旧朝香宮邸
今月の平日休みで、庭園美術館へ行った。今の展覧会は、旧朝香宮邸の建築そのものを楽しむ会期。
良く晴れた暖かかった日。その日、たくさん光合成して幸せだった話は、別なnoteに書いた。
その後の冬眠中の話は、次のnoteにする。ここには書かない。
一昨日辺りからか、日差しや少しの暖かさで、ようやく冬眠から覚めてきたような、変わらないような…
とりあえず頭の中で、次のnoteのアウトラインはもうできている。気になっていた調べものも終えた。使う画像の準備も、庭園美術館のと一緒に終えた。
なので。このnoteでは、150枚も撮ったらしい中から、シンプルに写真を並べていく。いつもなら会期中の写真は出さないが、建築ツアー的な会期はそこそこあるようで、似た写真はWEB上で見つけられることに気づいた。
あちらこちらに、そっと展示された感じのアート作品も楽しんだ。幸せな気分で日向ぼっこしながら、館内や庭園などで、いつの間にかたくさん撮っていたらしい。写真はたくさん載せておくことにした。
日差しとともに、とても幸せに眺めたラジエーターカバーだったが、中身のラジエーターが入っていた時代には、見られなかった光景だろう。
ラジエーターは暖房器具。2階の第一浴室そばに、小さめのがあったと思う。タオルの乾燥用だったのだろうか。
カバーの中に入っていただろうと思うサイズのラジエーターは、港区立郷土歴史館でいくつも見た。そのせいか珍しい感じがなく、館内にあったのかもしれないが、見た記憶があるような、ないような…
写真をたくさん撮ったとはいえ…
note用に並べてみると、部屋の様子全体がわかる写真が全くないと気づいた。
というよりも…
ひたすら窓と照明、日差しの入った床。
そんな写真しか撮っていなかったのか?
うーん…
どんだけ光に飢えていたんだ?
このnoteを読んでいる人は、見ているうちにきっと飽きるだろう。(サラサラとスクロールしていただけましたら幸いです)
私には弾痕に見えてヒヤリとした。今は美術館だが、そんなことがあっても、おかしくなかった場所かもしれない、と思ったりもした。
円い物が当たると、ガラスにそんな傷が入るらしいことは、後から少し調べるとわかった。が、弾痕かどうか、事実は知らない。凹みのような傷だけではなく、穴も開いていた。
今の自分の平和な気分が、平和ボケからきているのだと困る。が、平和な気分でいられている現状をありがたく思った。平和は誰にとっても大切だが、平和は自動的に勝手に設定される訳ではない。
順路は設定されていたのだが、全く気にせず行ったり来たり。しかも全体写真がないので、どこの窓だかあまりわからない。
順路の大枠、1階→2階→3階→1階→新館という流れには乗っていた。マップの端に書かれていたため見落としていた3階を、うっかりスルーしかけていたので、スタッフさんに流れに乗せてもらえたと書くべきだろう。
私は全く写さなかったらしいのだが、あちらこちらに解説のテーブルがあった。
見るだけにしてしまったが、ハガキサイズくらいの解説のカードも置かれている。
カードをコレクションしながら回ると、最後の新館の展示室で表紙を付けて、綴じて持ち帰れるようになっていた。マイ図録になる。ミュージアムショップでも似たものが売られていた。
心地良い日差しが入っていそうで、いちばん楽しみにしていた部屋だった。が、マップの3階を見落としたことで、ベランダがそうなのかと勘違いしてスルーしかけた。
3階は、こんな会期中でないと入れない。スタッフさんの常駐が必要な場所。
カラフルな照明がある、3階への階段のそばには何度も行っていたが、3階への階段を上り下りしている人を見かけなかったと思う。が、スタッフさんが階段上にいた。上に何か?という視線を向けてしまったところ、上もあると呼んでくださった。
窓辺に茶色いタオルがたくさん。結露で何かが起きたのだろうか。
このウィンターガーデンでも見かけたが、小さな「調査中」というような内容のパネルがあった。修繕に向けて、何かの途中の様子を感じた。
たくさん手間をかけた感じのデザインを見たことで、自分がのっぺりとした世界で生きているような気がしてきた。なぜ、こんなに薄くて凹凸がない場所で生活してるのだろうと。
ただ、私としては、シンプルだったりカクカクしていたりするデザインは好きなので、それをダメだと思う訳ではない。飾るという感覚も、そもそも薄い人。
そんな私でも、身の回りのいろいろなものに、奥行きや曲線がなさ過ぎるような気がした展覧会だった。
ロッカーに入れた春コートなどを出し、旧朝香宮邸を出た。暖かかったので庭園へ。
写真はピンボケなど、いろいろ失敗な感じだったので出さないが、他にもたくさんの花を見かけた。沈丁花がいちばん多かったと思うが、馬酔木もたくさん見た。木瓜・柊南天も咲いていた。
立礼席だけに入れる日だった。とても美しく紅葉を眺められた窓には、障子が閉てられていた。障子や雨戸は、「閉める」ではなく「閉てる」を何となく使ったりする、と書くと、年がばれるという話だろうか。
手前の棚は、飾り棚として使われていた。窓から侵入者という話ではないのだが、窓の外から来る誰かへの呈茶のように見えた。
西日の時間になり、色が上手く写らなかったが、ソメイヨシノに見えた。時期的には早過ぎるのだが、日当たりが良いとか、何かの都合で早く咲くこともあるのかと思っていた。付近の人たちからも、「これはフツーの桜よね?」というような言葉が聞こえた。
が、帰宅し夫に話すと、違う種類の植物だから早く咲く、と言われた。いろいろ調べてみた結果、寒桜だったのだろうと思っている。
これは緋寒桜ではないだろう、と飛ばし飛ばしに写真を確認したときに気づいた。その場では、緋寒桜と同じに見えていたのだが。後で調べた結果、花桃ではないかと思っている。緋寒桜より大きな木で圧巻だった。
冬眠前のとても暖かく幸せだった日の大量の写真。
光を写すことは、何となく私の方向性というのか気分というのか傾向というのか、以前から自覚している。
ファインダーを覗いていた時代なら、太陽などの眩しい光源は写せなかった。が、そういう縛りも今はない。(私のカメラの取説には、強い光源に向けると故障の原因になる、と書かれているので、安易に真似されませんように)
傾向や好みというのはあるにしても…
明らかに光に飢えていたとしか思えない視点だらけで、自分でも驚いた。
ウィンターブルーに効く日光浴というのは、目から日差しを取り入れるものらしい。私は昔から眩しい場所は好きだが、眩しい思いをしてまで日に当たらなくても、目を閉じていても効く、と聞いたことがある。
この日は、光に向かって移動、光に視線、の繰り返しだったらしい。
…私は蛾の仲間だったのか?とも思ったりした。
私としては幸せだった日の記録だが、病的なほどに何だか偏った写真だらけだったらしい。
そんなことなので、こんなところまで眺めてくださった人に心から感謝します。