バイエルで躓く少女が1人きりでソナチネを弾けていた理由。
昔昔のお話です。
その少女はいつもクマのぬいぐるみを抱えて眠っていました。
学校から帰る。母親からのメモに目を通して下の二人のきょうだいのためにおやつが冷蔵庫にあるのを黙って確認してからメモにある通りに乾いた洗濯物をとりいれてから宿題を済ませる。塾や習い事がなければ仕方なくピアノの前に座ってポロポロ練習していました。
少女がなぜピアノを続けていたのか。「おまけの声楽」が楽しみだったからです。
少女にとって声楽が魅力でおまけはピアノの方でした。
少女の両親はレッスンがどれくらいすすんでいたのか把握していませんでした。
ただ、毎年の発表会の前には少女の両親は彼女のピアノの練習の進み具合をにこやかに尋ねていましたが、両親はピアノは弾いたことはありませんでしたし、習ったこともありませんでした。
「今年は何を弾くのか?」
「…」
「発表会」
「トルコ行進曲」
「そうか、そうか」
発表会なんか本当は出たくないのに。また先生から手の甲を叩かれたら…。
指が踊ってる!もっと正確に弾いて!もっと!
少女は憂鬱でしたがおまけについてきた声楽は好きでもありましたのでピアノをやめたいと話せなかったのです。
黄色いバイエルで長く躓いていたことや、逃げ出したい、ピアノなんか嫌、って少女は両親には話せませんでした。
レッスンが始まる。特に「発表会」の前には厳しく激を飛ばされる。もたもたするとイライラする先生から手の甲をはたかれる…。
それは彼女の心をへし折り、怖くてたまらない出来事でした。
つらい。楽しくない。違うことをしたい。ピアノよりも本当は他のことをしたい。
だけどパパやママががっかりする。こんなに発表会を楽しみにしているのに。
✕✕の○○ちゃんはあんたより上手だったわよ?発表会ではしっかり弾いて。新しいスカートを発表会に用意するから。△△のお嬢さんはあんたより遅くにレッスン始めたのにもっとしっかりしないと追い越されるわよ?
少女は母親の言葉に項垂れました。
…音楽教室はあんなに楽しかったのに。
ピアノの先生が怖い。
ピアノ教室へ行く足取りは重くて路地に座り込んでいたりもしました。流れてくる他の生徒のピアノの音を聴いてしばらく遅れておずおず教室に入ることもありました。
なにやら軽やかなピアノが聞こえる。あれ、弾いてみたいな。
自分よりも長くレッスンを続けていたその人に古いソナチネの楽譜を少女はもらいました。
いつも聴いてる。とりあえず譜面は読める。少女はおうちではハノンの練習すら嫌で仕方なく母親の前ではとりあえず何かしら弾く、誰もいなくなってからハノンすらおぼつかないのに。
まだ習っていないソナチネを1人こっそり練習をしていたのでした。
え。
弾ける。
自宅のピアノの上にあるメトロノームの横の楽譜をすべて引っ張り出して見比べました。
なぜ。簡単なはずのが弾けないの?
簡単なやつは
練習してないから?
誰かの前で披露もしない自己流のソナチネ。
「指が踊ってる!」「しっかり正確に!!」
少女はかぶりを振り、ある年の春、父親にようやく言いました。
「ごめんなさい。ピアノはやめたい。」
「なぜ、どうしたのか。」
「発表会が嫌。怖いから。」
「怖い?」
「もう嫌。叩かれるのはやだ。手。」
父親は一瞬困った顔をしながら、おまえは楽しそうにひとりきりの時は弾いているようだが。何が嫌なのか理由をきちんと話してみなさいと少女に言いました。
今までのことや周りと比べられたりするつらさや。
「叩かれた?手か?」
「うん、左手。両手で練習していても怖くて左手がだせない、また叩かれたら怖い。」
「そうか、叩かれたか。莫迦。なぜもっと早くに話さなかった。なら声楽も辞め、だぞ、いいか?」
少女はこくんとうなずきました。
少女の父親はとある旋律を彼女の顔を眺めながらハミングしました。いつもこっそり弾いていたソナチネのメロディでした。
「パパ…」
「聴こえていたぞ。これを楽しそうに弾いていたから安心していたんだが。辞めるのだな。嫌なことはきちんと話すようにしないと。バカたれが。」
「…。」
「泣かんでいい。代わりに他に楽しんで本でも読め。」
「はい…。」
少女の父親は知らん顔してまたお猪口でくい、とすっかり冷めた燗酒を飲み干してから
「もう心配しなくていい。ママや教室には話しておくから。せっかく楽しんで弾いてるのはこれからも弾け。趣味だ、趣味で弾いたらいい。」
「はい…。」
「泣かんでいい。」
楽しんでいなかったから躓いたんだ、と付け足し、今夜はもう寝なさい。また気が向いたら習えばいいことだ、パパはもうお風呂だ。おまえは早く寝なさい。
振り返ると少女の父親は
ふん、バカ、と言いながらニヤ、と笑いながら音楽は聴けよ、楽しくな、楽しくな、だぞ、とダイニングから応接間の中にいってしまいました。
ばさりと音がしたので少女は不安になり応接間を覗きました。
ピアノの上に置いてあった楽譜たちの横の音楽家の伝記をソファーに投げた音でした。
楽しくなかったからか。ソナチネの真似は楽しかったから、だから弾けるようになれたのか。
少女は安心しておやすみなさい、とドア越しに声をかけてからくたびれたクマのぬいぐるみを抱えてゆっくり自分のベッドに横たわりながら泣きながら笑いながら眠りにつきました。
ゆー。
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