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「トラウマ」という世界最大級の言い訳

人は、認知的整合化によって「トラウマ」を言い訳にし、変化しないことを選ぶ

 これは、私の過去の「トラウマ」の一部だ。私は、今の自分を正当化し、変化しないことへの言い訳としてこの「トラウマ」を使っている。
 そうして、現実と自分の世界観を認知的に整合化し、今の「ダメな(と認識している)自分」は仕方のないもので、「オカシイのは外の世界の方だ」と自分に言い聞かせているのである。

 しかし、これは間違いである。

「経験」は、私の意味づけ次第で如何様にもなる。
悩みやトラウマは、無意識下であれ意識下であれ自分でそれを「現状の言い訳」として選んでいるのだ。

 人は「恒常性の生き物」なので、ある状態を可能な限り維持しようとする。「自分はこういう人間で、このように生きていく」というフレームをどうしても維持しようとしてしまうのだ。
 これが維持できさえすれば、人は楽に生きられる。チャレンジすることも勇気を出すことも、全て免除されるからだ。
 「トラウマが辛い」と一口に言っても、それは「固定されたフレームによって得られる免除」と「チャレンジによって得られる幸福」を天秤にかけた時に前者が勝つので、「辛い状態」に留まっているだけの話だ。

 だが、これは自分自身で気づくことは難しい。

間違った同一性・目標・手段

 不安定な自己を形成してしまった私は、その不安定さを補うべく、外の世界に憧れを見つけてはそれを内在化・同一化しようと齷齪《あくせく》する。そして、あるダイミングで真似事をしている自分の「痛さ」・自分が自意識の中に留まっていることに気づき、その人に成ることは不可能であり、自分の行いが惨めであることを思い知らされる。

 しかし、これは「手段」としては正しい。最終目標があって、それを達成する手段として「誰かを模倣する」ことは「痛さ」にはならない。それには意味があるからだ。

 未来の幸せをイメージして、それを最終目的にすることが肝要だ。優先順位がものを言う。

どのような意味をつけるか

 「トラウマ」なんてものは、私自身がその「元になった記憶」を「トラウマ」という枠組みに徹底的に固定し、自分が変わらなくていい「言い訳」にしているのだ。

 「親が〇〇だから、今の私がこうなったのだ」「あの時〇〇と言われた・〇〇をされた記憶が、今の私をこうさせるのだ」というような文句も、全ては上記の関連から「言い訳」に過ぎないと分かる。

 過去の記事に「今の私がこのようであるのは、親との関係性が悪かったせいだと思っているが、これは言い訳だと片付けられ、私は行き場をなくしている」という旨の内容を書いた。

今なら分かる。確かに「盛大な言い訳」だった。
必要なのは「意味の付け替え(リフレーミング)」「自らへの価値判断の転換」だった。



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