日本語を失いゆく我々のために|感想文@『東京都同情塔』/九段理江
「「嫁」という呼び名をやめて「パートナー」と呼びましょう」
10年程前、そんな主張をネットで見かけた。
奇特な人だ、としかその時は思わなかったけれど、いつのまにやら「嫁」という言葉は市民権を失いつつある。
私も使うのが何となく憚られ、「パートナー」とは言わないまでも「妻」だの「奥さん」だのと言っている。
当方、北陸の田舎住まいだが会社の同僚も似たようなものだ。この感覚は都会だけでなく日本全土に広まりつつあるのだろう。
最近久々の再会を果たした旧友がいる。
彼女は、私と会っていない6年の間にフェミニストになっていて、夫のことをパートナーと呼んでいた。
「なんで「嫁」は使わないほうがいいって考えてるの?」
「そもそも、「嫁」って言うのはもともと息子の配偶者に使う言葉なんだよ。自分の配偶者に使う言葉じゃないの」
私の質問に、彼女そうは答えた。
「なるほど。じゃあ、「親」はもともと育児をしている母親を指す言葉だから、夫婦で協力して育児すべき現代では適切な言葉じゃないね」
とは言わなかった。別に彼女と揉めたいわけではないし、「嫁」に加えて「親」まで消失してしまったらたまったものではない。
言葉を失い続ければ、私と彼女の共通言語はやがてなくなり、しまいには意思疎通ができず互いに理解不能な独り言を話すだけの意味不明な関係になってしまう。
別にフェミニストに一家言あるわけではない。
「嫁」という言葉に愛着があるわけでもない。
ただ、日本語はこのように失われていくんだな、と感じただけだ。
元来の意味通り、舅・姑が「嫁」という言葉を使っているのを、私はほぼ聞いたことがない。自分自身、息子がもしこの先結婚しても、ご夫人を「嫁」とは呼べる気がしない。
少なくとも私の周囲では「嫁」という言葉の息の根は止まりつつある。
さて、ここまで、「嫁」の話をしてきたが「犯罪者」はどうか。
罪を犯した者。「犯罪者」という言葉は使ってもよいものか。
「犯罪者」という言葉をこの世から失くす。これが今回紹介する小説、『東京都同情塔』の一つのテーマである。
本作は2023年に芥川賞を受賞している。
主人公は建築家の牧名沙羅。彼女は過去に受けた性被害のせいで「犯罪者」に寛容になれない。特に性犯罪者は生きているべきではない、と考えている。
しかし、今彼女が挑もうとしているのは、彼女の観念と真逆のコンセプトを持つ刑務所『シンパシータワートーキョー』の建設プロジェクトだ。『シンパシータワートキョー』において、「犯罪者」は生まれながらにして幸福な特権を持っていなかった存在として優遇される。「犯罪者」ではなく「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人々)」と呼ばれ、誰もが羨む素晴らしい住環境が与えられる。建築予定場所は新宿御苑。
なぜ沙羅はこのプロジェクトに参加しようと思ったのか。それは沙羅が敬愛してやまない建築家ザハ・ハディドが設計した国立競技場が『シンパシータワートーキョー』のすぐ傍にあるからだ。新宿の景観は、国立競技場と『シンパシータワートーキョー』のバランスで決まる。沙羅にとって、『シンパシータワートーキョー』の建設プロジェクトは憧れのザハ・ハディドと共作に近いものなのだ。犯罪を憎む自分の心と憧れの仕事、沙羅は板挟みになりながらプロジェクトを進めていく。
この物語はファンタジーだ。『シンパシータワートーキョー』という「犯罪者」に特権的な暮らしを与えるという刑務所はもちろんだが、まず設定からして本当の日本ではない。実際の国立競技場はザハの建築ではないからだ。
オリンピック前にゴタゴタがありすぎて忘れている人も多いかもしれないが、当初ザハが設計するはずだった国立競技場は費用が高すぎるとかなんとかで隈研吾の設計に代わっている。未来を想起させる流線型のザハ案とは打って変わって、隈研吾案の国立競技場は極めてシンプルな形をしている。
ザハが建築した国立競技場の横に沙羅が建築する『シンパシータワートーキョー』は立つというのは、存在しないもう一つの日本の未来の話だ。
だが、日本から「犯罪者」という言葉が消失するというのはファンタジーなのか、はたまた実際に起こりえる未来なのか。
言語の利用において、我々日本人は、歴史の中で時に好きに言葉を組み替え、時に言葉の使用の規制を訴えてきた。日本人の言語活動の中で日本人が日本語を取捨選択していくのは自然なことではある。
しかし、現代日本人は、他の日本人どころか人ならざる者に自身の日本語の使用を託すに至っている。AIである。
AIの利用も『東京都同情塔』のテーマの一つだ。
小説内の登場人物はAI-builtという文書生成AIを利用して仕事をしている。Chat GPTみたいなものである。
そして沙羅は、文書生成AIのことを文盲だと感じている。人間が(主にネガティブな)言葉を獲得するのにどれだけの苦痛を味わってきたかに関心を払えないからだ。そしてそれに関心を払うだけの好奇心も文書生成AIは持ち合わせていない。
AIが書いたメールの返信をAIに作ってもらえる時代。私たちの先祖が獲得してきた日本語を、電子頭脳に「これを使え」と使役される時代。
冒頭の「嫁」の話は人間が使用規制を訴えた例だが、今後、AIが不適切だと認めた日本語は無くなっていくかもしれない。そう考えると背筋が冷える。いつか言葉は人間のものではなくなってしまうかもしれない。
まだ日本語の語彙が一定数あるうちに、『東京都同情塔』を読んでおくことは良い選択だと思う。
『シンパシータワートーキョー』と収容者たち、そして沙羅の行く末をその目で見られるうちに。
ちなみに、この小説の約5%はAIが書いているとのことである。