【わたしのこと】いつか全部過去になると思ってた
小学生頃から、
「この1日も、いつか懐かしく思い出す未来が来るのかなぁ」
と考えながら過ごしていた。
どんなに楽しい出来事も、辛い出来事も、同じ早さで後ろの方に遠ざかって行く。
時間が経って大人になれば、わたしは今日という日を「幼かったときの思い出」として頭に思い浮かべる。今は必ず昔になる。
そう考えていた。
成長もすれば老化も始まるだろう。
家族で行った花火大会。花火を見ながら食べた焼き肉。
痛いリハビリ。
皆が泣いている卒業式。
車のなかでミスチルの「緒わりなき旅 」を聴いて家に帰ったこと。
お風呂に入ってすぐ水を弾く肌。
クラス全員に無視される日々。
大学での講義
今振り替えれば、わたしなりの思考的処世術だった。
辛いことも今を耐えれば過ぎていく。
楽しいことは長くは続かないと、心に保険をかけておく。調子に乗らないように。
しあわせに油断しないように。
だが、こどもの頃に想定していた「大人」になった今、この対処の結果は想像とは少し違っていた。
確かに全ては過去になった。
だが、過去にはなったが思い出になるものとならないものがあった。
記憶の生々しさや伴ったもの感情の種類によって、記憶の残り方が違っているのだ。
■思い出(過去)になるもの
年齢にありがちなイベントや楽しい経験。
年齢による状態の変化
■思い出(過去)にならないもの
(純粋な記憶だけでなく、その時の感情まで思い出すもの)
苦しいこと、ネガティブな感情が伴ったもの
ネガティブな記憶は、まるでのり弁のご飯にくっついてくる味のりみたいに、わたしの記憶にべったりと張り付いて離れない。
わたしはもういじめられることはないし、家族の不和や口論に巻き込まれたり、それらを目撃することもない。
だが、そのすべてはわたしの後ろにまだ、いる。
過去になると思っていた。
上書きされないまでも、新しい記憶に埋もれて薄れていくものだと思っていた。
だが、それらは過去になるどころかわたしの今に大きな影響を与える。
人との接し方、警戒感、自己肯定感。言語化できない世間や周囲への申し訳なさ。
過去になるはずだった記憶は今も生きていて、思考になって行動に変化した。
美しい思い出だけは、遠くに行ってしまう。
どんなものだったか曖昧になっていく。
一方、辛い思い出はわたしを今もふいに苦しめる。
一番忘れない記憶、無色化したい記憶は、わたしの真後ろにこれからもずっとついてくるだろう。
人生が終わるまで。