楽しむことを拒否してきた人生
※私の心の中の話なので、誰かをディスってるわけでもなく
無意識の思い込みを解いていく話です。
「楽しんでね!」って声をかけられると
ザワザワっと緊張が走る。
楽しむって?なに?
ずっと40過ぎてからも全くわからない
正確には判ろうとしなかった感情の一つだ。
しかし、夢を叶えたり
願望成就するにあたって
この楽しむという感覚はどうやら外せないらしい。
楽しむということを全身全霊で拒否してきた私は
いうならば「今後夢を叶えるなんてことは望みません」
って宣言していたようなものだ。
ただ矛盾しているのは
側から見ると私は楽しんでいるらしい。
私はいつでも楽しそうにしていて
人生を謳歌しているように見えるらしい。
これが多分セルフイメージと
外側の私へのイメージとの大きなギャップの一つだとも思う。
楽しむということは
必要ないと思っていた。
その代わり私は「面白がる」という言葉を用いて
好奇心を刺激し
自分の中のワクワクを育ててきたように思う。
だけど、限界が来ている。
前回書いた
これにもつながるのだと思うが
もう従来の生き方では限界が来ている。
私をアップデートしないと
もう色々と頭打ちなのだ。
このことは7月頃から
うっすら自分の中で
考えてはいたのだけど
皆目見当がつかない。
なにがどうして私はこうなっているのか?
なぜ楽しむことを自分に許可してないのか?
なぜ楽しいという感情を消去しようとしているのか?
なぜそこまでして楽しいを
自分から排除しようとしてるのか?
今までは、これが当たり前過ぎて
不快にすら思ってなかったので
自分の問題としても扱ってこなかったが
もう限界が来ているようだ。
昨日から色々と見えてきて
今朝も夫と色々話していたのだけど
私の言ってることに色々と矛盾があると
突かれながら
自分の中を整理していたら
急に胸がいっぱいになって
なにやら込み上げてきた。
あ。やばいやつや。
これ泣くやつや。
案の定涙がボロボロ流れてきた。
その時に思ったのが
「お母さんみたいになりたくない」
という私の心のつぶやきだった。
あ〜そうか、楽しむと
母さんみたいになるって
子供の時にインストールしてしまったんだ。
母さんは楽しむ天才だ。
今でもそれは健在で
なにかしら楽しいことを見つけて
ウキウキしている。
楽しくない時は電池の切れたおもちゃのように
気配も消したりする。
しかしその楽しみ方が
幼少期の私には受け入れられなかった。
酒を飲み酔っては周りに迷惑をかけ
周りは笑ってはいたけれど
謝ったり、私が家に連れて帰ったり
なかなか家に帰ってこない母さんを心配して
遅くまで起きていたり
母さんは楽しんではいたが
必ず周りは迷惑を被っていた(ように見えた)
そして母は忘れていてまた同じことを繰り返す。
今思えば母の周りの人たちも
それを楽しんでいたのだと思う。
でも幼い私はわからなかった。
まだ10歳にもなってない児童にしては
なかなかのトラウマで
楽しいを選択すると
こんなことになるんだと曲解に近いものを
自分に植え付けたおかげで
いまだに酒に飲まれるということは起こしたことはない。
愚かで、低俗で、下品、快楽主義で
賢さとは程遠い生き方を「楽しんでいる人」に見出し
その証拠集めをその後の人生でも何度も行って
私は自分の人生から「楽しむこと」を排除していった。
一番覚えているのが同級生のエピソードだが
高校受験の時に
クラスメイトの女子が塾をサボって夜な夜な親の目を盗み
遊び呆けていた。
翌る日に武勇伝とも言える前の日の話を
クラスメイトに向かって意気揚々と話している姿を見て
私はなんとも言えない気持ちになった。
そのクラスメイトは私に
「あんたは顔が幼稚いから無理」
と言って夜遊びの仲間に加えることはなかったが
内心ほっとしているところもあった。
もちろんその子は第一志望は落ちて
滑り止めで受けた私立にやっと補欠で入り
高校も卒業せず、その後は
なんだかよくわからない日々を過ごしていた。
もう一人は大学受験の時。
私はもうすでに進路に進んでいたのだが
希望校に受からず浪人をしていた同級生の話だ。
医療系の道に進む!と志を掲げていたのに
入った予備校で早速好きな人を見つけ
その人とそのグループと遊んでは
全く予備校で勉強をしてないという話を聞いた。
私は浪人ではなかったので
その子たちと遊んでいても全く問題はなかったが
内心「こいつら勉強しなくて良いんだろうか?」と
人ごとながらに心配もしたりしたのを覚えている。
授業にも出ず
カラオケに行ったり遊び呆けて楽しい楽しいと
毎日を過ごしている彼らをみて
私はもしかしたら軽蔑していたのかもしれない。
案の定、志望校には受からず
全く希望してない専門学校に進んで
親の金を使うだけ使い、合わないと言って
早々に学校も辞めてしまって
バイト生活を送っていた。
その辺りまで付き合いは続いたが
私は「楽しむ」ことを優先すると
ロクなことがないと思ったし
「楽しむ」ことをするのって
意志の弱い人間で、快楽主義者で
自制心が効かない人がやることなんだとも思った。
そんなことをすっかり忘れていたが
こんなことを自分の中に刷り込んでいたのだとしたら
死んでも「楽しもう」とはしないだろう。
納得がいく。
この後も多分幾度となく「楽しむ」といっては
快楽に走り、未来を見据えることなく
その場限りで生きている人を見て
「楽しむなんて愚かだわ」って
きっと思っていたんだと思う。
なのに、いま、ここにきて
私に必要なのは「楽しむこと」ときた。
これは・・・・
キツイ・・・
涙が出るくらい拒絶したい。
あんなふうになりたくないのだから。
でも今の私は当時の私とは違う。
少し賢くなっている。
多角的な視点もちょっと増えた。
楽しむって、本当に人生を棒に振ることなんか?
まずここを疑ってみることにする。
確かに、夫に言われる通り
私は何かに没頭したり
寝食忘れるくらい好奇心に釣られて
好きなことをしていたり
ゴルフだって楽しくてやっている。
のに、それはなかったことにしている。
だって、楽しむなんて愚か者のすることだから。
口では便宜上「楽しい」とはいうけれど
「これはおもしろいだから!」と
謎の変換をして、頑なに楽しいを自分に許可しなかった。
これは、いつまで経っても自分の中に
成功体験として蓄積されていくはずがない。
私は本当に楽しんでないのか???
25くらいまでの私の写真は
全部笑ってない。
楽しそうにしてない。
楽しむと人生が破滅するって思い込んでたから
それは仕方がない。
けど、知らない間に
楽しむことを徐々に
無意識に自分にやっていたようだ。
確かに楽しいと言いながら
快楽に溺れる人もいるかもしれない
だけど、多分私は転んでもそうはならないと思う。
やることをやって
自分だけの時間を確保して
楽しむことができるし
自分の許容をわかっているから
我を忘れるまで飲んだりもしない。
金銭感覚も一応まともだから
入ってくるお金以上に使うこともない。
計画を立ててお金とも付き合えるだろう。
唯一私がリミットを外して「楽しんでいたこと」があるなら
好きなものを好きなだけ食べる。だということにも気づいた。
食べることに関しては
私も快楽主義者だったようだ。
同じやった、私も。同族嫌悪ってやつか。
そのツケが腰の周りについた
浮き輪肉となって、自分の首を絞めてきたが
7月の終わりから
自分の食事管理も行うことで
順調に体脂肪も減りつつある。
どこかを異常に抑制すると
こんなふうにどこかで異常に飛び出てしまうんだな
ということもわかったし
正しく自分の中にある定義を取り扱うことで
妄想が暴走することなく
制限をかけることもなくなる。
私の楽しむとは
周りに配慮をしながら
自分も周りも嬉しくなることで
可能性が広がり
未来へつながる
豊かな人生にするために必要なこと
品性もあり、賢さもあり、社会性もある。
なりたい未来を引き寄せるための
キーワードである。
そんなところに落ち着いた。
とりあえず今はこんなところ。
長かったな・・・