瞑想とは永遠なる過程
あるグルは『瞑想しなさい』と言います。
かたや別のグルは『なぜ瞑想が必要なんだ?』と言います。
当時の私が瞑想について持っていたのは心を静かにするための修行というイメージでした。
師匠との学びの中で瞑想の話題はありましたが、瞑想しなさいとは言われませんでした。
だから瞑想とは何なのか聞いたことがありました。
師匠は『瞑想とは何もしないことだ』『世界一退屈な行為が瞑想だ』と言い、師匠の教えでは瞑想に目的や意図があると瞑想ではないと言います。
つまり何かを得るために瞑想すると、その瞬間から瞑想でなくなってしまいます。
また何もしないことが瞑想なのに、瞑想しようと思うだけで瞑想でなくなってしまいます。
人の行為の前提には必ず『~のため』がありますがこの『~のため』がなくならない限り、瞑想にならないから瞑想は難しいのだと言われます。
だから師匠はひたすら座ることを教えてくれました。
しかし、当時の私はひたすら座ることの意味がわからず、ひたすら座ることを実行しませんでした。
今ならある程度意味はわかるので、現在の見解で述べさせてもらいます。
先に書いたように人の行為の前提には『~のため』があります。
それは何かを得るためであり、得るのは自分だから自分のためということになります。
自分のためとは我善しのことで、これが強ければ強いほど心は騒がしくなり、瞑想から遠ざかるわけです。
師匠が言った『瞑想とは何もしないことだ』の何もしないこととは自分のために行為しないことだと私は感じています。
そして自分のために行為しないから、世界一退屈な行為となるわけです。
世界一退屈な行為を続けるためには相当な覚悟が必要です。
これは座る時に限らず、実生活のあらゆる場面で言えることです。
だから師匠は24時間の瞑想というのをしきりに言っていました。
瞑想とそうでない時があってはならず、常時瞑想となって瞑想と言えるわけです。
生きていると嫌う心、裁く心、怠け心、恐れる心に支配されることがあります。
そういう時ほど思いや感情と同化して行為せず、思いや感情と共にひたすらあり続けることです。
このひたすらあり続けることがひたすら座ることであり、故に座る時以外も行となり、それが出来て24時間の瞑想が完成するのだと私は思っています。
以下は私の発言に対する師匠の教えです。
【私の発言】
結果は操作できなからほうっておいて操作できる過程に集中しよう、と以前こういう考え方に至ったことあるんですけど、すっかり忘れていました。
それでまたフッとした時に思い出してまた忘れる。
これの繰り返しです。
進歩しません。
ずっと同じ所をグルグルしてます。
【師匠の教え】
『結果は操作できないからほうっておいて』と言いながら『進歩しません』。
『進歩しない』は結果ではありませんか?
これでは結果を求めていることなりませんか?
この原因はこれです。
『現状に満足するってのは向上心のない、つまらない存在になるってことではないんですね』
向上心とは結果を求める努力です。
私の言う努力とはただ努力が続いてるだけ。
何の為でもなく、誰のためでもない。
ただ努力が続いていく。
この努力なのです。
皆さん、ここからよく読んでください。
完成とは進歩して完成するのではありません。
過程を受け入れることで完成するのです。
瞑想とは、永遠なる過程です。
瞑想は悟りの為でもなく、何の為ではなく、誰の為でもなく、何の結果も期待せず、ひたすら瞑想が続き続ける時、瞑想が瞑想になるのです。
何かの為が落ちることを、心身脱落と言います。
この状態が内側で意識がくつろいでいる状態です。
瞑想は結果を求める人には決して訪れません。
それは進歩して瞑想になるのではないのです。
進歩など考えずに行いながらあるがままを受け入れた時、瞑想と言えるのであり、だから進歩したと言えるのです。
過程のまま進歩しないまま完成し、だから進歩したと言うのです。
瞑想とは未完成の完成なのです。
瞑想とは終わりなき過程だからです。
これが瞑想の真髄です。
以下は道元さんが伝えたことです。
『徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、ひたすら打坐(たざ)の禅を伝えた』
私と同じことを言っていませんか?
結果を追い求めると、これは無限ループです。
結果を求めない努力がひたすら打坐なのです。
何かの為が完全に落ちると心身脱落なのです。
努力が何の為でもない時、努力が努力をしているのです。
瞑想が何の為でもない時、瞑想が瞑想をしているのです。
道元さんは修行の中に悟りがあると言い、私は過程のまま完成があると言う。
皆さんは進歩したから進歩したのではない。
進歩しない今を受け入れることが進歩なのです。
悟りとは今ここにあるのです。
過程の中に悟りがあるのです。
皆さんが重い責任を背負うほど結果が必要に思ってしまう。
結果は神が決めることだが、責任が重いほど神任せが難しくなるのです。
出家(小乗)とは責任の放棄なのです。
大乗とは出家せずに悟るために教えなのです。
大乗の教えとは出家せずに一切の責任から解放させるように上手く作られているのです。
誰のためでもなく、何のためでもない時、人は自然と世界の為に働き出すのです。