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【読書感想文】『ヤクザときどきピアノ』/鈴木智彦~極道の生き様を描き続けた手が鍵盤をたたく時~

新しい趣味を始めたいけれど躊躇ちゅうちょしている、そういう人は結構多いのではないかと思う。

始めたい気持ちはあるのに、一歩踏み出せない理由は何なのか。
時間がない、環境がない、歳を取りすぎた、周りに知られたら恥ずかしいetc…、それらしい理由を挙げればいくらでも出てくる。

そういう人は、この本を読めば今までの自分と決別できるかもしれない。
これは、自分が今まで見たことない景色を見る勇気を与えてくれるエッセイである。


・あらすじ

「『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです」――『サカナとヤクザ』『ヤクザと原発』などの潜入ルポで知られる52歳のベストセラー・ライターが、今度はピアノ教室に?! 校了明けに観た1本の映画が人生を変えた。憧れていたピアノをいまこそ弾きたい。譜面も読めない「俺」が、舞台でABBAを演奏するまでの1年と少しの軌跡。

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・52歳、ピアノ初挑戦

52歳のピアノ初心者のおじさんが弾く、ABBAの『ダンシング・クイーン』を聞きたいか。

はい?

自分で書いておいて何だが、なんだその質問は。そもそも、これを読んでくれている人の何人が『ダンシング・クイーン』という名前だけで曲を想起できるのだろうか。

この曲である。
とっても有名なので、聞いたことがある人は多いと思う。

そして、52歳のピアノ初心者のおじさんとは、この本の著者のステータスだ。
この本の著者である鈴木智彦氏は52歳、スキンヘッドで眼鏡のおじさんだ。
ヤクザを主題とした著作を多く手掛けている、ジャーナリスト/ライターでもある。

さて、質問内容を整理したところでもう一度聞こう。
52歳のピアノ初心者のおじさんが弾く、ABBAの『ダンシング・クイーン』を聞きたいか。

私は別に聞きたくない。

石を投げないでほしい。
いや、鈴木氏のピアノなら聞きたい。
この本を読んだことで、私は彼のダンシングクイーンへの情熱と弾けるようになるまでの軌跡を知っている。もはや他人ごとではない。
しかし、知らないおじさんのピアノだったとしたら、別に聞きたくはない。
ABBAにピアノのイメージ無いし。

やっぱり新しい趣味なんて始めても意味ないのか。
と思われそうだが、私がこの本から学んだことは逆で、周りからどう思われるかなんて全く関係ないということである。
私が聞きたかろうが聞きたくなかろうがどうでもいいのである。

鈴木氏がピアノを始めるにあたり、ピアノ教室を探すシーンがある。
彼は百軒に上の教室の電話番号をリストアップし、片っ端から電話をかける。そして開口一番こう言う。

「『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです」

ヤクザときどきピアノ

半分以上の教室はその言葉だけで門前払いされている。
通常のピアノ教室にABBAの需要は無いし、そもそも男性を受け入れていない教室も多いのである。
しかし鈴木氏は諦めない。電話に電話を続け、最終的に最高のピアノ講師に出会うことになる。

弾きたいのがABBAであることや自身が男性であることは、始めるハードルにはなるが諦める理由にはならない。
何十件のピアノ教室に断られようが、電話し続けるのである。理由は至極簡単でとにかく『ダンシング・クイーン』を弾きたいからだ。

主役は始める人その人であって、あとは全員脇役に過ぎない。
鈴木氏にとって、男子禁制の教室やABBAに怯む教室に用は無いのである。
自分がやりたいという気持ちが一番大事であり、周囲の思惑など二の次、三の次なのだ。

・残酷な現実を生きるために

鈴木氏を52歳にしてピアノに向かわせたものは何なのか。

彼がピアノに向かい続けた理由は複合的なものだ。
小さいころから実はピアノに憧れていた、たまたま見た映画の挿入歌に使われていた『ダンシング・クイーン』に異様なほど感動してしまった、良い講師に会えた、等いくつかの事象が重なった結果、彼のピアノへの情動は途切れなかった。

その数ある理由の中でも私が一番共感したのは、「現実が残酷で不公平だから」である。

52年も生きれば、いや、30年ぽっち生きただけの私でも分かる。我々の生きる現実にはひどく残酷で不公平な瞬間が山のようにある。その現実を少しでも楽しく生き抜くための武器が、鈴木氏にとってはピアノだったのである。

新しい趣味を始めることは新しい武器を増やすことに等しい。
新しい武器を手に取って必死に振り回す鈴木氏の姿は、同じ現実を生きる我々に勇気をくれる。
この世の理不尽さに鬱々としている暇などないのだ。踊る阿呆にみる阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損。徳島阿波踊りの精神に近い。

新しい武器に触れたとき、新たな発見があるかもしれないし、同じ武器を持った仲間が集まってくるかもしれない。そしてそれは残酷な世界を生きるための力になる。

・ヤクザとピアノ

ここまで、このエッセイの持つメッセージについて書いてきたが、エッセイとしての面白さにも触れたいと思う。

この本のエッセイとしての面白さは、やはり鈴木氏がヤクザライターだということに起因する。文書の端々にヤクザのエッセンスが散りばめられているのだ。

「ピアノを習い始めた」とヤクザに報告したらドラッグをやっていると疑われたり、ピアノ講師のレイコ先生(この先生が最高なのでぜひ読んでほしい)の容姿や年齢を揶揄してきた組長に口答えしたり、「ヤクザ」と「ピアノ」という明らかに印象の異なるものの対比が面白い。

また、「ヤクザ」と「ピアノ」は対比構造だけでなく、似ている部分もある、ということも鈴木氏は描いている。

―――音楽という硬質な専門教育を受けてきたピアノ講師が持つオーラは、人を殺したことのあるヤクザが持つ特別なオーラに似ている。
本当か?

―――レイコ先生がピアノを強く連打した瞬間、ロサンゼルスで銃に打たれた光景がまざまざと蘇った。
本当か?

しかし、私はピアノ教室に通ったこともなければ、ヤクザと相対したこともなく、ましてや銃で撃たれたことは無いので疑念をはさむ資格はない。
きっと本当なのだろう。

「ヤクザ」と「ピアノ」の対比と類似、両方に没入した男の目からそれぞれを関連させて描いているのが、エッセイとして非常に面白かった。


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