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超短編小説:低気圧に沈む
電車を降りると、止んでいたはずの雨がまた降り始めていた。
特急列車と新幹線と、鈍行列車を乗り継いで3時間。短い帰省を終えた涼香(すずか)は、大学近くのアパートに向かっている。小さな青い傘を開き、灰色のキャリーを引く。傘に入りきらないキャリーは、次第に強くなる雨に打たれている。
頭が重い。痛い。眠い。全部、低気圧のせいだ。
八月の、正午近い時間だというのに、今日はあまり暑くない。生ぬるい風が雨と一緒に吹きつけてきて、気持ち悪い。しめつけるような頭痛と相まって、涼香はひどく不快だった。
駅から歩いて15分ほど。涼香はようやく一人暮らしをしているワンルームについた。安っぽいドアを開けると、実家とは違うにおいがする。涼香は、濡れた傘とキャリーを玄関に放りだしたまま、換気もせずにエアコンをつける。勢いよくベッドに腰をおろすと、スマホで母に『無事、帰りつきました』とだけメッセージを送った。
雨は、さっきよりも強くなっている。比例するように、涼香の頭痛も強くなる。涼香はそのまま、ベッドに寝転んだ。母からの『わかりました。ちゃんとお昼ごはん食べてね』という返信を見て見ぬふりをして、目を閉じる。
気が付くと、眠っていたようだ。涼香は空腹で目を覚ました。頭痛は、さっきよりましになっている。窓の外を見ると、曇っているものの雨は止んだようだった。
涼香はケトルのスイッチを入れると、台所の下の戸棚をがさごそして、ストックしているカップ麺を取り出した。
「大学って、2年生がいちばん楽しいんだよ。ちゃんと遊んどきな」
ケトルのお湯が沸くのを待ちながら、ぼんやりと先輩の言っていたことを思い出す。
いちばん楽しい、ねえ。
カチッと音がして、ケトルはお湯が沸いたことを知らせてくれる。カップ麺にお湯を注いで、またぼんやりする。時刻は午後2時前。
いちばん楽しい時期らしいけど、低気圧にやられながらカップ麺を待ってる私は何なんだろう、と涼香は考える。
タイマーをセットし忘れたことに気付いたときには、4分以上経っていた。固めが好きな涼香には、柔らかすぎる麺になってしまった。
あーあ、これも、低気圧のせい。
うまくいかないのは、全部低気圧のせい。
将来が不透明なのも、頭が重いのも、やる気が出ないのも、ぜーんぶ低気圧のせい。と、最近の涼香は思うようにしている。
同級生が少しずつ、インターンとか就活とかの話題を出してきているのに戸惑っているのも低気圧のせい。私だけモラトリアムに取り残されているような気がするのもきっと低気圧のせい。低気圧が私をだめにしてるの。
「そんなわけないじゃん」という声には、まだ耳を貸さなくて良いと涼香は思っている。
狭いワンルームには、食べ終えたカップ麺のにおいが立ち込めている。
曇っているが、雨は降っていない。涼香は大きく伸びをすると、スマホと自転車の鍵だけ持って外に出た。
なんとなく、思考をクリアにしたくなった。涼香はお気に入りの場所に向かって自転車を走らせる。
無駄に敷地が広くて、無駄に自然豊かな大学の端に建つ小さな建物。音楽系のサークルがサークル棟として使っている建物だ。その裏にある小さな古いベンチが、涼香のお気に入りの場所。時々訪れるけれど、自分以外の人がいたことは一度もない。適当に自転車を停めてベンチに座る。雨のせいで少し湿っているけれど気にしない。
ここにいると、いろいろな音が聞こえてくる。
アカペラサークルの発声練習。
吹奏楽団のパート練習。
管弦楽団の音合わせ。
時折聞こえてくるのは、和楽器サークルの箏の音色だろうか。
それから、今日は風に木が揺れる音と、控えめな蝉の声も。
いろんな音が混ざり合って不協和音になっているのに、少しも不快ではないのは、どれも前を向いた音だからだろうか。
涼香は静かに目を閉じる。
いろんな音に、心地よく沈んでいく。
それと一緒に、いろんなもやもやがひとつずつ、自分から離れて泡のように浮いていくような気がする。
生ぬるい風が頬をなでる。
まだ少し、頭が重い。
なんとなく、また雨が降りそうな気がする。
でも、もう少しこのままでいたい。
これも、低気圧のせい。
涼香はもう少し、低気圧に身を任せることにした。
※フィクションです。
BGMは 午後の低気圧/レミオロメン
…ちょっと違うかな。