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「認知症カフェ(仮)」開設までVo.2
Vo.2にした意味はほぼ、ない。相変わらずだが今回はちょっとした気持ちの問題だ。それは先日初めて足を踏み入れた!地元にある「情報資料室(県内唯一の福祉保健専門図書館)」で発見した書籍を読んで感じ、気づいたことによる。
その本は、2015年に発行された認知症カフェを設立・運営するためのガイドブックのようなものだった。ちなみにこの著者の本を別のネーミングだがもう一冊持っていた。2017年発行のもの。
そこには認知症カフェの形が細かく書かれていて、開設に向けた準備も色々記載されていた。介護保険との関係性や内容やスケジュールや来る方々への配慮やスタッフの配置やら研修やら……
私はもう一冊の方を5年以上前に読んだことで、私自身の経験や知識のなさを実感し、本格的に勉強を始めたらしい、だいぶ昔のことで既にあまり明確ではないが。
だからこそかもしれない、幾つかの経験や体験、認知症カフェを訪問した時に感じたこと、月イチで開催しているカフェでの経験、この間無駄なことも多かったと思うのだが、自分の中で蓄えられてきた様々なことから、今私の考えている認知症カフェという形が出来上がってきている。
そして、その私の考えている形と先日借りて斜め読みした本や今も手元にある本との間に大きな解離があることに気づいた。
それは、認知症当事者を介護すべき人、ケアしなければいけない人、と考えているということだ。もちろん、介護が必要になるフェーズは多分ある、ケアは大切、そのためにも専門職の配置は必要、かもしれない。
話を聴くにしても聴く側の気配りというか配慮は、どんな場面でも必要だ。
だがそれは認知症と診断された人に対してのみではないし、認知症と診断されたすべての人が即介護が必要となわけではないし、それらを前提に認知症カフェを運営するという形が、今の私には違和感!だったのだ。
近い将来私自身が診断をくだされ、そのような認知症カフェに足を踏み入れた時、皆が私をある意味そういう人として見て接すること、話をすること、それを感じた瞬間に、私は辛くなってしまうだろうな。
話は変わるが、昨年フランスのドキュメンタリー「アダマン号に乗って」を観た。精神疾患を抱え生きづらさを感じている人たちが集まる場所が川べりに置かれた船、多分日本的に言えば生活支援センター的な場所。
そこには医者も看護師もいるらしい、が運営には当事者も参加し、お金も扱い、コーヒーも出し、運営会議もする。誰が誰かは観ている側には判然としない。そしてそこに来る人たちは、ここだから自然でいられる、ということを話したりする。
私が考えている認知症カフェ、それはやっぱりそういう場所で、気軽におしゃべりができて、ちょっとした困りごとの共有だったり、不安を吐露したり、失敗したことを話して笑いあえたり、そういう場でありたいと思うのだ。もちろん、時には医療的ケアや介護が必要になりそうな場面があるかもしれない、だけどそれって誰にでも、どこででもおこり得ることで、認知症の人だから特別に配慮して準備して意識して気を使って、しなきゃいけないことなのだろうかって、、、
まだ自信があるわけじゃない、ただ違和感を感じている、この十年ほどで多分日本も変化してきているはずだ、と思いたいのだ、認知症カフェというものについても。最先端?の認知症カフェに出かけていくことも必要だと実感中。
最後に現在の進行状況はといえば、私のというより私たちが開設しようとしているカフェは、自分たちのスペースを見つけもしくは作りそこで始める!のではなく、「やどかり」という言葉を先日聞いてふむふむと思ったのだが、カフェの場をその時貸してもらう、もしくはテーブルをひとつふたつ確保する、そしてそこに来た人とお話をしたり相談にのったり、情報共有したり、そういう時間を過ごす、そういう形だ。
前にちょっと書いたスタバのDカフェに近いかもしれないが、もう少し静かでもう少し落ち着いた場所を想定している。これは単純に私の好みの問題かもしれない。
その条件を頭に入れつつ地元カフェの幾つかに入り、なにがしかを注文し、味わい、おしゃべりをし、時にはオーナーさんにちょっと目論見を話したりしている。それが今だ。
この先は、もうひとつ具体的な概要を提示していくこと、ネーミングをキャッチ的な言葉、それでその場のイメージが湧く言葉、を決めること、そしてお店に提案をする。そこまで年内でできたら嬉しいと考えている。