ADHD・INFP女子が見通しをもって30代を乗り切るためのサバイバル覚え書き。
見通しをもったり、段取りをつけたりするのが苦手だ。
苦手なりに39年間生きてきて、その間、結婚したり子育てしたり仕事を転々としたりした。道中、仕事に適応できず心身を病んだり、子どもが集団行動できずペアレントトレーニングを受けたりする中で、自身の発達障害特性に気づき、試行錯誤してきた。
試行錯誤は今も続いており、仕事も家庭も課題が多いけれど、私の踏んだ轍を若い、自分と似たような人が踏まなくてもいい世の中になって欲しいと思っている。娘二人を含めて、それは切実な思いだ。
この記事では、ADHDなどの何らかの特性をもつ、特に女性が、仕事・家庭で多忙になりがちな20代、30代を乗り切るために必要なことを、まとめている。前半は、マインドセット(とらえ方)の面、後半は生き抜くために必要なライフハック的なものを、リストしている。
自分と似たような誰かの参考になれば、とても嬉しい。
見通し VS ADHDの集中力
春から特別支援教育の現場で働いている。
支援の目標によく「見通しをもって~~できるようにする」というのが出てくるのを目にするにつけ、なるほど、一般的な人はそんなにも見通しをもって毎日を送っているのか、と新鮮な気づきをもらっている。
ADHDとASD(自閉スペクトラム)の傾向がある。一度受けたことのある「ADHDコーチング」で教わったことには、ADHDの特性の一つに「実行機能障害」があるらしい。なかなか取りかかれない、だから先延ばす、とつながるらしい。
実行機能障害に関しては私も理解が至っておらず、環境要因も関係するようにな気もしていて100%定かではないけれど、これはADHDの局所的な集中力とトレードオフなのだろう。
「局所的な集中力」の対極に「全体像をとらえて遍くこなす」的な能力があり、後者がほどよく欠落しているような感覚が、自分にはある。空間軸だけでなく時間軸においても、「瞬間・一点」への集中があり、時間概念を後ろや前にぐーんと引き伸ばし、偏在させるのが難しいんだろう。美しきトレードオフ。
そう、だから、見通しがもちにくいのは、美しきトレードオフであり、美しき欠損である、と考えることもできる。適材適所の原則に従ってこの特性を生かした生業につくことができれば、ADHD者にしたって、ほかのどんな生きづらさにつながる特性をもっていたって、そこで本来の花を咲かせることができているだろう。
けれども現代ニホンシャカイは、なぜかユニバーサルな人材を求める。国民悉皆フツウのジョウシキ的な振る舞いがデフォルトで、例外は障害とみなされる。そこには少数派の美しさを愛でる度量はない。優生保護法を生み出した意識の原則みたいなのが日々のレベルで適用され、結果として淘汰されている感が否めない。Bling-Bang-Bang-Born。
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予定は未定、は山行の原則だけど。
ある程度の見通しがついていた方が、毎日を送る上でも、人生を生きる上でも、楽だろう。でも、予定調和がそんなに大事か?――強がって尖った穿った一言をラップで吐いてみたくもなる。
努力はするのだ。手帳に書いてみたりポストイットで並べてみたりして、必死に未来を書き留めてみようとする。それらをリマインダーやメモ帳に入れたりして、踏襲しながら一日を過ごそうとする。でも、脳に書き留めておけない。マジックナンバー3を超えると、それがタスクなら抜ける、それが手荷物なら置き忘れる。
仕事の日はもう本当に、必死だ。わりふられたミッションは必ず遂行せねばならない。抜けたり忘れたりしたら人に迷惑がかかり、信用を少しずつ失う。気を張り詰めて、一日の終わりにはクタクタだ。
自閉スペクトラム+INFP
残念ながら、私の脳は言葉にしても活動にしても、現実的なところからはほどよい距離を保つのが、好きみたいだ。【訃報】とタグをつけて、名刺にでも貼っておきたくなる(苦笑)。
抽象や理想にばかり想いを馳せ、詩と韻文をこよなく愛し、好きなリズムや言葉が延々と脳内リピート再生される。大脳新皮質のはたらきが活発すぎるから、それらを口に出していないだけで、本当はそれらを口ずさんで一体化したい。
美しく心地よいリズムの中へ、還っていたいという自閉的傾向は、ただ普通に合わせてコントロールしているから外へ出ないだけで、私の中でいつも窮屈な思いをさせている……んだなぁ、と分かってきたのは、ドナ・ウィリアムズ著『自閉症だったわたしへ』を読んでからのことだろう。ドナ風に言うなら、「本当は飛び出したいのに!」
16 personalityで INFP(提唱者)の解説を読んだときには、笑ってしまいそうになるくらい、納得してしまった。いわゆるわかりみってやつだ。地に足がつかず、理想を描き、現実にがっかりして落ち込み、でも季節の変動のようにかならず春が来る。次の春、来るかな……?
高3とアラフォーの間で
高校3年生の1学期だったか、黒板の左端の方にその時間のまとめを書いていた現国の先生が、おもむろに振り向いて仰った言葉を、鮮明に覚えている。
「あなたたち、1年後、何してるか想像できる?今は先が見えなくてものすごく不安でしょうけど、1年後に何してるか想像できない時期なんて、人生にそんなにないのよ。子どもがいて家族がいて、来年もこうして教壇に立ってるなって、先生ぐらいの歳になると大体想像がついちゃう」
だからこの時期を楽しみながら乗り切って、というエールを送ってくださった、当時女子高だった母校の先輩だったその先生は、今の私よりも少し上ぐらいだっただろうか。時々、この言葉を思い出しては、あれれ、と思う私がいる。
四十を手前にして、子どもも二人いて家族もできているけれど、来年の今頃を同じように想像できた年は、未だかつてない。何かを模索していて、何かをこれでは違うと思っていて、ふらり、ふらりとしている。「人生は曲がりくねってアップ&ダウン」(井上涼「紅白梅図屏風グラフ」より)。ターンの先が、み、見えない……
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社会性は経験で身に付ける性分、を受け入れる。
一般常識みたいなのが、普通に見聞きしているだけではスッと入ってこない。一回、やってみて体験しないと、分からないみたいで、手痛い失敗ばかりしている。
でも、死なない限りこの生での経験値は増えていく。ゆっくりでも着実に、そうである、はず。
サバイバル覚書
ということで、わたしの20代~30代の艱難辛苦 もとい トライ&エラーから学んだことを、特性をもつ人、特に女性が(できるだけ幸せに安穏と)青年期を生き抜けるようにとの願いをこめて、リストアップしてみる。
経済力は大事。収入源を確保しながら、チャレンジする。衣食住などの可変要因は、一度に全部やるとリスクが高い(←前回は、全部やって失敗した)から、できるだけ少しずつ、一個一個固めていく。
睡眠も大事。いくら苦手なタスクができなくても、削らない。できるだけ気に病まない。
食事。社会生活をまともに送ってたらストレス過多になるのを自覚する。ストレス対処にはビタミンを消費するので、サプリで補う。特にB群は必須。唇が荒れ始めたら、環境負荷が高いサイン。
休息。放っておいたら脳内多動が家事へ向けて発揮され、落ち着かなくなる。身体を動かさないで集中し、かつ感情を動かせる映画鑑賞はおススメ。私の場合はインド映画。美しさ、音楽、喜怒哀楽、アクション・コーメディー・ローマンス、と全部が浄化される。2時間半強、自分を座らせておける。
人脈。だめな自分をさらしても大丈夫な友人を、大事にする。継続して関わるのが浮き沈みが激しくて難しいので、「たまに音信不通になるかもしれないけど、調子が悪いだけだから、あしからず。決して、嫌いになったとか他意があるわけではなく、単純に人と関わるキャパが一時的になくなってるだけだから。そっとしておいてほしい」と伝えておくといいかも。(練習中)
安全基地。人、で築くことができたら怖いものなし、なんだろうな…。傾聴して励ましてくれる人。共感してくれて簡単にジャッジしない人とのつながりを、家族でも友人でも何でもいいので、死守する。
表現すること。特に人に安全基地を求めるのが難しい場合、表現はマスト。私の場合は、書く。書くことは自分の思いをすべて受け入れてくれる。言語脳の人は書く、音楽の人は奏でる、映像思考の人は描く、でもなんでもいいから抱え込まない(鬱蒼とさせない)。心の森を間伐する。林床に光が入るようにしておく。光合成大事。
おまじない的な心の頼り。富士山の描いてある高い壺は買わなくていいのだけれど(笑)、これを身に付けたら外モード、とか、このアイテムは次への道しるべ、のように(飛行石みたい!)思っておくことが大事。ちょっと元気が出てきた時に、リマインダーとして、何か身に付けたり日常的に目にすることが肝要。基本的にADHD脳は「Out of Sight, out of mind(見えないものは、ない)」なので、見えるようにしておく。
手荷物は大きいカバンに一つにまとめる。多くとも、絶対に2つ以内に収める。鉄則。三つ以上になると、絶対に置き忘れて、復旧に手痛い時間やコストがかかる。雨の日は傘が増えるので、バックパック必須。
メモを取る。取ったことも忘れそうで明日必ず必要な案件は、手の甲にボールペンでメモる。
それでも忘れたり、やらかしたりしたら…潔く謝って、頭を切り替える。次は失敗しないように対策を二つか三つ考えることに、頭を使う。昔の失敗や叱責のフラッシュバックで苦しくなったら、場所を変えることで物理的に切り替える。トイレなど、一人になれるところで深呼吸できると尚良し。
ここまで書いてみて、自分のトリセツがわかってきたかも、とほっとするとともに、対処療法だなぁ…とも思う。
根本的には、自分の深いところを癒したり、環境を変えたり仕事を変えたりして、生きやすい居場所を作りながら、ご飯を食べてく手段や在り方を模索する必要があるんだろう。新時代はこの未来を、世界中ぜんぶ変えてしまえば、ってね。
でも、前述したように前回はそれを一気にやり過ぎた。ローマは一日にしてならないのだ。基礎から積み重ねて、その先に建てられるものがある。時間の重さや厚みのあるものごと人となりや職能は、やはり凄い、価値がある。
子どもという縁の強い人間関係の、子育てという時期は、自分の人生のやり直しと天秤にかけられるものではなく、むしろ切っても切り離せない。ゆえの、難しさ。生きづらさの世代間連鎖みたいなものが、確かにあるような気がしていて、どうにかそれを乗り越えたい。
今はそのために、子どもの5年先をたまに見やりながら、自分の毎日を位置づける訓練をしている。下手なりに、今度こそは。
思いつくままにリストを書きました。もし、他にも何かいいアイディアがあったら、ぜひ、教えてください。私も付け足すかもしれません。
ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。