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不登校息子たちの反抗期と、遅れてきたママの反抗期。

 

「不登校と反抗期」


 反抗期という自分に向き合う大切な期間が、自分の人生でスポっと抜けている。このことが、私にとって息子たちの反抗期にどう対処したらいいのかわからない原因になっている。

 40代の私には思春期の息子が二人いて、
 二人とも色々あり、不登校。
 彼らはおとなしく素直な幼少期を過ぎ、思春期に入って間もなく、同時期に荒れ、学校に行かなくなり、ふさぎこんでひきこもった。不登校になりあっという間に三年が経とうとしている。


 私はこの日々の途中から鬱病になった。葛藤や反省やざわつきをブログで文章にすることで、気持ちを何とか落ち着かせていた。実際はなかなか落ち着かないけれど、この絶望に見える日々に、少しでも何か気付きたい、前進したい、という思いがあった。どうにもならない現実を何とかやっていこうという空回りの気概とともに、私なりの子育て反省文を空中に提出する感じでつらつらと気持ちを書き出しながら、自分の子供が不登校になり、前に進めなくなっているこの今に、どんな意味があるのかを年中探している気がする。








「遅れてきたママの反抗期」



 青天の霹靂だった息子たちの不登校は、否が応でも自分の人生と向き合うきっかけとなった。
 親の顔色をうかがい、無自覚に我慢に我慢を重ねる思春期だった私には、親を全否定する息子たちの反抗期は、彼らが暴れることも、無気力も、学校に行かないことも、どの行為をとっても理解できなかった。
 だけど、問題は私や夫にあることはどこかでわかっていて、表見向きには普通に見えるかもしれない私達の家庭は、何かがゆがんでいて、そのせいで息子たちの問題行動を引き起こしているのかもしれないと思った。だけど自覚としてそれが何なのかわからない。むしろそれまで家族はうまく行っていると思っていたほどに、夫も私も、どこから間違えてしまったのか自分たちのことが見えなくて、時間ばかりが過ぎた。



 日増しに悪化する現実に、自分たちの内面へと気持ちが向き、カウンセリングを受けたり、本を読んだり、不登校子育ての経験者に話を聞いたりと、真面目すぎて不器用な私たち夫婦なりに、荒れ狂う息子たちと向き合う術を探し始めた。




 息子たちとボロボロになりながら向き合ううちに、私にこれまでの人生でやり残したことが徐々にあぶり出されてきた。反抗期をないものにしてきた私のやるべきことは、まず自分の親へ、今までの理不尽な我慢を伝えることだった。
 それが中年である私に訪れた「遅すぎる反抗期」で、自分に閉じ込めていた積年の我慢が、はからずも息子たちの反抗を師匠として爆発していった。
 高齢の親は、ずっと親の言うことを聞き従順だった娘が、おばさんになって突如牙をむき出したことに驚いたかもしれないけれど、私にとってはこれをやらないと前に進めない衝動だった。 
 とにかく父親は豹変した私の話を受け付けない。それよりもかぶせて自分の話ばかりする。それでも、今は私の話を聞いてほしい、とあきらめずに伝えた。
 私は自分が親と向き合って初めて、自分がした我慢と同等の我慢を、息子たちに強いていたのだと気付いた。そして、彼らの話を聞かないで、自分の話や主張ばかり聞かせていたことを、自分の親の姿から見せつけられた。

 ちなみに私の父親は、自身の不遇の埋め合わせを無理やり子供に強いるような親で、きょうだいは早々に実家から離れ、母親は父親の暴言で支配された家庭から毎晩アルコールに逃げていた。そして私は不安定な両親の顔色や空気を読んで、幼い努力で必死に家族を何かから守ろうと過ごしていた。

 私は今になり親に反抗して初めて、もう親の幸せばかりを願うことなく、自分の人生を生きていいんだと、やっと思えている。あなたと私は違う考えの人間だと、あなたの考えや機嫌で私の人生は決まらないと、もっと早く言えていたならと思う。息子たちのように、親の偏りや間違いを若いうちからはっきりと言えたならよかったなと。
 それができなかったのは、親の環境が大変そうで不幸でつらそうに見えたから。幼い私は、親を笑顔にするために一生懸命いい子に生きたけれど、今思うと親はもともと不幸ではなかったし、ちゃんと自分で幸せに生きられる人だった。そのことを信頼していれば、子供らしくもっと違う生き方ができたかもしれないと思う。

 などと考えれば考えるほど、立ち止まる今に後悔があふれ出てしまうけれど、私なりの精一杯の家族への愛情だったと過去の自分を理解したい。

 息子たちが不登校になって初めて気付いたことがたくさんある。不思議なことに、息子たちが荒れながら私に言ったことは、私がかつて親に言いたかったことだった。
 私はいつでも私らしく生きてよかった。だから息子も、息子らしく生きていい。
 親の考えから早く離れて、さっさと自分の世界を持つことが必要で、そのために反抗期はなくてはならないもので、「クソジジイ!」「クソババア!」と言う衝動は人生で大事なイニシエーションなんだなぁと、今になり痛感している。

 ちゃんと若いうちに親への反感の感情を正しく感じ切ったほうがいい。
 遅咲きさせた私の反抗期は、端から見たら高齢者と中年女の大人げないケンカに過ぎないから、やっぱり反抗期はお互い若いうちに腹を割ってやらないといけないんだったな、と思う。
 そう思えば、感情を私にぶつけてくる息子たちはきっと大丈夫だと信じられる気がした。理想を押し付ける親と自分は違う人間だと、親の考えはおかしいと、今からちゃんとわかっていて、それを正直に伝えられているから。
 

 親としてこの日々にどう未来を見つけるか、毎日葛藤の渦の中にいて、それでも急に何かがふに落ちて安心したり、視界が晴れたり、何とも思わなくなったり、ちょっとしたことに揺さぶれたり、と気持ちは常時忙しい。
 




 とにかく反抗期は大事なんだな、という気付きを得たものの、あまりにも息子に冷たい態度をとられると、ため息とともに悲しい気持ちになるけれど、そうやって思春期相応の態度をとれることが意味のあることなんだと知れば、まあいいか、と明日に繋げられる。






ような気がする。




 
 














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