オンライン授業の功罪と、授業の「遊び」のもつ光
大学の単位履修生としてオンライン講義を受けている。4月下旬から始まった授業も順調に回を重ね、それぞれの授業も第5回・6回目を迎えている。
講義形式は先生や学校によって様々だと思うが、私が受けているものは先生が予めアップした録画済の講義を視聴し、その最後にレポート課題が出され、それを出して1回の出席、というものだ。講義自体は、本来1回75分のものが、20分~40分程度で配信されている。そしてレポートは300字前後の簡単なものだが、授業+αで自分でリサーチをかけなければならないものが多い。だから、一人の学生が一講義を受ける時間としては、75分+αがデフォルトということになる。妥当だと感じる。そして、講義は簡潔だ。要点を押さえている。無駄がない。
一方、1学期の講義も半分を回って違和感を感じていることがある。それは、講義を通してその先生の熱が感じられないことだ。それは、物理的な意味で「対面ではない」「(パワポを背景に話しておられるので)表情等のニュアンスが伝わりにくい」ということもあるのだけれど、違和感はそこじゃない。講義自体に、その先生の意見の部分が乗って来ていないような感じがしてならないのだ。講義する言葉の端に、それを話す本人がその講義を通して伝えたいこと、が表れない。これは、どういうことか。
おそらく、対面ならば醸し出された「間」に挟まれる、ある事項の説明に関連する個別のエピソードや、教員が学生の耳をこちらに向けようと(意図するかしないかに関わらず)繰り出す冗談や世間話のような「遊び」が、ごっそりそぎ落とされているのだ。それは、果たして無駄なものだったかと言うと、断じてそうではないと私は思う。
教室という区切られた空間の中に、一定時間集まる、一定の要員にだけ共有される、多少オフレコ的なエピソードの中で、私たち生徒はその授業で扱う学習指導要領で指定されたような事項以上のことを学ぶことが多くある、と経験的に確信している。
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思えば、高校時代の授業で記憶に残っていることなんて、先生方のそんな一言ばかりだ。ある年配の男性の先生は、漢文の講義をしながら、ここに書かれていることは全くの真実なんだけどな、と前置きしたかは定かではないが、人生「そうはイカの天ぷら!なんだよなぁ…」とおっしゃった。この名言は、私のメモリの顕在領域に20年近く経った今でも堂々と居座っている。授業内容をほとんど覚えていなくても、私たち生徒はそういうことばかりが忘れられないものなのだ。
中でも折に触れて思い出すのは、高3の現代文の先生の一言である。我が母校である女子高の卒業生でもあり、当時子供二人を育てながら教壇に立っていたその先生は、高3の秋も深まり受験のプレッシャーに否が応でもさらされながら授業を真剣に聴く私たちに、物語文の主要箇所を板書する手を休めてくるりと振り返って、こうおっしゃった。
「今は進路や受験について不安もたくさんあると思うけどね、1年後の貴女たちが何をしているか、想像してみて。…想像できないでしょう?私はおそらく来年の今ごろも、こうして教壇に立っている。1年後を想像できない時期っていうのは、案外人生にないものなのよ。」
これを聴いた私は、恐らくこの先生の意図された通り、1年後を想像できないその時の貴重さを感じ、できることに精進しようと前向きになったものだった。確か、「悲観は感情、楽観は意思」という名言を知ったのも、この先生からだった。どうしていらっしゃるかな。
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思うに、こういう「授業の本筋と関係のない」内容は、保存されて同僚や事務方を含めて誰にでも視聴できるようになってしまう動画には、しにくいのだろう。それが政治的な発言であったりしたら、なおさらなのかもしれない。だがしかし。思想なき講義など、何の意味があるのだろう?
思想なき講義は、虚勢されたペットに似ている。今存在しているパワーバランスや社会体制を、例えそれが公正でないシステムを含んていたとしても、維持することにしか、その講義は働かない。一定の生徒を持って講義をするほどの社会的地位の人間がそこに居座っていて良いのか。講義がオンラインになったくらいで教員の自由な発言に枷をはめるような意識がそこにあるのだとしたら、私たちはとっくに思想統制の世の中を生きていることになる。
先日、講義のレポートを書いていてあまりに頭にきたので、英語のレポートよろしく、同じトピックについて書いた。その講義のレポートは、ブラックホールに吸い込まれるように何のフィードバックも帰って来ないことを知っているから、そこに私の400字を書く労力が途方もなく虚しく思え、その腹の立った熱量でこっちを書いた。そんなことばかりしているから、視聴すべき講義動画は溜まっていくのだけれど…
ここでも書いているが、講義をする人は、灯台でなくてはいけないと思う。数多の真実を礎に、実現すべき理想があって、そのためにどうするかという知恵を、多くの場合自分より年若い世代の者に分け与える。そして、理想というのは方向性で、生徒がその光の方向を自分の中にある何かと対照して、自分の進むべき方向を定める指針になるのだと思う。それは必ずしも指導者と同じ方向ではなくても良く、でも比較する光がなくては彼らは道に迷ってしまう。
さて、英語で bless は 息を吹きかける、の意だが、それは「神が恩寵を与える」というところから来ている。ブレスユー、って言うが、あれは God bless you, なのである。あなたに神の恩寵がありますように、と。
先生も、自分の持ちうる知識や経験という恩寵を、光という方向性を持って生徒に与える、そんな存在でいて欲しい。対面でも、オンラインでも。そして、そうありたいと思っています。
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余談だが、高校3年生の秋以降、「翌年の自分が何をやっているか分からない」という期間が30代半ばまで続こうとは、当時は想像もしませんでした(笑) 予測できないから、人生は素晴らしい。
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