こたつから出てこない娘と手をつなぐ
ある日、私が鼻歌を歌いながらリビングへ行くと、さっきまでアニメ映画を見ていた娘のハトちゃんの姿がなかった。無印良品の「人をダメにするソファー」は、人の形にへこんだままになっている。
「ハトちゃーん!どこー?」
と声をかけると、コタツの中あたりから気配がする。そして、ズビッズビッという鼻を啜る音。
「どうしたー?」
と言いながら、テレビ画面を振り返って見ると、たった今まで見ていた『カールじいさん』が一時停止されていた。
画面には、うなだれる爺さんのドアップ。
私はこたつに近寄って、布団の隙間から手をそおーっと差し込んでみた。ハトちゃんの手を探す。案の定、べとべとに濡れた手で、ハトちゃんは私の手をぎゅっと握った。こたつに照らされただけでなく、身体の内側から発される熱でハトちゃんの手は熱い。私はこたつ布団の横にペタリと座ると、出てくるのを待つことにした。
⭐︎⭐︎⭐︎
娘のハトちゃんは、自分の中の気持ちを取り出して他の人に伝えるのが極度に苦手な人だ。ハトちゃんは、発達障害児である。考えていることを整理して、言語化し、分かりやすく表現するのは彼女にはとてもとても難しい。
──ハトちゃんの心の中には、今、どんな気持ちが溢れているのかなあ。
ハトちゃんは黙っている時ほど、心にはさまざまな情景が浮かんでいるみたいだ。言葉にできないけれど色んなことをちゃんと感じ取っている。そして、気持ちが溢れてどうしようもなくなった時、一人きりの安心できる場所にとじこもって出てこれなくなる。
「ハトちゃん、カールじいさんのアニメ、止めてしまったの?」
「うん」
「嫌だったの?」
「ううん。エッエッ」
嗚咽で声が出ない。どうしたのだろう。しばらく泣いたあと、こたつの中からハトちゃんはやっとこう言った。
「カールじいさんの奥さん、死んじゃったーーーー」
号泣するハトちゃん。
「カールじいさんは、一人になったの?」
「うん」
やれやれ。このアニメはどんな話だっけか。
そう思った私は、音を小さくして初めから見てみた。
葬儀の後で、真っ暗な家に一人で入っていくカール爺さん。ハトちゃんが、再生を止めてしまったのはこのシーンのようだった。ここまでは、時間にすると10分くらい。カール爺さんと奥さんの幸せな時間が描かれていた。
「ハトちゃんは、カール爺さんを見ていて、涙が出てきたの?」
「うん」
「カール爺さん、寂しそうだったね」
「うん。うちのおジイみたいだったの」
今度は、私が言葉を失った。
この子は今、うちのおジイのことで胸がいっぱいになっているんだ。
「おばあちゃんいたけど、もういない。
モンちゃんいたけど、もういない」
ハトちゃんは、絞り出すような声で言った。嗚咽になって漏れてくる声には、戸惑いや恐れや悲しみが感じられた。繋いだ手からは、熱い気持ちが伝わってくる。
確かにおジイは、ハトちゃんの目の前で色んな喪失を味わってきた。
仲良しだった妻に先立たれた。
可愛がっていた犬もなくなった。
ハトちゃんは物語を見て、自分の知っている身近な人になぞらえて、悲しみを追体験できるようになった。
──この子は今、おジイになっている。
私は、繋いだ手の先に広がっている世界を感じていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
目の前のテレビ画面は、停止したまま。
ここで終わってはだめだ。
ここは、物語の始まりに過ぎない。カール爺さんは冒険に出発するのだ。それを見届けないと。娘よ、出ておいで!
「ハトちゃん、犬を飼ってみようか」
私は一言ひとことゆっくりとこたつの中へ届けるように声をかけた。ハトちゃんは静かに聞いている。半信半疑なのだろう。
ハトちゃんは前に飼ってた犬が亡くなってしばらくしてから、自分の犬が欲しいとずっと言っていた。私はハトちゃんの犬への本気度を見守っていた。ハトちゃんは、先日、学校の委員会活動で飼育委員に立候補した。さらにこの間、半分成人式で彼女は「将来トリマーになりたい」と宣言していた。どうやら、本気らしい。これまでは、一身にお世話をされる側の人だったけど、お世話をする側の人になったようだ。
仔犬を飼ってみよう。
ハトちゃんは、おジイが寂しそうに思えて「もうおしまいだ!」と泣いてしまったようだけれど、ここからまた冒険を始めよう。
おジイとハトちゃんと仔犬。
どんな物語になるだろうか。ハトちゃんの内面はどんどん耕されるに違いない。優しい気持ちがどんどん溢れて、伝えたくなってくると良いなあ。
我が家で新しい冒険が始まる。
また気持ちが溢れてしまったら、こたつに潜り込んでもいいよ。私は、ハトちゃんの手をぎゅっと握った。