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自他の区別がなくなることが個人性の消滅

以下は私と師匠が真我について問答した時のお話です。

【私の発言】
「自分の内と外がつながったという実感がないです」
「私はまだ私個人が死ぬ感覚もワンネスも本当の愛も知りません」

【師匠の教え】
貴方が内と外の一体感を感じると言うことは永遠にないです。
貴方が消え去った時のみ、それは体験されるからである。
貴方が目指すものは体験ではないんだ。
体験者がどこにもいない体験なんです。
個人である貴方が全体性を体験すると言うことはない。
個人である貴方が消え去っている時、そこに残るのが全体性なのだ。
その全体性がわからないと言っているのは誰だ。
全体性が全体性をわからないと言うだろうか。
真我は全体性であり、全体性が全体性をわからないと言うことはない。
全体性がわからないと言っているのは個人性に属する個人であり、真我は全体性をわからないとは言わないんだ。
真我は個人性をわからない。


【私の発言】
真我であるところを見つけた場合「見えた!あれだーっ!!」となるのでしょうか?

【師匠の教え】
一体これは誰が言ってます。
真我は決して見えたぞなどと言いません。
真我は初めからそれだからです。
人は悟りを真我を求めるが、人が悟ることは永遠にないんです。
その人が消えた時のみ悟りです。
俊和さんのコメントを読んで思うことは自我が真我になろうとして精一杯、真我のつもりになれる場所を探している。
個人と真我を切り離してそれらしい場所を探し、うろうろしている。
何が必要だろう?
あなたの「死」なんです。
私は貴方が死ぬまで間違いを正します。
自我が自分で死ねると思いますか?
そんなことは不可能だ。
だって自我は自我の為にやっているのだから。
だからどうしてもグルが必要なんです。
さて、今日はもう一つ大事なことをお話しします。
人は特別になりたくて悟りを求めたり、真我の探求をします。
だが覚えておいて。
貴方が真我を自覚したら悟っていなかったのは自分一人だと言うことを自覚します。
周りには始めから真我しかなかったからです。
全ては貴方一人の為に真我が人のフリをしてドラマを見せていただけです。
真我を実現した貴方はそのドラマを終わらせる為にただ働くだけなんです。
ドラマの役者である人のフリをした真我にもういいよと言うだけなんです。
皆さん悟っていないのは自分だけなんですよ。
周りに見える人は真我が人のフリをして、貴方のために役をこなしているだけなんです。
だって始めから真我しかなかったんですから。
私は私のドラマの役者である人のフリをした真我に、貴方は真我でしょうと言っているんです。
悟りは決して自分のものにならないし、悟ってみたら真我しかいなかったというオチです。
誰に自慢するどころか悟ってないのは自分だけでしたと言うオチまで付いているんです。
全く面白いね。
要するに自我が真我でいれる場所を探すのにも限界の壁があるんです。
それは自我は決して個人性を超えることはないと言うことです。
だから勇敢になったり、心の動揺がおさまったり、自他の区別なく生きることが出来たりすると言うことはありません。
真我とは、神とは全体性であり、個人性の中で個人として生きることは不可能なんです。
それを自覚した者たちは全体性が個人性の中で生きるんです。
個人性に合わないことを言うからユニークになる。
忘れないで、貴方が「死ぬ」まではそれを知ると言うことは絶対にあり得ないんです。
貴方がなすべきことは「私の死」だけなんです。
人の言う「私」とは心の波にすぎません。
心がさざ波ひとつたたない鏡のようになるとそこにもう貴方はいない。
個人性はすでに消え去り、全体性だけが残ります。
何も難しくないんです。
心が静かになってきた証は個人性が薄れて行くから勇気と愛が湧き上がってくるんです。
自他の区別が薄れて来るんです。
どんな体験をしたかなど関係はないんです。