主役|短編小説
9月も下旬だというのに、気温は30℃を超えていた。
早く秋が来ないものかと誰もがうなだれるような日に、東京都心の片隅にあるこぢんまりとした競技場ではサッカーの試合が行なわれることになっていた。負けてばかりで、大した成績も収めていない下部リーグに所属するチーム同士の試合。それでも応援に駆けつける熱狂的なファンは数多くいた。会場を適切に管理するためにはガードマンを配置する必要があった。とにかく数が必要ではあったので、不真面目でろくに働かない拓己のような人間でも数あわせとして仕事を得られるのであった。ファンの中心メンバーが喧嘩や暴動を起こさないように、ピッチの端に立って監視をするのが、拓己に与えられた仕事だった。
拓己は電車とバスを乗り継ぎ、会場へと向かった。長い時間をかけてようやく競技場に辿り着いても、誰もねぎらいの言葉などかけてはくれなかった。そのくせ、見ず知らずのスーツ姿の男から、監視を始める前に会場を設営しないといけないことだけが言い渡された。現場に来るまで、会社からその事実を知らされなかった拓己は、一秒たりとも設営の仕事などしたくないと憤った。だが、試合が始まるのは何時間も後だというのに、30人ほどいた他のガードマンたちは既に制服へと着替え、忙しそうに荷物を運んだりしていた。拓己は他の人間など知ったものかと、めげることなくその場に立ち尽くしていたのだが、スーツ姿の男に「早く着替えて働け」と言われ、断る選択肢が存在しないことを悟った。嫌々ながらもゆっくりと制服に着替えた拓己は、みんなが働いている輪の中に入っていった。
設営の一環として、選手の名前や応援の言葉が書かれた巨大な横断幕を会場に設置する作業があった。拓己はいつの間にかその部隊に組み込まれていた。数名のサポーターたちは先に競技場内へ入ることが許可されており、観客席という見晴らしのいい場所で仕事をしていた。拓己を含めたガードマンたちはその下で蟻のようにせっせと働いた。
観客席の先端には鉄製の手すりがあり、横断幕上部から伸びる紐をサポーターたちがくくりつけた。上部をとめただけでは風で飛んでいってしまうので、横断幕の下部から伸びている紐も固定しなければならなかった。拓己と数人のガードマンたちは台車で運んできた10キロ程度ある鉄の重りに紐をくくりつけていった。もう終わりかと思えば次から次へと追加の横断幕が足されていった。1枚を繋ぎとめるだけで重りを3つも4つも使わないといけなかった。仕事とは言え、汗で体がびっしょり濡れると罰を与えられている気分になると拓己は思った。
ただでさえ疲れていたガードマンたちに向かって、観客席にいたサポーターたちは「間隔がおかしい」とか「もっと違うデザインのものを使うべきだった」などと言い、数カ所の横断幕をもう一度外して取り付け直すよう要求した。「どうしてそんなに偉そうにしているのだ」と拓己は腹が立った。拓己は他のガードマンたちが急いで手直しをしている横で何もせずに突っ立っていた。そんな時、彼は一人の男に声をかけられた。
「ちょっと兄さん、あんたの足下にあるその紐なんだけどさ、そんな結び方してたら風で飛んでいかない?」
黒いスカジャンを羽織った中年男性がサングラスを少しだけ下げ、拓己の顔をじっと睨んだ。彼は周りにいた他のガードマンの存在はまるでないかのように、拓己だけに指図をした。拓己は面倒だと思ったが、念のため男が指摘した部分を確認した。すると、鉄製の重りには紐が丁寧に巻き付けられ、上部で蝶蝶結びまでしてあった。これで横断幕が風に飛ばされるなんてことはまず考えられなかった。
とはいえ、喧嘩腰で話しかけてきた男に事情を説明したところで納得することもないだろうと思った拓己は「すいませんね」とだけ言いい、紐を結び直す振りをしてこっそりほどいた。そのまま結ぶことなく、重りの下に少しだけ紐を挟みこんで、何かの拍子で横断幕が飛んでいってしまうように仕組んだ。「こんな感じでどうですかね?」拓己がそう言うと、男は少しだけ紐に目をやった。が、横断幕に対する何かしらの深いこだわりがあるように見えた男は、大して結び目を確認することもなくどこかに去って行った。
横断幕の作業が終わると、次の指示が出るまでは何もしなくていい時間が少しだけあった。拓己は自然とガードマンの集団から距離を置き、一人きりになった。綺麗に整備された芝のコートを眺めていると、拓己は衝動的な気分になり、選手のみが入れることになっている神聖な領域に近づいていった。そして、誰も見ていない瞬間を狙い、コート内に左足を踏み入れた。背徳感はあったものの、踏みしめる感触はふんわりと柔らかく、足全体が動物の体毛に包まれるようだと拓己は思った。そして、感動のあまりコート内を駆けだしてしまいそうになった。「こんなところでサッカーが出来たら最高だろうな」周りには誰もいなかったが、拓己は誰かに向かってそう語りかけていた。そのまま長い間、芝が痛まない程度に感触を楽しんでいた。当然、誰かしらに見つかるのは時間の問題だった。
「おい!何でお前が入ってんだ!」
下っ端のガードマンは拓己と同じで右腕の周りに赤い腕章をしていたが、怒鳴りながら近づいてきた男は隊長か何かで、黄色の腕章をしていた。隊長はあまりにも太っていて、両眼はビーズのように小さかった。威厳のある男とはいえず、みっともなかった。そのせいで拓己は腕章を確認することもなく、男が指示を出す側にいる人間だとは判断出来なかった。怒鳴られた後も拓己は何食わぬ顔でコート内に左足を入れていたし、いよいよ右足も踏み入れて両脚で芝の感触を楽しんでいた。
「いい加減にしないか!」隊長は腹を上下に揺らしながら拓己に迫った。
さすがの拓己もようやく隊長の存在に気が付いた。依然としてコート外には出なかったが、顔だけはしっかりと見据えた。隊長の顔は真っ赤ではなく、真っ青だった。彼は観客席の方ばかりを気にしていた。サポーターたちが怖かったのだ。
「すいません、少しだけ入ってみたくて」拓己は言った。
「そんなこと許されるわけないだろう!ここに入れるのは選手だけだ」
「ちょっとくらい入ったって何も変わらないじゃないですか」
「お前は何を言ってるんだ!」
間近で怒鳴っても、拓己がその場からまったく動こうとしないので、さすがに隊長は焦り始めた。気が付くと近くで2人組のサポーターがこちらを見ていた。彼らに対して隊長はへこへこと頭を下げてから、拓己のことを無理やり持ち上げ、コートの外に出そうとした。自分の仕事に、役職に傷を付けたくなかったのか、必死だった。
拓己は彼をいじめるつもりではなかったし、可哀想に思えてしまったので自らの力でコートから出て行った。背後で隊長がはあはあ言いながら大きく呼吸をする音と、二人組のサポーターが笑っている声が聞こえた。
自分は芝を傷つけたわけではない。乱暴に踏んだり、摩擦で削ったわけでもない。ただ、ほんの少しだけ感触を確かめただけだ…。なのにどうして怒ってるんだ?どうして笑う必要があるんだ?それに、どうしてみんなはこんなにも素晴らしいものを試そうしないのだろう? 拓己からすれば周囲でコートを眺めているだけの人間たちの方が不思議に思えた。
そろそろ次の指示が出されるかもしれないと思った拓己は、隊長と別れたあとすぐに控え室に向かった。控え室は競技場の近くにある真新しいビルの2階にあった。競技場から出ると、またしてもスーツ姿の男がいて、朝に出会った時よりも横暴な態度で拓己を案内した。ガードマンはビルの正面の入口からではなく、建物の脇にある裏口から入り、外に剝き出しになっている螺旋階段を登っていく必要があった。階段の白い塗装は剥がれ落ち、中の鉄が露わになって錆びてしまっていた。洗練された都市部のすぐ側に、浮浪者が作った段ボールの小屋があるのと同じように、階段の姿は建物とまるで釣り合っていなかった。
控え室に戻ると、拓己はガードマンの仲間たちからじろじろと見られた。理由は何となく理解できたが、あまり気分のいいものではなかった。拓己は全員の視線を無視した。そして、堂々と胸を張って室内を闊歩していった。
片隅にはくたびれたパイプ椅子が置いてあった。拓己はそこを自分の居場所と決め、全員に背を向けて深く腰を下ろそうと思ったが、小便が我慢出来なくなってしまった。仕方なくパイプ椅子にリュックサックを置き、再び視線を浴びながらも、室内を横切った。
控え室を出ると、すぐ近くにトイレはあった。清潔で静かなトイレは控え室よりもよっぽど居心地がよかった。大便をする部屋は6つもあって、ここなら落ち着いて読書が出来たのにと思うと、拓己はリュックサックから文庫本を取り出してこなかったことを悔やんだ。他には誰もいなかったので、拓己は小便器の列の真上に取り付けられた長方形の大窓から、競技場の横を走る大通りを眺めた。ひどく渋滞していた。どうやら競技場ではなく、その先にあるショッピングモールに行く人間がたくさんいるようだった。
パイプ椅子の置いてあった場所に戻ると、彼のリュックサックは荒らされ、投げ捨てられていた。中身は床に散らばっていた。お気に入りの文庫本にかけてあった革製のカバーは引きはがされ、何者かにぐしゃぐしゃにされていた。しばらくパイプ椅子の前で茫然としていたが、急激に込み上げてくる怒りを抑制することが出来なかった。
拓己はパイプ椅子を蹴り飛ばした。勢いで壁にぶつかり、大きな破裂音がした。その場にいた全員は拓己と目を合わせようとはせず、彼に背を向け、よそ見をした。やり場のない怒りをぶつけようと、何もかもを破壊しようとした拓己に、副隊長と呼ばれる人物が怒りをなだめると同時に仕事で使う無線機を渡しにやって来た。
「お前、無線機の使い方は分かるか?」髪が真っ白な副隊長は、か細い腕を恐る恐る伸ばして、檻の中にいる猛獣に餌をやるように無線機を渡した。
「会話をするときは、このピンマイクについたボタンを押して話せばいいんですよね?」乱暴に無線機を受け取ると、拓己はそう言った。
「そうだ、こっちの指示はしっかり聞くようにするんだぞ」拓己は言葉を返さなかったが、静かに頷いた。
「お前がなんていう名前かは知らないし、気にもならない。だが、今日はフィールドAと呼ばれる。しっかりと覚えておけ」
拓己は眼光を鋭くして副隊長を睨んだ。それでも副隊長は怒りを煽る言葉を続けた。
「いいか、フィールドAだからな。メモしなくて大丈夫か?」
「そんなことくらい覚えられるし、俺には名前がある」
「何だって?」
「俺の名前は西山です」
「そんなこと知るもんか、お前はフィールドAだ。分かったな」
「何回も言わなくたって分かってます。でも俺は西山です」
立ち尽くす拓己に誰かが空のペッドボトルを投げつけた。ちょうどプラスチックのキャップが後頭部に当たり、こつんと音を立てた。それを見て何人かがくすくすと笑い声を立てた。最後まで拓己のことを名前で呼ぶことなく、副隊長は控え室から出ていった。
拓己はひっくり返したパイプ椅子を立て直し、ゆっくりと腰を下ろした。そして、しわくちゃにされたカバーは放っておいて、文庫本だけを拾い上げた。他人の目を気にして他人のために生きていくのはつまらない。くだらない人間の相手をすれば貴重な時間を無駄にしてしまう。拓己が突然別人格になったかのように切り替わり、読書に没頭し始めたので、からかおうとする人間はいなくなった。
休憩を終えて再び競技場内に戻る頃には、拓己は本を読むことで心を整え直していた。そうして落ち着いた心持ちのまま、予め指示を受けていたピッチ上の所定位置に向かい始めたのだが、試合が始まっているわけでもないのにものすごい歓声が鳴り響いていることに驚いた。大勢の観客がやって来ているわけではなく、一部の熱狂的なサポーターが懸命に出している大声だった。頭が痛くなりながらも、拓己はようやく所定位置に辿り着いた。大歓声のおかげで聞き取りづらかったが、無線機を通して隊長が機械的にフィールドAという名の自分に話しかける声を拓己は聞いた。
「フィールドA配置についたか?」拓己はピンマイクのボタンを押した。
「フィールドA配置完了です」
拓己はコートの真横に立っていた。反対側から見ていた隊長と目が合ったが、すぐに目線を逸らされた。無線機越しでの返事もなかった。薄情な男だと思ったが、拓己はガードマンたちの行動にはもう関心がなかった。相手にする気もなければ、仕返しをしようとも思わなかった。目の前にいる知らないチームを応援している知らないサポーターたちと対峙する苦痛に耐えることで必死だった。知っているチームで一緒に盛り上がることができればどれだけ楽しい仕事になったことかと拓己は思った。
試合が始まるとサポーターたちは狂乱状態になり、さらに凄まじい勢いで叫び始めた。拓己には、彼らが万人の心を突き動かすことが出来ると信じて止まないように見えた。何度も繰り返される応援歌は、ワインレッドの夕焼けを反射させながら押し寄せる波のように感動的なはずがなかった。手のひらで何度払っても、頭の周りを執拗に飛び続ける蠅と同じように、握るつぶせるものならさっさと握りつぶしてしまいたいほど鬱陶しいだけだった。拓己は次第にサポーターたちを見ることに苦痛を感じるようになった。同時に、彼らの叫び声があまりに凄まじく間近で聞いていると鼓膜が痛かった。
試合内容としては特に展開のないまま前半戦は終わりにさしかかった。得点の入らないつまらない試合だったが、相変わらずサポーターたちの勢いが衰えることはなかった。この調子で後半戦も仕事を続けられるはずがないと拓己は思った。どうにかしてこの場を離れたいと考え始めた。そして1つだけアイデアを思いついた。
「フィールドAから隊長へ、そろそろ出番が来ます。以上フィールドA」
拓己は無線機に向かってそう言い放った。隊長は何の返事もしなかった。無言の許可が下りたものだと一人で納得した。
観客席を見ることをやめて、拓己はコートの方に体を向けた。拓己を後押しするように風が強く吹き始めた。コート内では、ホームチームが相手陣地に少しだけ攻め込んではいるが、左サイド側に人が密集し、スローインを投げ込んではアウェーチームに跳ね返されるという局面が繰り返されていた。センターラインを少し超えた所から、再びホームチームの外国人選手がスローインを投げ込もうとしていた。仲間は相手に上手くマークされ、投げどころがなくチャンスを失っていた。パスを受けようにも受けられないホームチームの選手たちはどうにかして状況を打開しようと必死だった。アウェーチームはアウェーチームでコースを作らせまいと躍起になっていた。そのせいか、猛スピードで迫り来る拓己の姿はあまり視界に入らなかった。拓己は意表を突き、外国人選手の背後から近づきボールを奪った。
拓己は10秒も経たないうちに、ゴールまで一直線に駆け抜け、ボールを手に持ったままゴールキーパーをかわし、得点を挙げた。試合はまだ途中であったが、拓己の暴動に会場は大騒ぎになってしまった。試合が再開されることはなかったばかりか、ゴールを決めてからも取り押さえようとする人間から逃げ回り、拓己がガッツポーズをしたりしていたので、ますます騒ぎが広がってしまった。サポーターたちもピッチ内になだれ込み、血眼になって拓己を取り押さえようとした。
そうして大混乱に陥った競技場の上空には、1枚の横断幕がひらひらと優雅に舞っていた。
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