【意訳】インターナショナル・アート・イングリッシュ:アート系文章における理解困難な英語の研究
※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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Source: https://www.canopycanopycanopy.com/contents/international_art_english
International Art English
アートワールドでのプレスリリースの登場と、その立ち位置について:
国際化されたアートワールドは独特な言語に依存している。その最も純粋な表現はデジタルのプレスリリース上で見られる。この言語は全て英語で表現されるが、断じて英語ではない。これは現在の英語の国際的支配性が可能とした、英語圏からの大規模輸出品である。
だが、この言語において本当に重要な点──それを言語たらしめている要因は、常に英語との明確な違いを生み出し続けていることだ。
以降では、我々がインターナショナル・アート・イングリッシュ(IAE)と呼ぶ言語の興味深い語彙、文法、文体的機能について調査する。
我々はIAEの起源について考え、またコンテンポラリー・アートの制作・宣伝・販売・解釈を通してこの言語の未来を予測する。
この我々の議論を、無駄に手の込んだジョークとして受け取る者もいるだろう。だが、この言語の利用者にとって愉快な要素は皆無であり、彼らの利害関係を明らかにしていくものである。我々は極めて真剣だ。
仮説:
他の全ての言語と同様に、IAEにもその言語によって分類・統合可能な話者のコミュニティが存在する。そのコミュニティとは、アートワールドだ。
我々はアート・ワールドという言葉の意味を、コンテンポラリー・アートとして公開される物体・非物体を制作するために協働する人々のネットワークと解釈する。そこには単にアーティストとキュレーターだけでなく、ギャラリーのオーナーとディレクター、ブロガーやライター、広報、コレクター、アドバイザー、インターン、美術史教授なども含まれる。
当然、アートワールドという専門用語も論争の的になっている。だが、その一般的な代替語:アートインダストリー(美術産業)にはIAEの本質が反映されていない。
もしIAEが単に専門的な事について話すための表現なのだとしたら、IAEを言語と呼ぶことは難しい。もしそうならば、技術的な語彙が多いIAEの専門的な英語は、車両整備士がハーモニックバランサーやポッパーバルブについて議論するときに使っている言葉と何も変わらないからだ。
だが、整備士はよくわからない車のパーツの名前によって、あなたが同じ社会の一員である市民か、それとも旅行者なのかを問い、判断しようとはしないだろう。
ここ数十年の変化について話すとき、アートワールドはビエンナーレの拡大について語りたがる。コンテンポラリー・アート特有の、土地に依存しないこの言語の価値を評価しようと試みる者は、IAEはこの素晴らしく流動的で魅惑的な業界で使われる人工言語であり、より良い共同作業のために合理化された結果生まれたのだ、と考える傾向がある。
だが、それは正確には違う。もし展示をキュレーションしていて、ダカールやシャールジャに20カ国から作品を持ってくることになれば、アーティスト、インターン、ギャラリスト、広報たちは共通言語でコミュニケーションできた方が助かる。
しかしIAEにそういった利便性はない。我々の理解では、世界中の人々がこの言語を受け入れているのは、インターネットの分配能力によって自分の文章が世界中の鑑賞者に届くと思っている、あるいはそう期待できるようになったからである。
アートに関するコミュニケーションのほとんどは、今でも第一言語を共有している人々の間で行われている、と考えるべきだ。:アーティストと製造業者、地元ジャーナリストと読者などはそうである。だがスコピエの美大生が自分の卒展をアナウンスするときは、IAEを使って書いた招待メールを送信するかも知れない。なぜなら、その土地の言語が知られていないからだ。
これらの要因を評価してその影響を理解するには、ただe-flux について考えれば良い。e-flux はアートワールドにおけるデジタル上の最重要組織である。e-flux はコンテンポラリーアートに関する交流において最も強力な道具であると同時に、その縮図でもある。アントン・ヴィドクルはe-flux の創始者の一人で、このプロジェクトをアート作品とみなしている。注1
e-fluxは本質的にはlistserv(メーリングサービス)であり、世界中のコンテンポラリーアート関連イベント情報を毎日約3つ送信している。そのメール量によってヴィドクルは、e-fluxはコンテンポラリーアートに“積極的に関与している”ごく一部の人のためのものだ、と示唆している。
このような情報をオンライン上で交換する方法は他にも存在する。クレイグリストのようなサービスはイベントを地方と言語別に整理できるし、コンテンポラリーアート・ダイアリーは世界中の展示写真を添付したメールを送信している。
だがe-flux はかなり完璧にアートワールドの願望に適っているのだ。告知を送信するには料金を支払う必要があるが、その全ての申請が許可される訳ではない。アートワールドが価値を感じるものが全てキュレーションされたものであるように、e-flux もまたキュレーションしているのだ。商業ギャラリーはe-flux の主要な告知サービスを利用できないので、非商業的にも感じられる。
そして、アートワールドのみんながこれを読むだろうと期待(少なくとも想像)することができる。(余談だが、このメーリングサービスは最も流通しているコンテンポラリーアート誌、アートフォーラムの2倍の購読者がいる)
オンライン上に出回っているコンテンポラリーアートに関する文章のほとんどがそうである様に、e-fluxのプレスリリースは暗黙のうちにアートワールドの最重要人物たちへ向けられている──それがIAEだけで書かれているからだ。
我々はe-fluxの13年間全ての告知を集めたが、それは言語学的慣習の法則性を再現するのに充分な文章量だった。このエッセイ内の見解の多くは、この集積の分析に基づいている。注2
語彙:
我々がアート関連の執筆に使う言語は妙に官能小説的だ:見れば分かる、誰もその分かりやすさを否定しないものでも、明確に説明しようとすれば必ず不快感が生じる。オブジェクトをあまりに正確に描写すると、その人の特徴、おそらくは奇妙さが露わになってしまうのだろう。今はこの暗黙のルールを破って、IAEの言語学的な機能について詳細に描写しよう。
IAEには特有の語彙がある。
難題(aporia)、急進的(radically)、空間(space)、
提議(propsition)、生政治(biopolitical)、緊張(tension)、
横断的(transversal)、 自律性(autonomy)必然的(inevitably)、
審問(interrogates)、問いかけ(questions)、コード化(encodes)、
変容(transforms)、転倒(subverts)、折り重ね(imbricates)、
脱臼(displaces)、従事(serves )、機能(functions )、
想定(seems )、想定しうる(might seem to)。
IAEは英語の名詞の少なさにも不満があるようだ。
Visual(視覚的)はvisuality(視覚性)、
global(世界的)はglobality(世界性)、
potential(潜在的)はpotentiality(潜在性)、
experience(体験)は、、、experiencability(体験可能性)という言葉になる。
Spaceis (空間的)はIAEにおいて特に重要な言葉で、伝統的には空間だとみなされない多くのもの(人間性の余白など)を語る際に使用される。また同様に、どうみても完全に空間でしかないもの(ギャラリーの空間など)に対しても用いられる。
スペインのコンテンポラリーアート・プロジェクト・ムルシアで開催された2010年の展示、“Jimmie Durham and His Metonymic Banquet” の告知でアーティストはこう述べている:
その会場は以前、教会だった。
IAEにおいて、空間的と非空間的空間(nonspatial space)という言葉は入れ換えても問題ない。例えば批評家のジョン・ケルシーは、アーティストのレイチェル・ハリソンについてこう書いている。
空間という言葉における法則は、領域(field)という言葉にも適用できる:現実の領域(the field of the real)といったように。美術史家のキャリー・ランバート・ビーティーによれば、“準虚構的なものは片足立ち”(the parafictional has one foot)だそうだ。
パラ、プロト、ポスト、ハイパーといった接頭語は指数関数的に語彙を拡張できる。そしてこれらはドイツ語のように、新しい言葉を付け足さずに生み出される。(ドイツ語は単語を組み合わせて新たな単語を作る傾向がある)
IAEには spacey (空間的)だけでなく、以下の言葉も蔓延している:
intersection(横断)、parallel(並列)、parallelism(並列処理)、
void(虚空)、enfold(包み込む)、involution(錯綜)、platform(舞台)
IAEによる文筆的慣習は、実際に把握困難な空間的メタファーを好んでいる:practice(実践)という言葉が指す範囲は、ドローイングからアーティストブックまで全ての技法に渡っている。
アートフォーラム上の文章によれば、マシュー・リッチーの作品は
サダーヌ・アフィフはこう語る。
そして、普通の言葉の多くが曖昧で特異な機能を持たされている。アーティストのタニア・ブルゲラは最近発行されたアートフォーラムで、現実性(reality)とは、 “私の行為の舞台としての機能” だと書いている。
実際に現実性という言葉はe-fluxにおいて、イギリス英語コーパス(BNC)の4倍の頻度で登場する。(BNCは20世紀下半期のイギリス英語の用例集だ。注3)
現実(real)はe-fluxで100万ユニット毎に2,148回登場するのに対して、BNCでは100万毎に12回しか登場しない。約179倍以上の頻度だ。ある展示の招待文ではこう書かれている:
他ではこのように宣言されている。
ある展示では、彼らが “現実的生存戦略”(Reality Survival Strategies)と呼ぶものが、下位現実は現実の残骸でできている(sub real is … formed of the leftovers of reality.)と我々に教えてくれるそうだ。
構文:
キム・べオムが昨年春にREDCAT で開催した展示、 “Animalia”のプレスリリースに話題を変えよう。
この中にIAE文体の本質的特徴がいくつか見て取れる:
根本的に問(radically questioned)といった副詞や、遊戯的、反体制的にひっくり返す(playfully and subversively invert)などの二重副詞だ。
このような用語の組み合わせもまたIAEの本質であり、スピーチの一部にも、フレーズ全体にも登場する。(例えば、“内的心理と外部的現実性”など)
また、指摘しておきたいのが従属節への依存だ。これはアート関連の文章において最も特徴的な要素のひとつである。IAEは従属節で始まるだけでなく、その後も出来るだけ多くの従属節を使い、話の筋を文章の奥深くに埋め込んで奇妙な静寂さを生み出す。もっと言えば、奇妙な静寂と防音効果、両方のバランスが取れている。
IAE文章の典型的構造
IAEは常に、僅かな語句で語るよりも、多くの言葉で語ることを推奨する。
そのため、“Investigations” という展示のプレスリリースでアーティストはこのように指摘している。
また、オラファー・エリアソンの作品:Yellow Fog はこう解説される:
このIAEのルールが冗長性を生み出しているのなら、無関係な項目のグループ化も同様に冗長だ。
Catriona Jeffries Gallery はジン・ミ・ユンについてこう書いている:
アンチ商業主義の原則もまた、IAEが依存しているものリストに数えられる。
2010年にプレスリリースが告知されたカンファレンス: Cultures of the Curatorial では、無駄に長い説明がされている。そこではキュレーション性(the curatorial)について、以下の様に説明している:注4
"Animalia"のリリースを読むと、形而上学的な船酔いを起こすかもしれない。キムが “奇妙な緊張を注視して暴く” というその空間は、足場が定まらない。そして結局は何もしていないように感じられる。
それでも、我々がアートについて執筆する際にはこういったこじつけが不可避、、というよりも、自然なことだとすら思える。
我々は何か真剣なアートに関連したものに近付いたと感じると、反射的に従属節に手を出してしまう。これが、なぜ我々はフランス語を下手に翻訳したみたいな文章を書いてしまうのか、という疑問に対する答えである。
系譜:
e-fluxが現代におけるIAEの蠱毒なのだとしたら、オクトーバー誌はこの言語の生みの親だと言える。1976年に創刊されたオクトーバーの誌面では、クレメント・グリーンバーグに関連するアメリカの形式主義的美術批評の伝統と、ヨーロッパ大陸の哲学が衝突している。
オクトーバーの編集者の中には美術史家のロザリンド・クラウスやアネット・マイケルソンがおり、彼らは現代批評が本質的に杜撰で耳障りの良いレトリックだとみなしていた。
彼らはより厳密な解釈上の規範を求め、それが英語話者の読者へフランスのポスト構造主義者のテキストを大量に翻訳・紹介することへと繋がった。注5
オクトーバー誌に代表されるこの批評の転換がアートの解釈と評価に重大な影響を与え、またアート関連文章の執筆方法も変えたのだ。
1979年に発表されたクラウスの “展開された場における彫刻” について考察しよう。
クラウスはオクトーバー誌のためにロラン・バルト、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズらのテキストを翻訳し、自身もその翻訳によって鍛えられたスタイルで執筆した。彼女の同僚の多くも同様である。その中にはフランス人やドイツ人がおり、自分自身の文章も同時翻訳して執筆していたと思われる。
IAEの特徴的な語彙の多くはフランス語に由来しており、特にわかりやすいのが~ション、~ニティ、~リティ、~ゼーションといった接尾辞だ。~ネスなどの気楽な表現に比べると、かなりの頻度で用いられている。
定冠詞(the)と不定冠詞(a, an)の不可思議な増殖:
The Political 、The space of absence、the recognizable and the repulsive
などもフランス語から輸入されたものだ。例えば Le vide は一般的に空っぽのもの(empty things) を意味するが、ポスト構造主義の翻訳家たちは明らかに、“The Void:虚空” の象徴的な語感を好んでいた。
“Le vide”はフランス語のウェブコーパスにおいて、100万毎に20.9回の頻度で使われる。BNCでは100万毎に1.3回だけだが、e-fluxでは100万毎に9.8回である。(スケッチエンジンの検索は大文字・小文字を判別しない。)
“multitude” という言葉は英語・フランス語に共通する言葉だが、e-fluxのプレスリリースでは141回登場し、その頻度は102倍である。
IAEにおいて非常に一般的な前置詞と副詞もおそらくフランス語由来である。同時に(simultaneously)、それでもまた(while also)、そして、もちろん、常に、すでに。
IAEの傾向の多くは、単なるフランス語というよりも上流階級が書いたフランス語の文章から引き継いだもので、それはポスト構造主義者を模倣、あるいはパロディ化した文章である。
その手のフランス語は、形容動詞と過去分詞、現在分詞を多用した文を重ねに重ねる。これがアート系文章の様式的特徴となっていった。注6
IAEにおける英語以外の出典元はフランス語だけではない。ドイツのフランクルト学派もまた、オクトーバー世代に多大なる影響を与えている。その遺産は、制作(production)、 否認(negation)、全体性( totality) といった言葉に宿り、多くの弁証法( Dialectics)を生んでいる。
(production はe-flux においてBNCの4倍の頻度で使用され、negation は3倍、Totality は2倍だった。e-flux における Dialectics は100毎に9.9回登場し、BNCの6倍である。IAEにおける弁証法(dialectics)は、BNCにおける sunlight (日光)と同じくらい一般的だ。)
あるプレスリリースでは、こんなことが言及されている。
そう、ここで断言されているのは、立ち上がることは弁証法の実践だ、ということだ。
競合たちは、オクトーバー誌の文章が持つ特徴を、意図的なものかどうか識別しないままに模倣した。クラウスと彼女の同僚は自分たちの言葉選びに一種の分析的な正確性を求めていたが、ある程度日用語のように使われる言葉は削除していた──無秩序かつ表現的に。
弁証法的(dialectic)という言葉には科学的と言えるほどの正確な意味があるが、IAEでは通常、これは良いものだ、と情緒的に暗示するために使われている。
また同時に、オクトーバー誌の子孫たちは翻訳ミスを言語学的な規範のレベルにまで高めていった。
IAEには理論的、美的な影響を収集し、その蓄積の活用形と公式を自由に組み合わせ、新しいものへと合体させていった。(後にアート関連文章は、例えばクィアなどにおいて問題を起こす。)注7
現在最も権威のある文筆家は、批評はそれがなにか・なにをしているのか理解する力を欠いている、と強く主張している。
残念ながら、オクトーバー誌が発行された後の数年間とは異なり、アートの解釈において明確に支配的な方法論は存在しないのだ。過去の理論は未だに我々と共にある──それは実際の作品解釈においてではなく、我々の精神とアートワールドの共通語の中に。注8
権威:
我々には、アングロ系の美術批評が開拓してきた文章の排他的な点を指摘する重要な義務がある。この言語は理解されることよりも認知されることを要求しているのだ。
オクトーバー誌の時代に美術系の記事が開拓した、非常に多くの風変わりな翻訳を基本とするこの言語は、大多数の人々を遠ざけた。なぜなら本当に異質だったからだ。
この言語は英語話者すら遠ざけたが、その言い回しに聞き覚えがある者にはまだ身近に感じられた。
そのフェイントを理解できたのは教養のある者だった。この難解な言葉の捻じれに馴染みがあるのは、フランス語の翻訳、少なくとも翻訳されたであろう理論に長年触れてきた者だ。
つまり、美術系の記事は読者をはっきりと区別した。またそのおかげで、特定の執筆者の発言は他よりも権威があると感じられるようになった。
ここに権威が関連するのは、アートワールドが製品を扱う訳ではないからだ。そこでの価値付けは象徴性と解釈可能性が基礎になっている。そのため、価値付けの能力:特定のものや概念を意義深く、かつ批評的に考察できる力が重要となる。
1960年代から、大学は急速に成長するアメリカのアートワールドへ参入するための特権的ルートになり始めた。そしてオクトーバー誌をきっかけに、業界はこの類いの言語学的な奇妙さを構造的に称賛したのだ。
この特殊な言語は、大学で訓練されたであろう、厳密で政治意識の高い、優れた批評的感受性を持っている、という信号を送るために使われる。
拡大したアートワールドにおけるこの言語の役割とは、“特定の作品を神聖化すること” だ。素晴らしく、批評的で、間違いなく現代的である、と。
IAEが開拓したのは、以前は作品解釈に使われていた構文や専門用語を、作品説明に使うことだった。
高尚な批評的議論に使われていた様式が、あらゆる種類のアート関連の文章へ浸透していくのに時間は掛からなかった。オクトーバー誌はその創刊時から真面目な翻訳文という印象だったが、その10年後、中堅寄りのアートフォーラムもそっくりな文体になっていた。そのすぐ後に、アーティストのステイトメント、展示案内、助成金申請、展示壁面のテキストもそうなっていく。
IAEが急速に受け入れられた理由は、後に世界中の人々がIAEを国際言語に選んだ理由とあまり変わらない。内容が何であろうと、このエリート言語を真似することで、話を聞いてもらう価値のある業界人の耳に届けたいのだ。
だが、全員が同様の把握力を持っている訳ではなく、アート関連文章の内容に対する誤読は頻繁に起きる。しかしIAEなら誤読せずに美しい交流ができる。良い読者は、この言語のバリエーションの乏しさに極めて敏感だから。
最近のNYにおけるMFA(美術学修士)の展示案内は、その学校の美術史博士過程の学生が書いていた。
複雑さが足りないIAEは、良くも悪くも聞こえうる。より明快な表現には、その主張の滑稽さをはっきりと感じさせてしまうリスクがあるのだ。
言い換えるなら、我々は巧みな語法に威圧されがちである──その文章が何を意味しているのかに関係なく。
e-flux がリリースしたドイツの代表的アート雑誌の文章を参照しよう:
この雑誌は、IAEでは通常肯定的に捉えられている弁証法を反転させることで自分たちを区別している。弁証法は退屈だと訴えているのだ。
そしてこの雑誌は、自分たちは一般読者よりも弁証法について深く理解している、と暗に主張している。また、特定の弁証法は退屈過ぎて、同じく退屈な統合と交換しても構わないほどだ、と示唆することで、その主張を強化している。
ここで弁証法が何を意味しているのかは無視してよい。重要なのは、この文章が醸し出す権威なのだ。
内部崩壊:
ビエンナーレについてどう語ろうが、インターネットによるパノラマ効果以上に過去10年のコンテンポラリーアートを変えたものは存在しない。e-flux 以前に、オクラホマ市美術館とピナコテーク・デア・モデルネに何か関係があっただろうか?しかし、彼らのアナウンスが同じ日に送信されると、彼らはお互いのテキストを読んで関係を持つようになる。また、彼らが取り上げているアーティストとその作品にも同じことが起きる。
アートワールドにおいて、言葉は今まで以上に強力になった。アートワールドの関心はビエンナーレよりも、ほぼ常にオンラインに向けられている。e-flux の読者には、アート作品は常にIAEで包まれた状態で届けられる。
アートワールドのエリート達は、今やアートに対する解釈の独占権を持っておらず、彼らは主にフットワークの軽さによってお互いを識別している。それでも彼らが受け継いできたこの書き言葉は、より多くの、より多様な出自を持った使用者たちを惹き付け続けている。
新しいIAEユーザー達は英語圏の先輩たちと同じ目標を胸に、この言語を匿名的に大量生産する。そのプレスリリースは神のみぞ知る誰かの受信箱の中に届き、注目を集める。メール受信箱こそが、IAEが最も目覚ましい進歩を遂げている場所なのだ。
IAEという集合的プロジェクトは活発に国際化している。今やこの言語学的模倣とワンアップマンシップ(他者の一歩上を行く主義)的行為がネット上を飛び交っている。
2009年にはspeculative(投機的) の使用頻度が理解不能なほどに増えた。2011年には rupture(破断) を見かける機会が突然増加した。現在は transversal (横断的) が浮上中で、今年は今まで以上に使用されそうだ。注9
この言語の共犯者達が他者の意図を汲み取る方法は、今まで以上に少なくなってきている。 我々の仮説では、分析用語が意味深で宣伝的な記号へと変わる速度は加速している。
言語が拡散すると必然的に方言が生まれるが、フランスのプレスリリースにおけるIAEは完璧過ぎる。フランス人学者を模倣したアメリカ人学者を模倣したアメリカのインターンをフランスのインターンが模倣している、としか思えない。注10
一方でスカンジナビア人のIAEは下手である。(つまり、読み易い英語である。)注11
恐らく、ライター達は間違った自信に邪魔されている。非ネイティブでありながら英語が流暢なことに満足しており、IAEに耳を傾けていないのだ。
2006年に e-flux は“Beyond”というタイトルの広州トリエンナーレの告知をリリースしている。“珠江デルタを近代化するための特別な実験空間”──ここは4000万人の大都市計画地である:
事務的な表記とは正反対の文章だが、無意識にバタイユの翻訳を真似してしまう者が中国文化省のインターンにいるのかもしれない──多分いないだろうけれど。ここでの本質は、アートワールドの言語を使って上手な文章を書くには、もはや英語の勉強が前提条件とは言い難い、ということだ。
一見すると、これは英語に対するひとつの勝利に思える。我々が慣れ親しんできたアート系文章はますます恍惚的になり、意味のある文章を書くことから開放されていくだろう。だがIAEの急速な開拓の原動力となった状況がなければ、この言語は今にも存続の危機に陥るのかも知れない。IAEには正文法がないがその代わりに、継続的に新しい言葉を取り入れ、外国語っぽい響きにする戦略によって進化してきた。英語話者の立場から、理解できるかどうかの限界に挑んできたのだ。だが、この規範からの逸脱に対して、世界中の読者がまともに疎外感を感じるとも思えない。注12
こういった状況へと向かう重力を最初に知覚したのは我々ではない。この現在進行系の批評の危機は、21世紀の最初の10年が終わる頃に熱を帯びてきたようだ。
美術史家で批評家のスヴェン・ルティケンが嘆くところによれば、批評は “高尚なコピーライティング” 以上のものではなくなってきている。コンテンポラリーアートの商業的状況によって、本格的な批評がなにやら動作不良を起こしている、という考えはここ数年で頻繁に語られるようになったが、市場がどのようにして批評の権威を破壊したのか、説得力のある解説をする者は誰もいなかった。ルティケンの公式は明快だ。“その高尚な批評は、もはや模造品と違う響きを持っていないのではないか?”
批評家は伝統的にIAEのエリート開拓者であったが、もはやそれを制御できていないようだ。事実、彼らは自分たちのゲームにおいて、自分が何をプレイしているのか理解すらしていなさそうな匿名の対戦相手に叩きのめされたように見える。広州のテキストに戻ろう。
IAEに自信のある読者にとって、この文章は立派な作品として胸を打つのかもしれない:
我々は “確立された概念” の一般定義を超越する、という冗長かつ曖昧に定義された現象を起こせる。
我々には時間と空間がある。
我々は無駄に定冠詞を付けるが、冠詞は間違った場所にある。covers all issues and is free from the time and space limit. と書くべきではないか?
誰がこれを書いたのだろう?いや、待った。これはおそらく前衛的文章なのだ。
IAEがないアートワールドなんて想像できるだろうか?プレスリリースを通じて主題の重要さを伝えることができないのなら、彼らが何を簡潔に話すというのか?この特殊な言語抜きで、アートはより広い観衆と地方民を受け入れなくてはならないのか?それに耐えられるのだろうか?もし内部崩壊がおきても、国際的なアートワールドの言語が自然で包括的なものになるとは期待できないだろう。むしろ、この世界のエリートは従来の高尚な英語を使い、そこに信頼感の区別を生み出すはずだ。
きっと我々は、この退廃したIAEの時代を楽しむべきなのだろう。e-flux のプレスリリースを、その中身ではなく、IAEの熟練度でもなく、叙情性を感じるために読むのだ。多くの人は既にそう考え始めている。注13
その基準として、以下のプレスリリースを再定義して読んでみよう。
ペーター・ロジャーズがどんな人か、何をしていて、どこ出身なのかは知らないが、それでもこの人に会ってみたい、と思うことだろう。