深夜のドライブ|短編小説
富士の裾野を沿うようにして流れるハイウェイは緩やかに波打っていた。走行車線をゆったりとしたペースで走る赤いステーションワゴンには、肌が白く、華奢な体躯をした男と世話好きで長身なすらっとしたスタイルの女が座っていた。旅行からの帰り道ずっとハンドルを握っていたのは男の方だった。
二人は離れて暮らしていた。お互いの中間地点である関西方面で合流し、束の間の旅行を楽しんでいた。そのまま現地で別れてしまうのが惜しくなり、「家まで送って」と男に無理なお願いをしたのは女の方だった。そうやって、長いドライブが始まった。
深夜2時を過ぎる頃、車は長い上り坂に差し掛かっていた。男は速度が下がっていることに気付かないまま追い越し車線に出ようとした。後から迫ってきたトラックとぶつかりそうになった。慌てて元の車線に戻った男は改めて疲れを感じ、30分ばかり休憩を取ることにした。
間もなくして二人は小高い丘の上にあるパーキングエリアに立ち寄った。そこには壮大な山麓を背にしてテーマパークのようにカラフルな建物が並んでいた。眩いライトに照らされ、闇夜の中に煌々と浮かび上がる姿はどこか人工的であり、不気味だった。
屋上の展望台からは駿河湾が太平洋に向かってその控えめな入口を開いている様子を見渡せるはずだったが、二人が着いた頃はあまりにも暗かった。彼方にぽつぽつと港の灯りが見えるだけだった。だからといって、夜明けを待つほどの余裕は二人になかった。真冬の深夜、海から吹きつける風は冷たく、展望台の居心地は決していいものではなかった。
「下に降りて何か飲み物でも買わない?」
女が言った。
「僕はここにいるよ、寒かったら先に戻ってもかまわないし」
男は展望台の端にあるベンチに座ったまま動こうとしなかった。
「じゃあ何か買ってきてここに戻ってくればいい?」
「そうしてもらえるならありがたいね」
「温かいミルクティーとかでいい?」
「できればブラックコーヒーがいいな」
「でも、こんな時間に飲んだら眠れなくなるよ」
「そんな心配いらないよ。そもそも眠ってる時間もないし」
男は少しうつむいた。
「嫌みを言うくらいなら最初から断ればよかったじゃない」
「べつにそういうつもりじゃないけど」
男がそう言うと、女は何も言わず一定のリズムを保ちながらゆったりと階段を降りていった。
5分もしないうちに女は戻った。今度はさっきよりも少し速いリズムだった。急いで階段を登ってきた女は少し呼吸を荒げていた。
「本当にブラックコーヒーでいいのね?」
女は男の顔をまじまじと見つめた。
「うん、そう言ったでしょう」
男は静かに手を伸ばした。
「それにしても寒いだけで何も見えないじゃない」
女は言った。男は勢いよくブラックコーヒーを飲んだ。
「もっと明るくて、暖かくて、海全体を見渡せたら気持ちがいいんだろうね」
「でもさ、昼間だって全部が全部見えるわけではないと思うけどね」
男は缶を足下に置いた。
「今みたいに何も見えないよりかはよっぽどいいじゃない」
「僕はこういうのも嫌いじゃないよ。それに、何も見えないわけじゃない」
「ねえ、そういうのやめにしない?」
「だって、よく見てみれば港の灯りだって綺麗だし、船だって浮かんでる。それに、この湾には巨大な海溝があって、底の方にはものすごく広い世界が広がってるんだよ」
「見たことを見たままに言って何が悪いのよ」
女は男の隣には座らず、立ったままミルクティーを飲んだ。
展望台から見える海はずっしりと横たわっていた。ブルーブラックの油絵具を雑に伸ばしたものが、ぶ厚いまま固まってしまったかのように見えた。奥行きがあるはずの風景を平面でしか捉えることが出来ず、二人の男女はひどく困惑していた。
「このまま離れて暮らしていても、僕たちはやっていけると思うよ」
男は言った。女は依然としてベンチに座ろうとしなかった。
「今みたいに自由があって旅行にだって来られるし、お互い同じ国内に住んでるわけだから、会おうと思えばいつだって会えるでしょ?」
「でも、最初は一緒に住みたいって言ってたじゃない」
女が言った。
「それは昔の話で、現実を知らなかっただけだよ」
「現実ってどういうこと?」
「現実っていうのは、僕にもリサにも安定が必要だってことだよ。今から全てを投げ出したって上手くいくはずがないよ。どちらも故郷を離れることに
未練があるんだから」
「じゃあ、私が側にいなくても友達や家族がいれば平気だって言いたいの?」
男は黙って再びブラックコーヒーを口にした。
「それって何をしてるか分からないというか・・・卑怯よ」
「でも、今僕が一緒にいるのはリサであってそれが答えだよ」
「あまりにも都合が良すぎじゃない」
「でも、それはリサも同じじゃないの?」
展望台の上には、無数の白い星を湛えた澄み切った夜空が広がっていた。水平線を眺めると夜空と黒々しい海とが混ざり合い、星が上から下に転がり落ちているようで、どこが境目なのか分からなくなってしまいそうだった。
「僕たちがしているのは紛れもない恋愛でしょ?」
「そうね」
女はようやくベンチに座り、ミルクティーの缶を両手で覆うようにして持った。
「お互いのことが好きで、頻繁ではないにせよ、楽しく過ごせる時間を持てるならそれでいいんじゃないの?」
「それはそうかもしれない」
女は言った。
「今回の旅行だって楽しかったでしょう?」
男は女の顔を覗きこんだ。
「それはもちろん、とっても楽しかったよ」
女は少しはにかんで見せた。
「でもね、私は今でも一緒に住みたいと思うよ。勇気を出して故郷を飛び出して。家族のことも仕事も投げ出して」
女は再びベンチから立ち上がり、展望台から南西方向を眺めた。本来は葉が落ちてしまい、寂しげな林が広がっているはずなのだが、夜の闇をその斜面にまとい、膨らみを保っている山々がリサの目に映った。二人が車で走ってきたハイウェイはいくつかの峠を乗り越えてきたが、残された峠はそれほど多くはなく、険しくもなかった。
「そろそろ車に戻ろうか」
女はベンチの方に振り返って言った。
「急いで帰らないと朝になるから早く行かないとね」
「いちいち口にしないと気が済まないの?」
「僕は事実を言っただけだよ、お互い帰らないといけない場所があるでしょ?」
「もうすぐ旅行も終わるんだから、最後くらい普通の会話はできない?」
「普通に会話をしてるつもりだけどね」
男は立ち上がると、空になった缶を手にした。
「私が悪いんだもんね、責めたいだけ責めればいいよ」
女は先に階段を降りていった。その少し後に男も続いた。
「勝手に責めてることにしないでほしいね。僕は普通に会話してるつもりだよ」
「あなたにとっては普通かもしれないけど私は違うの!こっちがどう思うかは勝手でしょ!」
女は声を荒げた。
「僕だってこういう雰囲気にしたくなかったよ。でも、リサが帰ってしまうのはいつだって寂しいんだよ」
「そういう言い方が私にとっては責められてるように感じるの!」
女は階段を降りると早歩きをし始め、車ではない方向に急ぎだした。
「ちょっとどうしたの?落ち着いてよ」
男はすぐに女に追いつき、肩に手をかけた。その手はすぐに振り払われた。
「御手洗いに行ってくるだけ!先に戻ってて!」
「分かった」
建物から少し離れた駐車場の奥の方に二人が乗ってきた赤いステーションワゴンが停車していた。男は一人で歩き、自分が言ったことの何がいけなかったのかを振り返ったが、答えが出ないまま車に辿り着いてしまった。男は車内に入らなかった。そして、車の周りをゆっくりと、よそよそしく歩いて眺めた。
左側の前輪と後輪は駐車スペースを示した白線に重なってしまっていた。前方のナンバープレートには無数の虫が死骸となって張り付いていた。スタイリッシュなデザインをしているはずの車がどこか不格好に見えた。それに、普段なら3人ほど座ることのできる後部座席は、トランクケースやリュックサックで埋め尽くされてしまっていた。
後部座席で山積みになっている荷物は数日間の旅行で、乱雑に扱われるようになってしまった。旅行先で合流した瞬間だけが特別で、あとはまったく同じだった。車から取り出し、ホテルに運び込み、また夜を明かしては車に戻すことの繰り返し。男は自分もまたありふれた反復運動をしているだけだと悟り、ドアノブに手をかけることさえ億劫になってしまった。女が帰って来てからも、男は車の前で立ち尽くしたままだった。
「どうして中に入らないのよ、体が冷えちゃうじゃない」
「少し港の様子を眺めてただけだよ」
「そう」
「じゃあ、そろそろ出発しようか」
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?