ミソジニー/ミサンドリー(女性嫌悪/男性嫌悪)について考えたこと。《小学生の男の子が女の子から「キモい」といわれている場面を目にして》
1日に1回はベランダに出てスマホも見ず読書もせず、ぼうっとするのが最近の大切な習慣の1つだ。
都営住宅に住んでいるので、せっかくベランダに出ても大きく見えるのは真向かいの3号棟と団地の駐車場、右手に線路と住宅街、遠くのほうに富士山だけである。
今日もぼうっとしていると、3号棟の階段下に黒いランドセルを背負った3〜4年生くらいの男の子がいた。
彼は小学校のほうに歩き出したが、歩道に出た瞬間に何を見つけたのか隠れるように階段の裏に身をひそめ、その陰から向こうのほうを見ていた。
すると間もなく女の子2人組が現れた。おそらく男の子と同学年くらいだろう。
彼女らは隠れていた男の子に気づいていたのか、そちらに向かって「キモいんだけどー!」と叫び、ケラケラと笑いながら通り過ぎていった。
男の子は無言で階段を駆け上がっていく。
小学生から高校生くらい(もしかしたら大人になっても)の女子が使用する「キモい」にはさまざまな意味が含まれている。
代表的な2つの意味を挙げるとすれば、①クラスで人気者のおちゃらけ男子に対してほぼ褒め言葉として使う「キモい」②不快な相手に対して傷つける意図で使う「キモい」である。
今日の男の子に対する「キモい」は、明らかに後者の使われ方をしていた。
想像するに日々の学校生活でも彼はこのような扱いを受けているのだろう。
彼がもしハイパー楽観的男子で、「べつにおいらは女子にも学校にも何も求めてないぞよ!自分の好きなことをひたすらやるでござる!」みたいな捉え方をできる人間であれば、この少年時代の経験が尾を引くことはないかもしれない。
しかし大体の人間は、人間から直接ガチの罵り言葉を投げられれば、傷つくのである。
この小学校での経験が彼の原体験となり、さらに今後の人生の中でも女性からひどい扱いを受け(たと彼が感じる出来事が繰り返され)れば、彼は立派なミソジニーくんに育ち、そしていつか女性への復讐を実行するために、早稲田大学のスーパーフリーや小田急線のフェミサイドの犯人のようになるのかもしれない。
私は、女性を侮辱する団体や思想、発言を許せないと思ってきたが、これは個人の資質の問題ではなく社会の問題なのだ。と、今日の男の子と女の子たちを見ていて思った。
女性を嫌悪・憎悪している彼ら個人が悪いのではなく、そもそもは何らかの原体験がきっかけとなり、そしてそれを強化する体験をもとに女性嫌悪へと繋がっていく(これは男性嫌悪の場合も同じである)。
そしてその原体験は加害者側からすればすぐに記憶から薄れていくような瑣末なものなのだ。
加害者に自分の苦しみを理解されない苦しみ、その苦しみが忘れ去られていくことへの憎悪が、いつか暴力によって関係のない別の人間へと向かっていく。
この問題を解決するためには、社会のなかで男性/女性にこだわらず、人間としての人との接し方を学ぶ必要があるだろう。
人にはどのように接するべきで、どんなことはしてはいけないのか、どんなことを言ってはいけないのか、そういう基本的なコミュニケーションの方法を子どものうちに学ぶ機会が今の日本には少なすぎると思う。
人と人がお互いに慈しみの精神を持ち分かち合えば、この世界の争いは減るだろう。
でも、本来それを教えてあげられるはずの大人たちが子ども時代の純粋な感覚を忘れ、世の中に流されてしまうから争いは絶えない。
争っている大人を見て育つ子どもが幸せになるのは、争いのない大人に育てられた子どもに比べて何倍も難しいだろう。
私たちはいろんなことを忘れて生きている。いろんなことを忘れながら生きていることを、忘れてはいけない。
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