一度も目にしたことのなかった「ルーツ」を知る旅1
私の知る祖母
両親の実家には年に1、2回訪問して遊びに行っていたと思う。
母の実家は四谷にあった。祖父(母の父)は会社を経営していてそこそこ成功していたようだ。都内の一戸建てに住み、目の前にはラジオ局の社屋があった。
家に行けばいつも祖母がいた。そして「おサイダー飲む?」と私に勧めてくるのが毎度のことだった。
祖父は厳しい人だったが祖母はやさしかった。
ある日、祖母の年齢を尋ねたことがあったと思う。私の母と15歳差だった。その時は何も感じなかった。
ボケーッとしていた子どもだった。
たったの一度
その祖母は50代前半という若さで亡くなった。
家事をする人がいなくなったため、私の母が日中に四谷の実家に通うことになった。
亡くなる前だったか後だったかは忘れたが、母は言ったことがある。
「四谷にいるおばあちゃんは、私のおばあちゃんじゃないの」
「じゃあお母さんのおばあちゃんは?」
「私が子どものときに死んじゃったんだよ」
だからか、とそのとき気がついた。四谷の家にいる子どもたち(母にとっては弟)の年齢が10歳以上離れていたのはそういうことだったのだ。いわゆる「先妻」の子は私の母だけ。そこに暮らしている兄弟は「後妻」さんの子だった。
後妻さんの子は、だからといって私の母を疎遠に扱うことはなかった。むしろ敬っていたぐらいだと思う。
ただ、どうしても「先妻」「後妻」という存在は見えない壁をつくっているように、私には感じられた。
私が10代なかばの時だったと思う。
学校が早く終わったり学校が休みだったりしたとき、電車を乗り継いでよく実家に行っていた。行けばお昼ご飯をつくって食べさせてくれるからだった。
それは、たったの一度だけのことだった。
母が2階に私を連れて行き、古いアルバムを開いた。
アルバムを指さして言う。
「これが私のお母さん。似てる?」
「子どもは時に残酷なことを言う」とよく言われる。
自分はまさにその類の人間だった。それに対する罪の意識すらなかった。
しかし、この時だけは言ってしまったことを悔いた。
「似てない」
母は口をつぐんだ。
以来、アルバムのことは言わなかった。そのアルバムはおそらく実家に置いたまま。自分の家(私の実家)に、母の過去の記録はいっさい置いていない。
言ってしまった悔恨はずっと頭のどこかにこびりついていたが、その後母は一度として自分の母親のことを話すことはなかった。
それから約30年後、母は他界した。
私にとっての「おばあちゃん」は、「実際に目で見た人=後妻さん」のほうであった。しかし、母にとっての母は、そうではない。
それに気づくのが遅すぎた。
そういえば、母の母(先妻さん)がいったいどこの墓地にいるのかも知らなかった。
2つの墓
西新井大師に墓があり、年に2回お参りしていた。
私にとっての楽しみは、参道にあるお店で焼きたてのせんべいを食べることと、草だんごを食べることだった。
墓は大師の横にいくつもある。最初のうちは1つの墓に線香をあげ手を合わせていた。その後、祖母(後妻さん)が亡くなってからは2つの墓に手を合わせるようになった。
最初の墓は「先祖代々の墓」だと思っていた。
そこに、母の母も眠っているのだろうか。
そのときもうひとつ気がついた。
「私は、母の母の名前さえ、知らない」
(つづく)