『遠い雲』メンタルクリニックの映画館
『遠い雲』木下恵介、1955年
【前口上】
今日は、木下恵介監督の『遠い雲』を上映します。
木下恵介作品は、これまで『二十四の瞳』(1954年)と『野菊の如き君なりき』(1955年)をご紹介してきました。今日の映画は、ちょうど、この二つのあいだに製作された作品です。
『二十四の瞳』は、大石先生と教え子たちが戦争に否応なく飲み込まれてゆく時代を描いて、日本の庶民の生き方を問うた。『野菊の如き君なりき』は、民子と政夫の幼く純粋な恋が、村の因習や家族制度のなかで引き裂かれる様を描いて、やはり日本の庶民の生き方を問うている―明治時代の物語ですけれども、現代に響くような脚色や工夫がなされていました。
今日ご紹介する『遠い雲』は、二つの大名作のあいだに挟まれて、ちょっと損をしている作品ですが、私は、なかなかに味わいの深い名作だと思っていて、好きな映画です。そして、この作品にも、『二十四の瞳』や『野菊—』と共通する作者の問題意識が、メロドラマの形をとりながらも流れている、と思っています。
先ずは映画をご覧頂きましょう。
【上映後】
『遠い雲』をご覧いただきました。
冬子(高峰秀子)は、圭三(田村高廣)への想いを抱きながら、ぎりぎりのところで駆け落ちの汽車に乗ることができなかった。そこには義弟の俊介(佐田啓二)の存在があって、思いとどまった冬子に「義姉さん、ありがとう」と言う。冬子も「ありがとうございます」と返す。
今日は、皆さんに感想を伺うことから話を始めたいと思うんです。この結末は、冬子にとって幸福であったのか、どうか?悲劇だ、という意見もあるんですが、皆さんどう思いますか?率直な第一印象で結構ですから…。
私のカミサンは、この結末で彼女は幸福だ、と言うんです。「だって、佐田啓二は素敵だし、田村高廣は青臭くて頼りないじゃない。だいたい冬子(高峰秀子)は愚図なのよ。たとえ旧家のしきたりに縛られて生きなければならないにしても、冬子のような女性は、佐田啓二の俊介と再婚した方が幸せよ」と、言い切るんですが…。
この感想には、佐田啓二に対する思い入れが反映している気がします。たしかに、ドラマのなかで佐田啓二の俊介は、田村高廣の圭三よりも、より成熟して落ち着いて見えます。カミサンは、「圭三と冬子が駆け落ちしたってうまくゆかない」なんて言うんですが、でも、愛し合っている仲でしょう?
それに、経済的な不安は、ほとんどないんですよ。圭三は、北海道の辺鄙な土地へ赴任するとはいえ、林野庁の役人で国家公務員という設定です。身分が保証されている上に、実家の経済的な援助も期待できないことはない。ドラマの終わりの方で、お次さんという圭三の家の女中の一人息子(石濱 朗)が、鍛冶屋の親方の娘と駆け落ちするでしょう。彼らの方が、よほど前途多難ですよ。でも、まだ幼さが残っているようなカップルだけど、なんとかやって行けそうじゃないですか。愛し合っているなら、冬子も高山みたいな息苦しい狭い町を思い切って飛び出して、 “自分の翼”で飛び立つ方が、より幸せなんじゃないか。
実は、私も初めて見たときは、カミサン同様に、この結末で冬子は幸せになると思ったんですね。圭三の冬子への求愛は、なんか青っぽいし、ラストに汽車の窓から『狭き門』を投げ棄てる行為も、ちょっと滑稽に思えたんです。
けれど、二度、三度と観直しているうちに、作者・木下恵介の意図は、ちょっと違うんじゃないかと思えてきました。これは、『野菊の如き君なりき』と同様、日本人の、特に女性の悲劇を描こうとした作品なんじゃないだろうか。一見すると、ヒロインがふたりの男性のあいだで揺れるメロドラマにみえます。―確かにその要素はあるんですが、ただのメロドラマではない。やはり主人公の生き方を問うている。今日のご案内のチラシに “問題作”と書いたのは、それなりの理由があります。
ジイドの『狭き門』について
アンドレ・ジイド(ジッド)の『狭き門』は、20世紀初頭のフランスの小説です。日本に翻訳紹介された1930年代の半ばから、戦後の70年代ぐらいまで、青年男女に広く読まれた海外文学のベストセラーのひとつでした。
テーマは、ジイド自身信仰があったキリスト教(プロテスタント)の禁欲主義に対する批判なんですが、日本では、そういう宗教的背景は抜きにして、恋愛小説として愛読されました。どのくらい広く読まれていたかというと、例えば喫茶店の名前になっていたりした。そのくらい題名が人口に膾炙していたわけです。
アリサという若い女性が、恋人である主人公の愛を信仰ゆえに受け入れることが出来ない。最後は病気になって死んでしまうんですが、そういう言わば社会的因習に囚われた女性の悲劇を通じて、精神の自由を希求する内容が、以前この会でご紹介したルネ・クレール監督の “Quatorze Juillet” ( “7月14日”)が『巴里祭』という邦題で公開され親しまれたように、一種のあこがれをもって日本の青年男女の心に響いた。
“自分の翼”ということばは、 “世間”とともに、今日の映画のキーワードですが、小説には、圭三のせりふにあったように、
という主人公の訴えかけとして出てまいります。
獅子舞と秋の空
以上を前提に、ドラマを振り返ってみます。
映画の冒頭、獅子舞が出てきました。続いて、秋の空ですね。高い空に遠く白い雲が浮かんでいて、クレジットタイトル。題名の『遠い雲』は、かつてジイドを読み合ったふたりの遠いあこがれでしょうか。それとも、人の心の移ろいやすさでしょうか。微妙な味わいを含んで、獅子舞の映像と、さりげなく対比させられています。
獅子舞のショットには、伝統芸能が息づいている地域社会のずっしりとした重みが感じられます。ただ、対比と言いましたが、それは、あまりにもさりげなくて、その意図は映画が終わってドラマ全体を振り返った時に、はじめて浮かび上がってくる、というような表現です。
圭三が、ながい汽車の旅を終えて、故郷飛騨高山の駅に降り立つと、妹と母親と女中さんが迎えに来ている。駅弁売りの青年の視線が、バストショットで強調されます。4人はタクシーに乗って家に向かう。その車中の会話。圭三は、女中さんから「圭さま」と呼ばれている。また、女中さんは、タクシーの運転手と身内のような親しげな口調で会話しています。田舎の町の人間関係の濃さが、もうこのあたりから顔をだしていますが、朗らかだった圭三の表情が、冬子の噂が出たとたん、曇ります。
続くシーンで、駅弁売りの青年が、その噂を引き取るように仲間と話している。
ここでは、狭い田舎町特有の人間関係、下積みの人びとの、同じ地域社会の上層に属する人たちを見上げるときの、妬みや欲求不満が、ちらっと顔をのぞかせています。
こういう古い、また狭い町の息苦しさは、ドラマの展開とともにあらわになるのですけれども、圭三と兄の幸二郎が町の酒場で差し向かいに飲んでいるシーンがありますね。
画面は、パンフォーカスになっていて、つまり手前から画面の奥までピントが合っているのですが、奥のカウンターで飲んでいる複数の男の客が、チラチラと圭三と兄の方を見る。しかも聞き耳を立てていることまで何となくわかる。そこへ芸者が現れて兄弟をお座敷に誘う。兄は、お茶屋に借りがあると渋っていると、圭三は家から金を持ってきてもらえばいいと電話をかける。ところが、その電話を冬子の妹の時子(小林トシ子)が、電話局の交換手として会話を筒抜けに聞いている。
この辺りから、ちょっとたまらないな、という気がしてくるんですが…。
誰それを、さっき見かけたとか、あの家の嫁は後家さんになって…とか、特に圭三の実家(石津家)の造り酒屋や冬子の嫁ぎ先(寺田家)のような旧家ともなれば、 “世間”の眼はうるさい。
圭三と俊介
そんな、古くて狭い飛騨高山の町で、思ったことを率直に言ったり行動に移したりせずにいられない圭三の直情径行な性格は、ちょっと青臭く見えます。かつて恋仲だったとはいえ、墓地で5年ぶりに再会した人妻の冬子へ唐突に「幸せでしたか?」と尋ねたり、死んだ冬子の夫の品行が悪くて芸者を囲っていた事実を知ると、その芸者(桂木洋子)をお座敷へ呼んで絡んだりする。その後の冬子への迫り方も、そうです。
旧家の蔵元の次男坊として何不自由ない育ち方をしてきたこともあるでしょうが、圭三は、大学に進学し就職して、しばらく故郷を離れているので、もう半ば土地の人間ではなくなっているんですね。それに、なによりまだ若い。年齢は20代の半ばをちょっと過ぎたぐらいの設定でしょう。
お座敷のシーンで、町衆の旦那らしく、遊び方も飲み方も心得ている兄の幸二郎(高橋貞二)とは好対照です。
圭三が冬子の死んだ夫の愛人だった芸者に絡んでいる頃、冬子は義弟の俊介と仕舞を舞っています。地謡のなかには俊介の父親(柳 永二郎)も混じっていて、お客を招待している。
仕舞というのは、能の略式の上演形式で、演者は面や装束をつけず、扇だけを用いるんだそうですが、百科事典で調べたら、普通、仕舞はシテ(主役、この場合は俊介)一人で演じるもので、この映画のように二人で(しかも男女ペアで)舞うのは、かなり特殊な演目のようです。
さらに考えると、この仕舞が演じられているのは、冬子の死んだ夫の三回忌の法事の席なんです。(映画では、余計な説明が一切省かれていますが、冬子が嫁いで5年、3年目に夫が死んでいる。この日は命日という設定です。)だから、三回忌の法要があり、清めの食事をふるまったかした後で、お客の前で仕舞を演じているんですね。
ということは、当人同士の意志の確認に先行して、家の事情で、 “この二人が後を継ぎます”と、お披露目をしていることになります。
冬子の嫁ぎ先の寺田家は、春慶塗の老舗です。春慶塗は、江戸初期から高山の領主の特別の庇護を受けて育てられた伝統工芸ですね。茶道の流派との関係が深く、茶器類が多いようですけれども。
当主の父親は、市会議員を兼ねている。次男の俊介は、石の蒐集が趣味。石のすがたを愛でるとは、渋い趣味ですね。まだ若いのに(冬子より一つ上の25歳の設定)、老成しています。冬子とは縁側で石を愛でながら、
未亡人になった嫂の立場を思いやりながら、そのことを素直に話すことのできる関係をつくっている。
“自分の翼”と“世間”と
ジャズのコンサートに圭三を誘い出し、冬子と逢わせようと画策したのは、圭三の妹、貴恵子(中川弘子)と冬子の妹の時子(小林トシ子)です。貴恵子の動機には彼女らしい打算もあって、兄をダシに使えば母親の許しも得やすいし、冬子が来ると知れば、兄も誘いに乗るに違いない。打算が半分、兄の恋を応援する気持ちが半分というところでしょうか。
と、圭三をからかってみたりするところ、伸び伸びと健康に青春を謳歌している様がよく出ています。彼女の自由闊達さは、恒産があって何となく風通しの良い石津家の家風からも来ているでしょうか。が、そうした態度は同世代の娘たちからは妬まれたりもする。(コンサート会場の離れた席で、「石津さんのお嬢さんさんでしょう」「嫌やなぁ」)
ジャズのコンサートに冬子はなかなか現れない。業を煮やした圭三が席を立って帰ろうとすると、会場の入り口で遅れて来た冬子に会う。圭三は、「歩きましょう」とやや強引に冬子を誘います。(その様子を時子が、悲しげにものかげから見つめている。)
性急に愛を語ろうとする圭三を、冬子はなんとなく拒んでいます。その会話の内容はともかく、外見には夕暮れの町の灯の下をちょっとそぞろ歩いただけなんですよ。
それが、翌日の午前中には町中の噂になりかけている。タクシーの運転手どうしが、芸者衆が、町の誰彼が噂をしています。噂は、寺田の家の番頭さんの耳にも入る。
「お昼に大滝で待っています」と圭三に告げられた冬子は、動揺しています。
駅前の公衆電話で電話するために、わざわざ家を出たのは、「行けません」と断るためだったのでしょうか?拒むつもりなら、圭三に電話をかける必要はない。家からじかに石津家に電話をすることは、憚られる。その電話で、圭三が明日東京へ帰ってしまうと聞いて、やはりもう一度逢いたくなったのか、娘を連れて外出する仕度をはじめます。
「女学校時代の女友だちに会う」という口実ですが、狭い町のことで、圭三も同じ方面に向かったことが、もう俊介に知れている。俊介は、まだ噂を知らず、冬子になんの疑いも抱いていませんが、冬子は、また動揺する。
冬子の全身を、ローアングルのカメラが捉える時、旧家の屋台骨を支える梁の重みが、ずっしりと冬子にのしかかるように感じられる。それは、そのまま冬子が感じる家制度の重圧です。
冬子が娘を連れて外出すると、時子が俊介を訪ねてくる。時子は、姉が圭三に逢いに行ったことを告げに来た。
時子の微妙な女心(嫉妬心)は哀れですが、事情を知ってしまった俊介を、やはりローアングルのカメラが捉える時、先の冬子のショットと同様に、旧家の跡継ぎという重圧がのしかかるように感じられます。
高原で圭三に逢った冬子は、
と述懐しますね。
と言うと、ハッとさせられるほど暗い表情になります。不幸な結婚も、一見平穏な今の暮らしも、ふり返ってみれば、決して自分の意志に沿ったものではなかった。
圭三は、「もう一度幸せになろうと思わないんですか」と迫ります。『狭き門』の一節が出てくるのは、このシーンですね。冬子は、
と言って、逃げるように帰ってしまう。
“自分の翼”と“世間”とが、烈しく葛藤し始めます。
”祭”は単なる情景描写ではない
その日の午後、秋の高山祭がはじまります。豪奢な屋台が町へ繰り出してゆきます。からくり人形を載せたり、贅を尽くした緞帳が見事ですね。
しかし、華やかな祭の裏側では、冬子と圭三の噂が、強請事件になるまでに、膨れ上がっています。
石津家では、兄の幸二郎が強請の若者を擲りつけて追い返しますが、町中のスキャンダルになりかけている以上、事態は簡単に引き返せないところまで来ている。圭三の気持ちを汲んで冬子との結婚を認めるか、それともあきらめさせるか。
圭三の母(岡田和子)は、
と言います。
このシーンの前後に、獅子舞のクロースアップや鉦を叩きながら踊るお神楽の男衆のショットが挿入されるんですが、祭の屋台や獅子舞やを、私たちはつい観光客のように見とれてしまいます。けれども、ドラマの展開と主人公たちの心情に即して見れば、 “祭”は単なる情景ではなくて、 “世間様”そのもののように思えてくるんですね。
華やかな祭の伝統を支え、動かしている人びとがいる、ということを想像して見てください。伝統の重みと因習の根深さとが二重写しになっています。木下恵介の映像が、一筋縄ではいかないところです。
“世間”に抗う女たち、と冬子
ドラマのクライマックスを一気に盛り上げるのが、 “世間”に抗う女たちのせりふや行動であるところが、この映画の面白さです。
最初は、「あたしの可愛いのは世間様じゃないよ」という、圭三の母の一言。ここからドラマは急展開をはじめます。
次に圭三の妹、貴恵子。彼女はもともと“世間”の眼にとらわれない、自由な心をもっている。圭三は、最後の望みをかけて、冬子に走り書きの手紙を書き、妹に託します。冬子の実家で、時子が彼女の前に立ちふさがる。
“世間知らずのお嬢さん”貴恵子の強みが発揮されるのは、このシーンです。
最後のせりふは、貴恵子の真骨頂ですね。
次に冬子の姉(井川邦子)です。親のいいなりに婚期を逃した過去のある彼女は、
そして冬子の妹、時子。彼女は圭三が好きだった。いまでも、その想いはあるけれど、圭三には決してふり向いてもらえない。だから姉の恋が妬ましい。けれども、俊介に告げ口をしたような自分を“嫌な女”だとも思っている。
その屈折した感情を持っていた彼女が、最後には「姉ちゃんは馬鹿やなぁ」と泣いて冬子を説得するんです。
しかし、これだけ身近な人たちに応援されても、冬子には決心ができません。圭三に惹かれながら、
という圭三の手紙にも、「早く東京へ帰って下さい」と心を閉ざしてしまう。返事を書いてしまって、涙に暮れています。
ドラマの始めの方で、「冬子さんには、自分の意志がちっともない」という貴恵子の冬子評がありましたけれども、意志がないというより、自分の意志を貫く強さをかつて持ったことがないんですね。
彼女にその強さがあったら、このドラマはもっと早い段階で決着がついたと思うんです。冬子にとって俊介は?というと、心のやさしい義弟なんです。 “俊介さんも好き”というハッキリした意思はないんです。だから、
「こんなことになって、俊介さんに申し訳ない」というせりふになる。
さらに、妹の時子に泣きながら説得されるシーンのせりふ―
この会話で、冬子の前の窓に格子がはまっているのは、冬子が圭三に心を閉ざすのは、自分の心を牢獄に閉じ込めるようなものだ、という作者の表現ではないでしょうか。
「義姉さんありがとう」「ありがとうございます」
夜明け。冬子は、圭三が乗る汽車の発車間際の時間になって、駅へ駆けてきます。東京行きの切符を買う。ところが、同じ汽車で金沢から帰ってきた俊介が改札口を出てくるのにバッタリ会ってしまう。
俊介は、冬子を見た途端、すべてを察します。
発車ベルの音に冬子はハッと顔をあげてホームを見ますが、俊介の存在にさえぎられて、身体は奥の改札口の方ではなく、横へ、待合室の方へ動いてしまう。俊介は、遠巻きに冬子に近づこうとします。
冬子は切符を隠す。
冬子は一瞬、顔をあげて俊介を見ます。同時に汽笛の音。
汽車は発車して去ってしまう。冬子は、ベンチへ腰かけるやいなや顔を覆って泣き出します。その背中に俊介は、「義姉さん、ありがとう」と言うんですね。冬子も「ありがとうございます」と応える。
俊介は、冬子の意志を最大限に尊重しています。もし、冬子が汽車に乗るつもりなら、それを妨げまいとしています。
「義姉さん、往かないで下さい」は、俊介の冬子への求愛の表現です。が、同時に“家のために往かないで下さい”でもある。冬子を引き止めようとするこのせりふを、俊介は、今からホームへ駈け込んでも間に合わないという瞬間にやっと吐くんです。
そして「義姉さん、ありがとう」はもちろん、 “往かないでくれて、ありがとう”なんですが、これも、 “家のためにありがとう”という二重の意味がある。
冬子の「ありがとうございます」は、俊介の求愛をただちに受け入れたというよりも、 “ありがとうと言っていただいて、ありがとうございます”、もっと言えば、 “救っていただいてありがとうございます”なんです。何故と言えば、ここで俊介にすげなくされたら、冬子には、もう帰る家がないのも同然なんです。
映画の最後のせりふは、俊介の「そや、義姉さん、今からお墓参りに行こうか」です。
これまでの成り行きからすれば、亡夫の墓前に結婚の報告に行くことは、ごく自然なことではありますが、冬子には、もはや、これまでどおり、旧家の嫁として生きる以外に道はない、ということです。
たとえ、俊介との再婚が、冬子の幸福につながったとしても、それは彼女が “自分の翼” で掴んだものではなかった―ということを、汽車の窓から投げ棄てられた『狭き門』が暗示している。そういう映画だったんではないでしょうか?
細部をかなり端折りながら喋りましたが、私は、今では、この映画は“自分の意志を貫けない弱さをもった女性の悲劇”だ、と思っています。
但し、救いがないわけじゃないですよ。冬子のような弱さをもった女性にとって、俊介との再婚も、それなりに幸福になる道だろうとは思いますけれども…
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