方便の世は終わり
師匠の教えは大変厳しいものでした。
正確に言うと師匠はただ本音を言っていただけで、私が勝手に厳しいと決めつけていただけでした。
なぜ厳しいと感じたのかというと本当の事を言われたからです。
人というのは本音と建前で生きています。
人から良い評価をもらうために、人から悪く思われないために等、つまり自分のために人は本音を隠し、建前という嘘で生きています。
当然のことながら人はこの嘘がバレることを恐れます。
師匠の本音はその嘘をさらけ出すため、厳しいと感じたわけです。
建前は人間社会の中で生きていくには必要だ、と思うかもしれません。
では世界中の人間が、国がお互いに嘘をつき続ければどうなるでしょうか?
一つの嘘を正当化するためには更に多くの嘘をつく必要があります。
嘘で塗り固められた世界は真実を、現実を覆い隠します。
現実を無視した世界に喜びはあるでしょうか?
希望はあるでしょうか?
嘘という方便の世は終わったと師匠は言います。
日月神示でも同様のことが言われてます。
原因と結果は一致する故に、嘘でつくった世界は嘘の世界にしかなりません。
上にも書いたように人は自分のために嘘をつきます。
嘘の世界とは自分本意の世界、我善しの世です。
だから終わりにしなくてはいけないんです。
本音で生きることが悟りの生き方だと師匠は言います。
本音で生きれば衝突が起こり、世界は無茶苦茶になると思うかもしれません。
個人という立場に立つ本音なら、エゴ同士の衝突となり当然、そうなります。
実際に現在、世界がそうなっているのを皆さん知っているはずです。
ですがエゴは人の本性ではないので本音とも言えません。
人の本性とはエゴがない状態で初めて現れます。
エゴのないグル(導師)達の本音は『全てのものは幸福に、穏やかであれ』です。
この本音を発現させるためにグルは弟子に対して本音を言うんです。
師匠が私に行った説法と同じです。
私はその本音とかけ離れていたため、厳しいと感じたり、恐怖を感じたわけです。
以下は師匠の教えです。
【師匠の教え】
この世は優しさと言う名の下に本音と建前が使い分けられ、方便と言う嘘で視界が悪くはありませんか?
方便の世は終わったのです。
方便と言う偏った平面の教えの世も終わったのです。
真実の世になり、全面の教えの世になるのです。
方便の教えは平面的でどれもこれも何かが不足している。
ラジニーシも出口王仁三郎も同じことを言っていたね。
必要なのと間違いは異なります。
どんなに必要でも間違いは間違いです。
この世にあるもの、起きる出来事の全ては神が許すもので必要なものです。
だが間違いは間違いに過ぎません。
これを混同してしまうと間違いも間違いのままで良いとなってしまいます。
失敗も必要だから起こります。
だからと言って失敗のままで良くはありません。
不平等も必要だからあります。
でも不平等のままでは良くありません。
戦争もテロも犯罪も無明も必要であるわけです。
必要なことと間違っていることは異なるのです。
これを混同してしまうと何も変える必要はないになります。
間違いは間違いと言うことで間違いは正されて変化していき、より良いものだけが残った時、それが世界一家です。
優しさは方便と言う嘘にならない様にしなくてはならず、関係性を保つ為という言い訳で生きるのは自我です。
それがまた本音と建前と言う物を作り、靄がかかった自我的でわかり辛い世界にするわけです。
悟りとは本音で生きることです。
誤解されたら、攻撃されたら、攻撃的と思われたら、優しくしようなどと考えて本音とは異なる建前で話したりすると、身口意がバラバラになるのです。
思っていることと、言うことと、やることがバラバラです。
この三つが同じにならなくては霊主体従ではないのです。
この三つがバラバラな状態を体主霊従と言うのです。
主と従が逆さまだからバラバラになるのです。
要するに外鏡に振り回されてバラバラになっているのです。
思ってもいないことを優しさだといって言ってはなりません。
優しさは言い方の範囲で現すのであり、それは厳しい言葉になることもあります。
間違いは間違いだと言わねばなりません。
言わねば間違いは正されないからです。
正されるのは自分の方かも知れませんが正されたらそれで良いのです。
間違いを間違いではないか、と言うことは攻撃ではありません。
間違いだと思うから間違いだと言うのに過ぎないのです。
方便と言う嘘をつかず、正直に言うことは一見厳しくも見えますが、間違いを間違いだと本音を言うことがなぜ厳しいのです。
ここは苦しみの無菌室ではないのです。
無菌室は菌に抵抗力の無い人を作り出します。
ここは菌に侵されない人を作るのであり、その為には厳しさも必要です。
こんなことで動揺したり平然としていられない人が、どうして世界の為にならもみくちゃにもなる様な仕事が出来ますか?
私はもみくちゃにされてよいのです。
踏んづけられ蹴っ飛ばされアホだと言われてよいのです。
それでもこの世に問題を提議します。
ここはどんなことがあっても平然としていられ、何があっても決して揺るぐことのない勇気を持つ場なのです。
これは悟りの条件なのです。
ここは無菌室ではないのです。
優しさから現れる厳しさは無慈悲ではないのですよ。
慈悲なのです。