45年ぶりの再訪。誰も共感できない、6歳の私をたどる
私は現在北多摩地区に暮らしていますが、出生地はさらに西のほうです。そして、3歳のころ宮城県柴田郡に引っ越し、3年間だけそこで生活をしていました。
以前、私が親の成年後見人になったことを書きました。親が認知症になったことがその理由です。
認知症だと分かってから、あれはどうかこれはどうか、と昔のことを聞いてもあまり思い出せないようでした。
こうなったら自分の足で、親が昔暮らしていた地へ行って、そこの写真を撮ってこよう、少しでも何か思い出してくれたら、と思い立ちました。
それは同時に、自分自身にとっての「旅」でもあります。
たどり着くまで
当時の友人はどこで何をしているか知りません。なので、自分の記憶だけがたのみですが、小学2年時には東京へ引っ越したため、記憶が実にわずかです。
ただ、小学1年のときに町名が「新桜町」に変わったことは覚えていました。そして、私の通っていた小学校の名前は町の名前そのものだったので、1年間だけ通っていた小学校でしたが、場所はすぐ分かりました。
もう一つの記憶は、家の隣が「電子」と名のつく会社を経営していたこと。とはいえ個人事業主で、普通の一軒家です。
ほかにもいくつか思い出せることはあります。三輪トラックが走っていて驚いたこと(珍しい乗り物でした)。「アベストア」というスーパーの壁面の文字が一部落ちていて、「アヘス ア」みたいになっていたこと。
小学校から新桜町の自宅を、小学1年時には毎日通っていたことは間違いないこと。しかし、途中の道は少し変わっていたように思いますが、とにかく歩いて探し、自分が初めて自転車に乗ることができた公園までたどり着きました。公園はほぼそのままでした。
ただ、家の場所は分かりません。近くにクリーニング店があったので「M電子を探しています」と言ったらすぐに教えてくれました。
道一本、記憶とは違ってました。
ほぼそのままだった
私が住んでいた家は、外観だけ見た限りはそのままでした。近所付き合いのあった隣の2軒もそのままでした。
1軒は留守、もう1軒の呼び鈴を鳴らすと、奥様が出てきました。
その家のご主人とは、小学1年のときオセロをやった記憶があります。でもそのご主人は5年前に亡くなられていました。なので、会社も畳んだそうです。
奥様とは初見でした。長い間教員をしていたんだそうです。隣のMさんはいつもご主人しかいなかったのは、そういう理由だったことを、初めて知りました。
45年前は、家の隣にクローバー畑がありましたが、その場所は駐車場になっていました。
近くを流れる白石川は、一目千本桜(ひとめせんぼんざくら)と名づけられるほどの有名な場所です。いつ見たのかは思い出せませんが、一度だけ子どものころに見た桜並木の記憶があります。たしかに壮観でした。
駅舎は、十数年前に改装され、近代化されていました(当たり前ですが)。
帰郷後、いくつか写真を撮って、それを親に見せましたが、当時のことは忘れてしまったようです。当時、親は30代〜40歳代。記憶から消えてしまったのかもしれません。
時間があまりなかったので、通った幼稚園やでっかい鯉を釣った川、親が勤務していた工場までは足を運ぶことはできませんでした。行きたい気持ちはありますが、そんな時間はもう取れないだろうと思います。わずか2時間程度の滞在でしたが、かけがえのない2時間になりました。
誰も共感ができない、私だけの思い出です。
親のために行った2時間は、「自分にとっての記憶をたどる旅」と考えたいと思っています。
至ってごく普通のサラリーマンのつもりですが少し変わった体験もしています。