【現代の病】自然への不感症――水に触れて、感じとる
昭和後期から、若者が「反抗的になった」と報道された。
それ以前は、学生が先生に反抗することはなかったという。
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人間としての辛み、喜び、それを素直に吐露できた時代。
痛み分けをしながら生活をし、そこに自立(と呼ばれる精神上のふるまい)があった。
これがすっかり無くなったのはいつか?
「週刊誌」のゴシップが売られるようになってから、である。
関係のない人間を相手取り、一方的に関係したつもりで、
何様の口をたたく。
そういった虚構の縁で、また人と人がつながる。
週刊誌が生んだ「虚構の縁」が、純朴な信じる心を破壊したのだ。
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時は進み、平成。
携帯電話が生まれ、電話が発達。
家族よりも友達、友達よりも他人とつながる時代になった。
「虚構の縁」は輪をかけて広がり、自分自身の人格すら虚構と化した。
時は進み、令和。
人々は動画に時間を費やし、もはや会話をしなくなった。
ああ、とかはい、とか、そんな宙に浮いた声しか聴かない。
「虚構の縁」どころか、「虚構の器」になり下がっていないか。
打てば響かぬ 打てば割れる 虚構の器になっていないか。
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さて、「自然の不感症」とは、昭和後期から人々が
自然崇拝をしなくなり始めたことを指している。
「自然崇拝」の衰退と同時に、「若者の荒廃」が始まっている。
これはどういうことだろう。
人間にはミラーリングと呼ばれる心理現象がある。
対峙しているもののしぐさ、メッセージを無意識に受け取っており、
それに順応していくことである。
我々は「電化製品」が放つ「無限性」「無表情性」「一方通行」「即シャットダウン可能」といった性質を、
受け取り、それになり替わろうとしている。
つまり文字通り、「人が」「変わってしまった」のだ。
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これはわたしたち自身の責任ではない。
発明が社会を豊かにし、仕事(または娯楽)を変え、
それに向き合った結果が、機械化した人間だったのだから。
しかし、「人格の荒廃」は恐ろしい。
両親、祖父母が育ててくれた大切な体を、
魂を、資本主義に乗っ取られているも同然ではないか。
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自然を愛せなくなったら、私たちはどうなっていくのか。
逆説的に考えよう。
自然を愛さないことで、なぜ私たちは不幸になるのか。
私は考えた。
身体が自ずと知っているのだ。
自分を育てたのは、大地であり、自然であると。
「母なる大地、父なる家族を愛さないで生きていること」が、
「不幸」であると体が嘆いているのだ。
つまり、「自然への感謝を思い出す」こと。
それが今の若者、かつての若者、
そう、「現代の人々すべてがやるべきこと」なのだ、
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家の中に自然はある。
水だ。
水に触れてみてください。
水を飲んでください。
水を被ってみてください。
水とコミュニケーションをとって、気づいてください。
いつも自然は誰よりもそばで、あなたを育んできたのだから。