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イタリア人がベルルスコーニを許す理由(わけ)

間もなく発足する予定のイタリアの右派政権には、醜聞と汚職と暴言また金権にもまみれたベルルスコーニ元首相も加わると見られています。

政権を率いるのは極右政党党首のジョルジャ・メローニ氏。彼女はかつてのベルルスコーニ政権で、31歳の史上最年少閣僚として起用された過去を持っています。

以来ベルルスコーニ氏は「政界の親」として、彼女を擁護してきました。

立場が逆転した今、メローニ氏が自らの政権内でベルルスコーニ氏を優遇する可能性は十分にあります。

ベルルスコーニ氏は外相あるいは法相を目指しているとも、上院議長の席を狙っているとも噂されています。

ベルルスコーニ元首相は2013年、脱税で有罪判決を受けて6年間の公職追放措置になりました。だが悪運強く前倒しで解放されました。

彼はすぐに選挙活動を開始。2019年には欧州議会議員に選出されて政界復帰を果たしました。86歳になる今日も変わらずにイタリア政界を掻き回しています。

実業家だったベルルスコーニ氏は1994年、独自のフォルツァ・イタリア党を結成。長年イタリアを牛耳っていたキリスト教民主党の死滅を受けて、ほどなく総選挙で勝利し首相に就任しました。

以後、3期(4期)9年余に渡って首班を務め、下野している間も一貫してイタリア政界に君臨し多大な影響力を持ち続けてきました。

他の先進民主主義国ならありえないようなデタラメな言動・行跡に満ちた彼を、なぜイタリア国民は許し、支持し続けるのか、という疑問が国際社会では良く提起されます。

その答えは、世界中のメディアがほとんど語ろうとしない、一つの単純な事実の中にあります。

つまり彼、シルヴィオ・ベルルスコーニ元イタリア首相は、稀代の「人たらし」なのです。

日本で言うなら豊臣秀吉、田中角栄の系譜に連なる人心掌握術に長けた政治家、それがベルルスコーニ元首相です。

こぼれるような笑顔、ユーモアを交えた軽快な語り口、説得力あふれるシンプルな論理、誠実(!)そのものにさえ見える丁寧な物腰、多様性重視の基本理念、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさ、などなど・・・元首相は決して人をそらさない話術を駆使して会う者をひきつけ、たちまち彼のファンにしてしまいます。

彼のそうした対話法は意識して繰り出されるものではなく、自然に身内から表出されます。

彼は生まれながらにして偉大なコミュニケーション能力を持つ人物なのです。

人心掌握術とは、要するに優れたコミュニケーション能力のことです。元首相が、人々を虜にしてしまうのは少しも不思議なことではありません。

元首相はそのコミュニケーション力で日々顔を合わせる者をからめ取ります。

加えて彼の富の基盤である、自身が所有するイタリアの3大民放局を始めとする巨大情報ネットワークを使って、実際には顔を合わせない人々、つまり視聴者まで取り込んで味方にしてしまうのです。

イタリアのメディア王とも呼ばれる元首相は、政権の座にある時も在野の時も、ひんぱんにテレビに顔を出して発言し、討論に加わり、飽くことなく政治主張をし続けてきました。

有罪判決を受けて以降も、彼はあらゆる手段を使って自らの潔白と政治メッセージを明朗に且つ雄弁に申し立ててきたのです。

しかしながら彼の明朗や雄弁には、暗い影もつきまとっています。ポジティブはネガティブと常に表裏一体なのです。

即ち、こぼれるような笑顔とは軽薄のことであり、ユーモアを交えた軽快な口調とは際限のないお喋りのことであり、シンプルで分りやすい論理とは大衆迎合のポピュリズムのことでもあります。

また誠実そのものにさえ見える丁寧な物腰とは、偽善や隠蔽を意味し、多様性重視の基本理念は往々にして利己主義やカオスにもつながります。

さらに言えば、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさは、徹頭徹尾のバカさだったり鈍感や無思慮の換言である場合も少なくありません。

そうしたネガティブな側面に、彼の拝金主義や多くの差別発言また人種差別的暴言失言、少女買春、脱税、危険なメディア独占等々の悪行を加えて見てみればいい。

すると恐らくそれは、イタリア国民以外の世界中の多くの人々が抱いている、ベルルスコーニ元首相の印象とぴたりと一致するのではないでしょうか。

それでもイタリア国民は彼を許し続けています。ポジティブ志向のイタリア国民は、元首相のネガティブな側面よりも彼の明朗に多く目を奪われます。

短所はそれを矯正するのではなく、長所を伸ばすことで帳消しにできる、とイタリア国民の多くは信じています。短所よりも長所がはるかに重要なのです。

例えばこういうことです。

この国の人々は全科目の平均点が80点のありふれた秀才よりも、一科目の成績が100点で残りの科目はゼロの子供の方が好ましい、と考えます。
そして どんな子供でも必ず一つや二つは100点の部分があります。その100点の部分を120点にも150点にものばしてやるのが教育の役割だと信じ、またそれを実践しようとします。

具体的な例を一つ挙げます。

ここに算数の成績がゼロで体育の得意な子供がいるとします。すると親も兄弟も先生も知人も親戚も誰もが、その子の体育の成績をほめちぎり心から高く評価して、体育の力をもっともっと高めるように努力しなさい、と子供を鼓舞するのです。

日本人ならばこういう場合、体育を少しおさえて算数の成績をせめて30点くらいに引き上げなさい、と言いたくなるところですが、イタリア人はあまりそういう発想をしません。

要するに良くいう“個性重視の教育”の典型です。醜聞まみれのデタラメな元首相をイタリア人が許し続けるのも、子供の教育方針と似た理由からです。

元首相は未成年者買春や収賄や脱税などの容疑にまみれた男です。

同時に彼は性格が明るく、コミニュケーション能力に長け、一代で巨万の富を築いた知略を持つ傑出した男でもあります。

ならば後者をより重視しよう、という訳です。

イタリア共和国には ― 繰り返しになりますが ― 短所を言い募るのではなく長所を評価するべき、と考える人が多いのです。

実はそこには「過ちや罪や悪行を決して忘れてはならない。しかしそれは赦されるべきである」 というカトリック教の「赦し」の理念も強く作用しているように見えます。

人々は元首相の負の側面を決して忘れてはいません。忘れてはいませんがあえてそれを赦して、彼のポジティブな要素により重きをおいて評価をしている、とも考えられるのです。

閑話休題

ベルルスコーニ元首相が、極右とも規定されるメローニ政権内で国民のために成すことがあるとすれば、政権が反EUに走ろうとする際にこれを引き止めることです。

元首相はEU信奉者です。

メローニ氏は逆に反EUを標榜してこれまで政治活動をしてきました。メローニ氏の立場は欧州の全ての極右勢力と同じです。

それはつまり、英国のBrexit首謀者やトランプ主義者と同じ穴のムジナ、ということでもあります。

保守主義者でプーチン大統領とも親しいベルルスコーニ氏が、我欲を捨ててEU結束のためにメローニ首相に諫言し立ちはだかるのかどうか、筆者はここからはより注意深く見守ろうと思います。

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