡を晒す。
首を刃物で切ったのは心療内科の病院を退院してからだった。
起き上がるたびに頭がくらくらしてこんななら、生きていなくていいやって。
僕は生まれてくる世界を間違えたって。
口にするものは全て砂みたいな味だったし、家を一歩出れば途端に息ができなくて動けなくなったりして。
外を歩く猫が庭を横切るたびに、僕は人間である自分が許せなかった。
台所で持った刃物が包丁だったか、キッチンバサミだったか覚えていない。
首に当てて生ぬるいものが体に落ちていくのを感じた。
「僕は…ばかです。」
「そうだね。」
傷跡を優しく触る川内さんは、僕と交わりたいと思っているんだろうか。
「でも、それは越智くんに限ったことじゃなくて。人間は、みんな馬鹿なんだよ。今日も生きてる。越智くんは、今日も頑張ったね。」
抱きしめられる。人の体温に匂いに。
僕は川内さんを抱きしめ返さない。頼り切ってしまいそうだから。
胸の奥が破れていく。音を立てて。
「嫌だ。嫌だ。」
子どもに見られる僕は、子どものように振る舞う。
「どうしたの?」
「話していいかわかりません。」
支離滅裂な僕を慰めようとする。
美恵子さんに言われたことが頭によぎる。
恋人などなれやしないのに、安い冗談を言う大人は嫌いだ。
とてもステキだと思った恋人は、僕の前からあっさりいなくなった。
「僕は、きっと被害者ではないし、悪い冗談なら受け流さなきゃいけないんです。なのに、怖いと思いました。人には気持ちがあるから、僕には怖いんです。嫌いです。嫌です。怖いです。」
「大丈夫。大丈夫だよ。越智くん。」
背中をトン、トンと優しく叩いて摩ってくれる。僕はすっかり川内さんに甘えている。
「よしよし。」
炊飯ジャーのアラームが鳴って
「ご飯にしようね」
僕から体を離した川内さんがにっこり笑う。
「ご飯炊いてくれてありがとうね。」
さっきまですぐ目の前にあった体温が離れて寂しいと感じる僕は、川内さんに依存しているに違いない。
「これじゃいけないと思います。」
「ん?」
「僕は、これじゃいけないと思います。」
「ご飯の後に話そうか。きっと真面目な話なんだろ」
ここに来いと、食卓で手招きをする。
「今日の越智くんは、不安定だね。」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ。」
白米を口に運ぶ川内さんに僕は目を合わせないようにする。食卓には鮭。それにほうれん草。
「いえ、ごめんなさい。」
「水加減がちょうどいい。このぐらいのご飯の硬さ好きなんだ。」
「え。」
「他人が向ける自分への感情は、自分の受け取り方次第だと、俺は思うよ。」
「川内さんは僕をどう思いますか。」
「ふふ。難しい質問だね。うーん。」
鮭の切り身を上手に骨を取って一欠片、口に運び咀嚼する。僕も真似をして一口。口の中で塩味が広がる。鮭ってどのくらい生きてから切り身になるんだろう。
「おいしい?」
「はい。」
「良かった。大事だよ。美味しいって。」
「え。」
「せっかく、生まれて死んだのに、食べられて美味しくないって言われたらうかばれないよね。」
「なんですか、それ。」
「越智くんといるのは、俺にとってそういうこと。」
川内さんと再会したのは、薬局だった。
本来なら退院後は、患者同士の連絡の取り合いは許されない。とはいえ、それを制限できるなんて誰も思ってはいない。頑なに守ることのできる約束ではないのだ。
「安心していいよ。俺は君を簡単に手放さないから。いい?」
口の中にあるものを飲み込む。意識して少しずつ。
「簡単なことだよ。俺は君がいると楽しい。吐き出して。取り乱していいよ。君が壊れるより遥かに些細なことだ。」
今日1日の生ぬるい香水の匂いを思い出す。女の人の生々しい欲に引き摺り込まれそうになった僕は逃げ出した。恋などしたくない。はっきりとした拒絶がそこにあった。
「私と付き合うか、料理屋をやめるか選びなさいって言われました。」
「越智くんはかわいいからね。」
ため息と同時に出てきた言葉は胸の奥を抉ぐるようで今食べたご飯を全て吐いてしまいそうなほど。
「川内さんに内緒で美恵子さんと何度か出かけてました。」
「親方の奥さんでしょ。」
「いいのって。一人じゃ行けないからって。」
「付き合いたいの?」
「いいえ。好きじゃありません。でも、あの料理屋を紹介してくれたのは川内さんですし、辞めることになったら、僕は申し訳ないと。」
川内さんは、ご飯の最後の一口を口に入れて、お茶を啜った。
「大人はずるいな。」
吐き捨てた一言に乗せられた感情を掴む。怒りではなく哀れみのようだと感じる。
「誘いを断れないように君を何かで縛って、満足できなくなったから手に入れようとしている。君ならきっと誰にも真実を話さないし、何より小さくてかわいいから欲を満たす道具としてちょうどいいんだろうな。」
またひとつ、ため息。
マシュマロにご飯に…僕を生きさせるために提供してきた川内さんからすれば、僕が他の人のおもちゃになるようで面白くはない話。
「ごめんなさい。」
お小遣いをいただくことの意味が、お気に入りのおもちゃになることを表すなら今すぐにでも全て返すべきだと、もらった金額を計算してみる。
「越智くんは、俺の世界に生きてみたいって言っていたから、その選択肢がある以上、俺は君の味方であると自信を持ってほしい。」
言葉がストンと胃に落ちる。川内さんと目があった。そらしてはいけないような気がしてじっと見つめた。
「ごはん、ご馳走様。また、お願いね。」
スッキリと何もなくなった食器たち。僕の方は、まだ少しほうれん草が残っている。急いで追いつこうと残りを食べる。
「焦らなくていいのに。」
ふっと笑われて、僕は本当に子どもじみていると思う。空になった器を川内さんが覗き込む。
「よくできました」
ずっと、きちんと食べられなかった僕が、1人分を食べられるようになったのは川内さんのおかげ。
「ご馳走様です。」
「うん。」
間接照明のオレンジ色。歯を磨いて食品の味がしない口内。広い世界にはちっぽけな終わった恋の話。
止まりそうな呼吸を助ける体温。
依存するには十分。
マシュマロをもらった時からきっとそれは始まっていた。
共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜③
④につづく
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