がり勉の大切さ
大学院のときに出会った教科書の話です。位相幾何の教科書でした。「スペクトル系列」というものを学びたくて買ったのだと思いますが、たとえばその著者の先生の「ホモトピー群」の説明は以下のようでした。1次のホモトピー群は基本群であって「輪っか」である。2次のホモトピー群は「風呂敷」である。これがわかればこの章は飛ばしてよかろう。よくないと思います!最終的にその境地に達するというのならわかりますけど、その境地に達するまでに、がりがり勉強がいると思います!そんな先生の書いた本でしたので、その本ではスペクトル系列もわかりませんでした。そういうことが雰囲気でわかるわけがありません。
もっと前の例としては、大学に入ったばかりのことがあります。ある他大学から来られていた第二外国語であるドイツ語の先生。そんな、冠詞の変化など丸暗記するようなことはしなくてよいのですよ。そんなことをしなくても使いこなせるのですよ、というのが口ぐせでした。今思えば、これも無茶な話です。もちろんドイツ語を使いこなせるようになるころにはその境地に達しているでしょう。しかし、初学者は、がりがり勉強しなくてはならないのではないか。地道な「がり勉」なしで、いきなりドイツ語ができるわけではあるまいと思います。これらはすべて後に思ったことですけど。
もっとさかのぼると小学校の漢字の勉強に至ります。いま、われわれがすらすらと漢字が読めたり書けたりするのは、小学校のときに一文字一文字、書き取りの練習をしたからではないでしょうか。あれは無味乾燥な勉強のようで意味のある勉強でした。地道な勉強をしなければ、私がいまこうして記事を書くこともできないでしょう。「がり勉の大切さ」です。
「中」という漢字を知った小学1年のころの話です。あれ?この字は「なか」と読むのではなかったっけ?「ちゅう」と読むのだっけ?あせった覚えがあります。つまり、それまでの「ひらがな」や「カタカナ」は、1文字について1通りの読みかたしかなかったからあせったのです。「中」は「なか」とも「ちゅう」とも読むのです。こういうことひとつひとつを乗り越えて、漢字を覚えて来たのです。「画」という字を覚えるときもずいぶん苦労した記憶があります。「面」との区別がつかないし。
厳密な勉強をおろそかにして自由な発想というものは出ません。それは位相幾何の教科書の先生も、大学の初年級のドイツ語の先生も忘れていたことです。おそらくご自身も学生時代は「がり勉」をなさったこと。それ抜きでいきなり「風呂敷のような」と言われてもできるようになるわけではありません。
厳しく修行のような勉強から、ようやく「自由な発想」が生まれるのです。なにもないところから自由な発想は生まれません。一概に「詰め込み式教育」を否定することはできないゆえんです。
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