なまえ。

わたしの名前は「智子」と書いて「ともこ」。
正直、昔はあまり自分の名前が好きではなかった。
というのも、最近ではリバイバル的な感じで「子」の付く名前が古風で可愛い!と流行ってきているようだが、わたしの世代では「子」が名前に付く人は少なくて、“時代遅れ”なイメージが強いように思う。現に名前に「子」の付く同世代の友人がわたしには少ないし、単純に自分の名前がダサいとずっと思っていた。

そんな中、「名前の由来」をテーマとした授業が小学生の時にあって、自分の名前と向き合う機会が突如訪れた。
「誰が名付けたの?」
「どういう意味があるの?」
と両親に聞くと、お父さんからすぐに答えが返ってきた。

「お父さんが付けたんだよ。
 『賢い子になりますように』という願いを込めて付けたんだよ。」

賢い子...???

実際に「智」という漢字を辞書で調べると、
「知恵、頭の働き、賢い」等の言葉が並んでいた。

それを知ってからというもの、名前の通り「賢い子」にならなければならない、と心のどこかで思うようになってしまった。
でも結果的にわたしは高校、大学と二度の受験を経験し、どちらも第一志望の学校へ行くことはできなかった。特に高校は、父方の家族がみんな出身校ということもあり、そこに入らなきゃやばい!という思いも大きかった。(別に入れって言われたわけでもないのに笑)

いま思うと、必然だったのだと思う。
「賢い子ならこの学校に合格して当然だ」とつい背伸びをした志望校を選択していた。
もちろん背伸びなりに努力はした。でもやはり限界はあった。
いま思えばあの時もっとああしたら、もっと頑張れたら...としたらばがたくさん出てくるけれど、当時のわたしにとってはあれが精神的にも肉体的にも精一杯だったのだろう。

受験に失敗するたび、自分に失望すると同時に、「期待に応えられなくてごめんなさい」という両親(特に父親)に対する自責の念に襲われた。
「賢い子」になんてなれない。名前負けってこういうことか…と自分の名前が疎ましかった。

でもいまとなっては自分の名前が好きだ。
「賢さ」は学力だけで測れるものではないと分かったからだ。
いかに自分らしく生きるか
いかに物事を判断し実行に移せるか...等々

父親が当初思い描いた「賢い子」になれているかはいまいち疑問だが、今日この日までわたしの選んだ道を一度も否定せずに、たくさんの愛情で支えてくれたのは紛れもない事実だ。
中高生の頃は毎日のように「勉強しろ」と頭ごなしに言われて、「うるさい!」と怒ってドアを思い切り閉めてSlipknotやAvenged Sevenfoldの曲を爆音で流して反抗し、更に怒られたこともあったけど、いまなら分かる。あれはわたしのためを思って言ってくれてたことなんだって。

そんなわたし、本日2020年8月25日で30歳になった。
誕生日って「自分は独りじゃないんだな」って再確認できる日だなって、今日いろんな人からおめでとうって連絡が来るたびに実感してる。
名前は、生まれて初めてもらうプレゼント。
キラキラネームだろうが、はたまた古臭い名前だろうが、全ての名前にいろんな意味が、願いが込められている。
中には様々な理由があって改名する人もいるけれど、基本的には名前は「一生もの」だ。何にも変えられない。それならば、思う存分自分の名前を愛してあげようじゃないか。



もう少ししたら娘にも名前の由来を教えてあげる日が来るんだろうなと思うととても楽しみ。
どんな反応をするかな?
そして、どんな成長を見せてくれるかな?

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