外国留学者は岸田首相の言う少数派ではなくむしろ特権派ある
岸田首相が自身の秘書官の「同性婚は見るのも嫌だ」と発言した差別問題に関連して、「私自身もニューヨークで少数派(マイノリティー)だった」と公言したことに違和感を覚えました。
どうやら差別問題の本質を理解しないらしい空疎な言葉に対しては、強いバッシングが起きるだろうと思って見ていました。
だが批判らしい言説は何も起こっていないようです。そこで筆者が自分で言っておくことにしました。
まず総理大臣秘書官の愚かな発言は、それに先立って表明された岸田首相の「(同性婚を認めれば)社会が変わってしまう」という趣旨のこれまた歪つな発言に続いて出たものであることを確認しておきたい。
つまり秘書官の差別発言の元凶は岸田首相の中にある差別意識、という一面があります。
秘書官はボスの意に沿いたいという忖度からあの発言をした可能性があるのです。むろん、だからと言って彼自身の差別体質が許されるわけではありません。
有体に言えば、岸田首相と秘書官は同じ穴のムジナです。
政権トップとその側近が同性愛者への強い差別意識を持っているらしい事態は、日本国民の多くが同じ心的傾向を秘匿していると示唆しています。
岸田首相の「私も少数派(マイノリティー)だった」発言を聞いて、筆者は即座に「やはりその程度の認識しか持てない人物か」と妙に腑に落ちました。
筆者には岸田首相が、自らの言葉を持たない無個性の“アンドロイド宰相”というふうに見えます。
のっぺらぼうの奇妙な権力者は、虚言癖の強い歴史修正主義者だった安倍元首相と、言葉を知らない朴念仁の菅前首相に続いて出て来ました。
筆者は3代続く日本のトップにいずれ劣らぬ違和感を抱いています。岸田首相の「私も少数派だった」発言に対する筆者の率直な反応は、その違和感ゆえの自然な作用でした。
日本人留学生は、国内に留まっている日本人から見れば少数派(マイノリティー)などではなく、言わばむしろ特権派でしょう。日本を出て外国に学ぶことができる者は幸いです。
留学生にとっては、渡航先の国で味わう少数派としての悲哀よりも、「幸運な特権派」としての歓喜のほうがはるかに大きい。
日本を飛び出して、貧しいながらも外国で学ぶ体験に恵まれた筆者にはそれが実感として分かります。
外国で日本人留学生が受ける眼差しや待遇は、「多様性を体現する者」への暖かくて強い賛同に満ちたものである場合がほとんどです。
一方、荒井勝喜前首相秘書官の差別発言は、国内の少数派に向けて投げつけられた蔑視のつぶてです。
子供時代とはいえ、ニューヨークで勉学することができた岸田首相が「少数の日本人の1人」として特別視された、あるいは特別視されていると感じた事態とは意味が違う。
そうではあるものの、岸田首相が彼自身の言葉が示唆しているようにニューヨークで日本人として差別されたことがある、あるいは「差別されたと感じた」経験があるならば、それはそれで首相のまともな感覚の証だから喜ばしいことです。
それというのも外国、特に欧米諸国には白人至上主義者も少なからずいて、彼らは白人以外の人間を見下したり排斥したがったりします。そこには明確な差別の情動があります。
岸田首相はかつてそうした心情を持つ人々から差別されたのかもしれません。だが一方で岸田少年は、多様性を重んじる心を持つ人々の対応を“差別”と勘違いした可能性も高い。
多様性が尊重される欧米社会では、他とは“違う”ことこそ美しく価値あるコンセプトと見なされます。人々は日本からやって来た岸田少年を、“違う”価値ある存在として特別視した可能性が大いにあります。
ところが日本という画一主義的な社会で育った者には、“他と違う”ことそのものが恐怖となるケースもあります。世間並みでいることが最も重要であり、同調圧力のない自由闊達な環境が彼らにとっては重荷になるのです。
岸田少年が、徹頭徹尾ポジティブなコンセプトである“多様性”の意味を未だ知らず、NYの人々に“違う者”として見られ、規定されたことに疎外感を感じた可能性は高い。
むろんそうではなく、先の白人至上主義者あるいは人種差別主義者らによって差別された可能性も否定はできません。
外国のそれらの差別主義者と日本国内の差別主義者は、どちらも汚れたネトウヨ・ヘイト系排外主義者の群れです。だが両者の間には大きな違いもあります。
欧米の差別主義者は明確な意志を持って対象を差別しています。ところが日本の差別主義者は、自身が差別主義者であることに気づいていない場合も多い。
その証拠のひとつが、黄色人種でありながら白人至上主義者にへつらう一味の存在です。
白人至上主義者はむろん黄色人種の日本人も見下しています。
だが表は黄色いのに中身が白くなってしまったバナナの日本人は、そのことに気づかない。気づいていても見えない振りをします。
差別されている差別主義者ほど醜く哀れなものはありません。
同性愛者を差別し侮辱するのは、多くの場合自らを差別している差別者にさえへつらうそれらのネトウヨ・ヘイト系の連中と、彼らに親和的なパラダイムを持つ国民です。
それらのうち最も性質(たち)が悪いのは、自らが他者を差別していることに気づかない差別者です。そしていわゆる先進国の中では、その類の差別主義者は圧倒的に日本に多い。
日本が差別大国である理由は、差別の存在にさえ気づかない“無自覚”の差別主義者の国民が、一向に成長しないことです。
岸田首相は同性愛者を差別する国民を批判しようとして、「私もニューヨークで少数者(マノリティー)だった」と差別の本質に無知な本性が垣間見える発言をしてしまいました。
外国に住まう日本人の中には、日本人として差別を受けたことはない、と断言する者もいます。
それが真実ならば、彼らは日本人を好きな外国人のみと付き合っていれば済む幸運な境遇にいる者か、差別に気づかない鈍感且つ無知な人間か、もしくはバナナです。
バナナとは既述のように表が黄色く中身が白い日本人のこと。自らがアジア人であることを忘れてすっかり白人化してしまい、白人至上主義者とさえ手を結ぶ輩のことです。
差別発言で更迭された荒井勝喜・前首相秘書官は十中八九そうした類の男でしょう。そして筆者は岸田首相も彼の秘書官に近い思想信条を持つ政治家ではないか、と強く疑っています。
日本国内における同性愛者への差別とは、日本人が同じ日本人に向けて投げつける憎しみのことです。岸田首相はそれを是正するために動かなければならない立場にいます。
ところが首相は自らの外国での体験を、気恥ずかしい誤解に基づいて引き合いに出しながら、あたかも問題の解決に腐心している風を装っています。
一国の宰相のそんな動きは、恥の上に恥の上塗りを重ねる浅はかな言動、と言っても過言ではないように思います。