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【意訳】インターナショナル・アート・イングリッシュ:アート系文章における理解困難な英語の研究

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
もし間違いを発見された場合は、お手数ですが 山田はじめ のTwitterアカウントへご指摘を頂けると助かります。

Source: https://www.canopycanopycanopy.com/contents/international_art_english

International Art English

by Alix Rule& David Levine

アートワールドでのプレスリリースの登場と、その立ち位置について:

上位中産階級が喋る英語に関して我々はこう指摘できる:
 a: いかなる場所にもローカライズされない
 b: それを使って喋る人々はみな知り合いという訳ではないが、彼らはそれだけを指標に相手の地位を即座に把握できる
 c: このエリート的話法はエリート以外も真似するため、その他の方言的な話法は徐々に排除されていく
 d:  真似に気付いたエリートは継続的に新しい言語的推敲をおこない、一般大衆から自分達を際立たせる

E.R.リーチ著、高地ビルマの政治システム:カチンの社会構造研究(1954)より

国際化されたアートワールドは独特な言語に依存している。その最も純粋な表現はデジタルのプレスリリース上で見られる。この言語は全て英語で表現されるが、断じて英語ではない。これは現在の英語の国際的支配性が可能とした、英語圏からの大規模輸出品である。
だが、この言語において本当に重要な点──それを言語たらしめている要因は、常に英語との明確な違いを生み出し続けていることだ。
以降では、我々がインターナショナル・アート・イングリッシュ(IAE)と呼ぶ言語の興味深い語彙、文法、文体的機能について調査する。
我々はIAEの起源について考え、またコンテンポラリー・アートの制作・宣伝・販売・解釈を通してこの言語の未来を予測する。
この我々の議論を、無駄に手の込んだジョークとして受け取る者もいるだろう。だが、この言語の利用者にとって愉快な要素は皆無であり、彼らの利害関係を明らかにしていくものである。我々は極めて真剣だ。

仮説:

他の全ての言語と同様に、IAEにもその言語によって分類・統合可能な話者のコミュニティが存在する。そのコミュニティとは、アートワールドだ。
我々はアート・ワールドという言葉の意味を、コンテンポラリー・アートとして公開される物体・非物体を制作するために協働する人々のネットワークと解釈する。そこには単にアーティストとキュレーターだけでなく、ギャラリーのオーナーとディレクター、ブロガーやライター、広報、コレクター、アドバイザー、インターン、美術史教授なども含まれる。

当然、アートワールドという専門用語も論争の的になっている。だが、その一般的な代替語:アートインダストリー(美術産業)にはIAEの本質が反映されていない。
もしIAEが単に専門的な事について話すための表現なのだとしたら、IAEを言語と呼ぶことは難しい。もしそうならば、技術的な語彙が多いIAEの専門的な英語は、車両整備士がハーモニックバランサーやポッパーバルブについて議論するときに使っている言葉と何も変わらないからだ。
だが、整備士はよくわからない車のパーツの名前によって、あなたが同じ社会の一員である市民か、それとも旅行者なのかを問い、判断しようとはしないだろう。

ここ数十年の変化について話すとき、アートワールドはビエンナーレの拡大について語りたがる。コンテンポラリー・アート特有の、土地に依存しないこの言語の価値を評価しようと試みる者は、IAEはこの素晴らしく流動的で魅惑的な業界で使われる人工言語であり、より良い共同作業のために合理化された結果生まれたのだ、と考える傾向がある。
だが、それは正確には違う。もし展示をキュレーションしていて、ダカールやシャールジャに20カ国から作品を持ってくることになれば、アーティスト、インターン、ギャラリスト、広報たちは共通言語でコミュニケーションできた方が助かる。
しかしIAEにそういった利便性はない。我々の理解では、世界中の人々がこの言語を受け入れているのは、インターネットの分配能力によって自分の文章が世界中の鑑賞者に届くと思っている、あるいはそう期待できるようになったからである。

アートに関するコミュニケーションのほとんどは、今でも第一言語を共有している人々の間で行われている、と考えるべきだ。:アーティストと製造業者、地元ジャーナリストと読者などはそうである。だがスコピエの美大生が自分の卒展をアナウンスするときは、IAEを使って書いた招待メールを送信するかも知れない。なぜなら、その土地の言語が知られていないからだ。

これらの要因を評価してその影響を理解するには、ただe-flux について考えれば良い。e-flux はアートワールドにおけるデジタル上の最重要組織である。e-flux はコンテンポラリーアートに関する交流において最も強力な道具であると同時に、その縮図でもある。アントン・ヴィドクルはe-flux の創始者の一人で、このプロジェクトをアート作品とみなしている。注1

e-fluxは本質的にはlistserv(メーリングサービス)であり、世界中のコンテンポラリーアート関連イベント情報を毎日約3つ送信している。そのメール量によってヴィドクルは、e-fluxはコンテンポラリーアートに“積極的に関与している”ごく一部の人のためのものだ、と示唆している。
このような情報をオンライン上で交換する方法は他にも存在する。クレイグリストのようなサービスはイベントを地方と言語別に整理できるし、コンテンポラリーアート・ダイアリーは世界中の展示写真を添付したメールを送信している。
だがe-flux はかなり完璧にアートワールドの願望に適っているのだ。告知を送信するには料金を支払う必要があるが、その全ての申請が許可される訳ではない。アートワールドが価値を感じるものが全てキュレーションされたものであるように、e-flux もまたキュレーションしているのだ。商業ギャラリーはe-flux の主要な告知サービスを利用できないので、非商業的にも感じられる。
そして、アートワールドのみんながこれを読むだろうと期待(少なくとも想像)することができる。(余談だが、このメーリングサービスは最も流通しているコンテンポラリーアート誌、アートフォーラムの2倍の購読者がいる)
オンライン上に出回っているコンテンポラリーアートに関する文章のほとんどがそうである様に、e-fluxのプレスリリースは暗黙のうちにアートワールドの最重要人物たちへ向けられている──それがIAEだけで書かれているからだ。
我々はe-fluxの13年間全ての告知を集めたが、それは言語学的慣習の法則性を再現するのに充分な文章量だった。このエッセイ内の見解の多くは、この集積の分析に基づいている。注2

語彙:

我々がアート関連の執筆に使う言語は妙に官能小説的だ:見れば分かる、誰もその分かりやすさを否定しないものでも、明確に説明しようとすれば必ず不快感が生じる。オブジェクトをあまりに正確に描写すると、その人の特徴、おそらくは奇妙さが露わになってしまうのだろう。今はこの暗黙のルールを破って、IAEの言語学的な機能について詳細に描写しよう。
IAEには特有の語彙がある。

難題(aporia)、急進的(radically)、空間(space)、
提議(propsition)、生政治(biopolitical)、緊張(tension)、 
横断的(transversal)、 自律性(autonomy)必然的(inevitably)、
審問(interrogates)、問いかけ(questions)、コード化(encodes)、
変容(transforms)、転倒(subverts)、折り重ね(imbricates)、
脱臼(displaces)、従事(serves )、機能(functions )、
想定(seems )、想定しうる(might seem to)。

IAEは英語の名詞の少なさにも不満があるようだ。

Visual(視覚的)はvisuality(視覚性)、
global(世界的)はglobality(世界性)、
potential(潜在的)はpotentiality(潜在性)、
experience(体験)は、、、experiencability(体験可能性)という言葉になる。

Spaceis (空間的)はIAEにおいて特に重要な言葉で、伝統的には空間だとみなされない多くのもの(人間性の余白など)を語る際に使用される。また同様に、どうみても完全に空間でしかないもの(ギャラリーの空間など)に対しても用いられる。

スペインのコンテンポラリーアート・プロジェクト・ムルシアで開催された2010年の展示、“Jimmie Durham and His Metonymic Banquet” の告知でアーティストはこう述べている:

神聖視された西洋的空間における内側・外側の境界線に問いを投げかける。 (questioning the division between inside and outside in the Western sacred space)

その会場は以前、教会だった。

除外されたものを強調するのは、この聖地をそれ自身の空間的純粋性によって包み込むためである。セメントの破片、ワイヤー、冷蔵庫、樽、小さなガラス、そして神聖さのなごり。展示会場であるこの空間が語り、、、一種の「混乱の神殿」へと変容する。
(to highlight what is excluded in order to invest the sanctum with its spatial purity. Pieces of cement, wire, refrigerators, barrels, bits of glass and residues of ‘the sacred,’ speak of the space of the exhibition hall … transforming it into a kind of ‘temple of confusion.’)

IAEにおいて、空間的と非空間的空間(nonspatial space)という言葉は入れ換えても問題ない。例えば批評家のジョン・ケルシーは、アーティストのレイチェル・ハリソンについてこう書いている。

商業空間と主観的構造の空間との間には、即座に混乱が生じるのだ。(causes an immediate confusion between the space of retail and the space of subjective construction.)

空間という言葉における法則は、領域(field)という言葉にも適用できる:現実の領域(the field of the real)といったように。美術史家のキャリー・ランバート・ビーティーによれば、“準虚構的なものは片足立ち”(the parafictional has one foot)だそうだ。

パラ、プロト、ポスト、ハイパーといった接頭語は指数関数的に語彙を拡張できる。そしてこれらはドイツ語のように、新しい言葉を付け足さずに生み出される。(ドイツ語は単語を組み合わせて新たな単語を作る傾向がある)

IAEには spacey (空間的)だけでなく、以下の言葉も蔓延している:

intersection(横断)、parallel(並列)、parallelism(並列処理)、
void(虚空)、enfold(包み込む)、involution(錯綜)、platform(舞台)

IAEによる文筆的慣習は、実際に把握困難な空間的メタファーを好んでいる:practice(実践)という言葉が指す範囲は、ドローイングからアーティストブックまで全ての技法に渡っている。

アートフォーラム上の文章によれば、マシュー・リッチーの作品は

アートとサイエンスの連続体における裂け目を優雅に橋渡しする。(elegantly bridge a rift in the art-science continuum)

サダーヌ・アフィフはこう語る。

自身のパリでの体験という私的かつ特定の領域を超えてアイデアを展開している。より一般的な視野、より広大で新しい意味の次元を内包するために。
(will unfold his ideas beyond the specific and anecdotal limits of his Paris experience to encompass a more general scope, a new and broader dimension of meaning.)

そして、普通の言葉の多くが曖昧で特異な機能を持たされている。アーティストのタニア・ブルゲラは最近発行されたアートフォーラムで、現実性(reality)とは、 “私の行為の舞台としての機能” だと書いている。
実際に現実性という言葉はe-fluxにおいて、イギリス英語コーパス(BNC)の4倍の頻度で登場する。(BNCは20世紀下半期のイギリス英語の用例集だ。注3

現実(real)はe-fluxで100万ユニット毎に2,148回登場するのに対して、BNCでは100万毎に12回しか登場しない。約179倍以上の頻度だ。ある展示の招待文ではこう書かれている:

色彩、空間的態度、その他の現実と関与する形式を体験するための公共
(the public to experience the perception of colour, spatial orientation and other forms of engagement with reality)

他ではこのように宣言されている。

同時代の現実性の原型と対立する場を収集する
(collects models of contemporary realities and sites of conflict)

ある展示では、彼らが “現実的生存戦略”(Reality Survival Strategies)と呼ぶものが、下位現実は現実の残骸でできている(sub real is … formed of the leftovers of reality.)と我々に教えてくれるそうだ。

構文:

キム・べオムが昨年春にREDCAT で開催した展示、 “Animalia”のプレスリリースに話題を変えよう。

ドローイング、彫刻、映像、アーティストブックの範囲にまで渡る拡張的な実践を通して、キムは知覚を根本的に問う世界に着目する。彼の視覚言語は、遊戯的、反体制的に期待をひっくり返す、真顔のユーモアと不条理な提案によって特徴付けられる。あなたが見ているものはあなたが見ているものと違うかも知れない、と示唆することで、キムは内面的な心理と外部的な現実性の間の緊張関係を暴く。それは心理状態を観察し、理解することにも関連している。
(Through an expansive practice that spans drawing, sculpture, video, and artist books, Kim contemplates a world in which perception is radically questioned. His visual language is characterized by deadpan humor and absurdist propositions that playfully and subversively invert expectations. By suggesting that what you see may not be what you see, Kim reveals the tension between internal psychology and external reality, and relates observation and knowledge as states of mind.)

この中にIAE文体の本質的特徴がいくつか見て取れる:
根本的に問(radically questioned)といった副詞や、遊戯的、反体制的にひっくり返す(playfully and subversively invert)などの二重副詞だ。
このような用語の組み合わせもまたIAEの本質であり、スピーチの一部にも、フレーズ全体にも登場する。(例えば、“内的心理と外部的現実性”など)

また、指摘しておきたいのが従属節への依存だ。これはアート関連の文章において最も特徴的な要素のひとつである。IAEは従属節で始まるだけでなく、その後も出来るだけ多くの従属節を使い、話の筋を文章の奥深くに埋め込んで奇妙な静寂さを生み出す。もっと言えば、奇妙な静寂と防音効果、両方のバランスが取れている。

IAE文章の典型的構造

IAEは常に、僅かな語句で語るよりも、多くの言葉で語ることを推奨する。

そのため、“Investigations” という展示のプレスリリースでアーティストはこのように指摘している。

事実に関する別のなにか、異なる情報を明らかにする。(reveals something else about the real, different information.)

また、オラファー・エリアソンの作品:Yellow Fog はこう解説される:

夕暮れ時──昼から夜に移り変わる時間帯に展示されたその作品は、一日のリズムの繊細な変化を表現し、また批評するのだ。(is shown at dusk—the transition period between day and night—it represents and on the subtle changes in the day’s rhythm.)

このIAEのルールが冗長性を生み出しているのなら、無関係な項目のグループ化も同様に冗長だ。
Catriona Jeffries Gallery はジン・ミ・ユンについてこう書いている:

昆虫のように、あるいは負傷者、もしくは亡命者のように、ユンはその特徴的な技術とぎこちなさのコンビネーションによって前進する。(Like an insect, or the wounded, or even a fugitive, Yoon moves forward with her signature combination of skill and awkwardness.)

アンチ商業主義の原則もまた、IAEが依存しているものリストに数えられる。
2010年にプレスリリースが告知されたカンファレンス: Cultures of the Curatorial では、無駄に長い説明がされている。そこではキュレーション性(the curatorial)について、以下の様に説明している:注4

実践、技術、様式、美学の一形態で、、、映像的、文学的コンセプトの働きと相違しないもの(forms of practice, techniques, formats and aesthetics … not dissimilar to the functions of the concepts of the filmic or the literary)
組織、編成、展示、説明、調停、公開、、、異なる多数の、重複し混成的に規範化された業務と役割を伴う活動(activities such as organization, compilation, display, presentation, mediation or publication … a multitude of different, overlapping and heterogeneously coded tasks and roles)

"Animalia"のリリースを読むと、形而上学的な船酔いを起こすかもしれない。キムが “奇妙な緊張を注視して暴く” というその空間は、足場が定まらない。そして結局は何もしていないように感じられる。

それでも、我々がアートについて執筆する際にはこういったこじつけが不可避、、というよりも、自然なことだとすら思える。
我々は何か真剣なアートに関連したものに近付いたと感じると、反射的に従属節に手を出してしまう。これが、なぜ我々はフランス語を下手に翻訳したみたいな文章を書いてしまうのか、という疑問に対する答えである。

系譜:

e-fluxが現代におけるIAEの蠱毒なのだとしたら、オクトーバー誌はこの言語の生みの親だと言える。1976年に創刊されたオクトーバーの誌面では、クレメント・グリーンバーグに関連するアメリカの形式主義的美術批評の伝統と、ヨーロッパ大陸の哲学が衝突している。
オクトーバーの編集者の中には美術史家のロザリンド・クラウスやアネット・マイケルソンがおり、彼らは現代批評が本質的に杜撰で耳障りの良いレトリックだとみなしていた。
彼らはより厳密な解釈上の規範を求め、それが英語話者の読者へフランスのポスト構造主義者のテキストを大量に翻訳・紹介することへと繋がった。注5

オクトーバー誌に代表されるこの批評の転換がアートの解釈と評価に重大な影響を与え、またアート関連文章の執筆方法も変えたのだ。
1979年に発表されたクラウスの “展開された場における彫刻” について考察しよう。

彼らの過ちは、それらの作品のごく表面上にも暗号化されている:扉はその外見に機能不可能性が宿るまで彫り抜かれ、反構造的に装飾されており、バルザックの主観的な仕上がりに関しては、(本人の手紙が証明するように)ロダンでさえこの作品が受け入れてもらえるとは思っていなかった。(Sculpture in the Expanded Field,” published in 1979: “Their failure is also encoded onto the very surface of these works: the doors having been gouged away and anti-structurally encrusted to the point where they bear their inoperative condition on their face, the Balzac having been executed with such a degree of subjectivity that not even Rodin believed (as letters by him attest) that the work would be accepted.)

クラウスはオクトーバー誌のためにロラン・バルト、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズらのテキストを翻訳し、自身もその翻訳によって鍛えられたスタイルで執筆した。彼女の同僚の多くも同様である。その中にはフランス人やドイツ人がおり、自分自身の文章も同時翻訳して執筆していたと思われる。

IAEの特徴的な語彙の多くはフランス語に由来しており、特にわかりやすいのが~ション、~ニティ、~リティ、~ゼーションといった接尾辞だ。~ネスなどの気楽な表現に比べると、かなりの頻度で用いられている。

定冠詞(the)と不定冠詞(a, an)の不可思議な増殖:
The Political 、The space of absence、the recognizable and the repulsive
などもフランス語から輸入されたものだ。例えば Le vide は一般的に空っぽのもの(empty things) を意味するが、ポスト構造主義の翻訳家たちは明らかに、“The Void:虚空” の象徴的な語感を好んでいた。

“Le vide”はフランス語のウェブコーパスにおいて、100万毎に20.9回の頻度で使われる。BNCでは100万毎に1.3回だけだが、e-fluxでは100万毎に9.8回である。(スケッチエンジンの検索は大文字・小文字を判別しない。)
“multitude” という言葉は英語・フランス語に共通する言葉だが、e-fluxのプレスリリースでは141回登場し、その頻度は102倍である。
IAEにおいて非常に一般的な前置詞と副詞もおそらくフランス語由来である。同時に(simultaneously)、それでもまた(while also)、そして、もちろん、常に、すでに。

IAEの傾向の多くは、単なるフランス語というよりも上流階級が書いたフランス語の文章から引き継いだもので、それはポスト構造主義者を模倣、あるいはパロディ化した文章である。
その手のフランス語は、形容動詞と過去分詞、現在分詞を多用した文を重ねに重ねる。これがアート系文章の様式的特徴となっていった。注6

IAEにおける英語以外の出典元はフランス語だけではない。ドイツのフランクルト学派もまた、オクトーバー世代に多大なる影響を与えている。その遺産は、制作(production)、 否認negation)、全体性totality) といった言葉に宿り、多くの弁証法Dialectics)を生んでいる。

(production はe-flux においてBNCの4倍の頻度で使用され、negation は3倍、Totality は2倍だった。e-flux における Dialectics は100毎に9.9回登場し、BNCの6倍である。IAEにおける弁証法(dialectics)は、BNCにおける sunlight (日光)と同じくらい一般的だ。)

あるプレスリリースでは、こんなことが言及されている。

人間性は成長を志し、また重力への服従による疎外感からの自由を求める、、、この物資的・実存的な弁証法は、高所と意図的な落下の間を恒久的に揺らぐ状態にあり、均衡の限界を探究するように我々を駆り立てる。(humanity has aspired to elevation and desired to be free from alienation of and subjugation to gravity. … This physical and existential dialectic, which is in a permanent state of oscillation between height and willful falling, drives us to explore the limits of balance.)

そう、ここで断言されているのは、立ち上がることは弁証法の実践だ、ということだ。

競合たちは、オクトーバー誌の文章が持つ特徴を、意図的なものかどうか識別しないままに模倣した。クラウスと彼女の同僚は自分たちの言葉選びに一種の分析的な正確性を求めていたが、ある程度日用語のように使われる言葉は削除していた──無秩序かつ表現的に。
弁証法的(dialectic)という言葉には科学的と言えるほどの正確な意味があるが、IAEでは通常、これは良いものだ、と情緒的に暗示するために使われている。

また同時に、オクトーバー誌の子孫たちは翻訳ミスを言語学的な規範のレベルにまで高めていった。
IAEには理論的、美的な影響を収集し、その蓄積の活用形と公式を自由に組み合わせ、新しいものへと合体させていった。(後にアート関連文章は、例えばクィアなどにおいて問題を起こす。)注7

現在最も権威のある文筆家は、批評はそれがなにか・なにをしているのか理解する力を欠いている、と強く主張している。
残念ながら、オクトーバー誌が発行された後の数年間とは異なり、アートの解釈において明確に支配的な方法論は存在しないのだ。過去の理論は未だに我々と共にある──それは実際の作品解釈においてではなく、我々の精神とアートワールドの共通語の中に。注8

権威:

我々には、アングロ系の美術批評が開拓してきた文章の排他的な点を指摘する重要な義務がある。この言語は理解されることよりも認知されることを要求しているのだ。
オクトーバー誌の時代に美術系の記事が開拓した、非常に多くの風変わりな翻訳を基本とするこの言語は、大多数の人々を遠ざけた。なぜなら本当に異質だったからだ。

この言語は英語話者すら遠ざけたが、その言い回しに聞き覚えがある者にはまだ身近に感じられた。
そのフェイントを理解できたのは教養のある者だった。この難解な言葉の捻じれに馴染みがあるのは、フランス語の翻訳、少なくとも翻訳されたであろう理論に長年触れてきた者だ。
つまり、美術系の記事は読者をはっきりと区別した。またそのおかげで、特定の執筆者の発言は他よりも権威があると感じられるようになった。
ここに権威が関連するのは、アートワールドが製品を扱う訳ではないからだ。そこでの価値付けは象徴性と解釈可能性が基礎になっている。そのため、価値付けの能力:特定のものや概念を意義深く、かつ批評的に考察できる力が重要となる。

1960年代から、大学は急速に成長するアメリカのアートワールドへ参入するための特権的ルートになり始めた。そしてオクトーバー誌をきっかけに、業界はこの類いの言語学的な奇妙さを構造的に称賛したのだ。
この特殊な言語は、大学で訓練されたであろう、厳密で政治意識の高い、優れた批評的感受性を持っている、という信号を送るために使われる。
拡大したアートワールドにおけるこの言語の役割とは、“特定の作品を神聖化すること” だ。素晴らしく、批評的で、間違いなく現代的である、と。
IAEが開拓したのは、以前は作品解釈に使われていた構文や専門用語を、作品説明に使うことだった。

高尚な批評的議論に使われていた様式が、あらゆる種類のアート関連の文章へ浸透していくのに時間は掛からなかった。オクトーバー誌はその創刊時から真面目な翻訳文という印象だったが、その10年後、中堅寄りのアートフォーラムもそっくりな文体になっていた。そのすぐ後に、アーティストのステイトメント、展示案内、助成金申請、展示壁面のテキストもそうなっていく。

IAEが急速に受け入れられた理由は、後に世界中の人々がIAEを国際言語に選んだ理由とあまり変わらない。内容が何であろうと、このエリート言語を真似することで、話を聞いてもらう価値のある業界人の耳に届けたいのだ。
だが、全員が同様の把握力を持っている訳ではなく、アート関連文章の内容に対する誤読は頻繁に起きる。しかしIAEなら誤読せずに美しい交流ができる。良い読者は、この言語のバリエーションの乏しさに極めて敏感だから。

最近のNYにおけるMFA(美術学修士)の展示案内は、その学校の美術史博士過程の学生が書いていた。

(アーティストの)ものをつくるという行為が、過去と現在のコントロールを可能にさせている。

複雑さが足りないIAEは、良くも悪くも聞こえうる。より明快な表現には、その主張の滑稽さをはっきりと感じさせてしまうリスクがあるのだ。
言い換えるなら、我々は巧みな語法に威圧されがちである──その文章が何を意味しているのかに関係なく。

e-flux がリリースしたドイツの代表的アート雑誌の文章を参照しよう:

“「アート」と「サイエンス」の弁証(あるいは統合)を何度も繰り返し唱えるのではなく、芸術的研究・実践の特殊性とそれがもつ可能性を明確に説明する。”

この雑誌は、IAEでは通常肯定的に捉えられている弁証法を反転させることで自分たちを区別している。弁証法は退屈だと訴えているのだ。
そしてこの雑誌は、自分たちは一般読者よりも弁証法について深く理解している、と暗に主張している。また、特定の弁証法は退屈過ぎて、同じく退屈な統合と交換しても構わないほどだ、と示唆することで、その主張を強化している。
ここで弁証法が何を意味しているのかは無視してよい。重要なのは、この文章が醸し出す権威なのだ。

内部崩壊:

ビエンナーレについてどう語ろうが、インターネットによるパノラマ効果以上に過去10年のコンテンポラリーアートを変えたものは存在しない。e-flux 以前に、オクラホマ市美術館とピナコテーク・デア・モデルネに何か関係があっただろうか?しかし、彼らのアナウンスが同じ日に送信されると、彼らはお互いのテキストを読んで関係を持つようになる。また、彼らが取り上げているアーティストとその作品にも同じことが起きる。

アートワールドにおいて、言葉は今まで以上に強力になった。アートワールドの関心はビエンナーレよりも、ほぼ常にオンラインに向けられている。e-flux の読者には、アート作品は常にIAEで包まれた状態で届けられる。
アートワールドのエリート達は、今やアートに対する解釈の独占権を持っておらず、彼らは主にフットワークの軽さによってお互いを識別している。それでも彼らが受け継いできたこの書き言葉は、より多くの、より多様な出自を持った使用者たちを惹き付け続けている。
新しいIAEユーザー達は英語圏の先輩たちと同じ目標を胸に、この言語を匿名的に大量生産する。そのプレスリリースは神のみぞ知る誰かの受信箱の中に届き、注目を集める。メール受信箱こそが、IAEが最も目覚ましい進歩を遂げている場所なのだ。

IAEという集合的プロジェクトは活発に国際化している。今やこの言語学的模倣とワンアップマンシップ(他者の一歩上を行く主義)的行為がネット上を飛び交っている。
2009年にはspeculative(投機的) の使用頻度が理解不能なほどに増えた。2011年には rupture(破断) を見かける機会が突然増加した。現在は transversal (横断的) が浮上中で、今年は今まで以上に使用されそうだ。注9

この言語の共犯者達が他者の意図を汲み取る方法は、今まで以上に少なくなってきている。 我々の仮説では、分析用語が意味深で宣伝的な記号へと変わる速度は加速している。

言語が拡散すると必然的に方言が生まれるが、フランスのプレスリリースにおけるIAEは完璧過ぎる。フランス人学者を模倣したアメリカ人学者を模倣したアメリカのインターンをフランスのインターンが模倣している、としか思えない。注10
一方でスカンジナビア人のIAEは下手である。(つまり、読み易い英語である。)注11
 恐らく、ライター達は間違った自信に邪魔されている。非ネイティブでありながら英語が流暢なことに満足しており、IAEに耳を傾けていないのだ。

image:The London collective BANK's Press Release(1998) invited the public to join in combating the “particular linguistic manifestation” that had come to characterize exhibition press releases and gallery texts. Click hereto view the corrected releases.

2006年に e-flux は“Beyond”というタイトルの広州トリエンナーレの告知をリリースしている。“珠江デルタを近代化するための特別な実験空間”──ここは4000万人の大都市計画地である:

“典型的な地域開発の一環として、特別な近代化のフレームワークの中で行われるコンテンポラリーアートの研究。そこには可能性と混乱が満ちている。珠江デルタ(PRD)は新しい空間戦略、経済様式、ライフスタイルの為に立ち上がります。芸術的実験と実践のプラットフォームとして素晴らしいこの空間を尊重すると同時に、独創的で革新的な実験サンプルも生み出すでしょう。”

事務的な表記とは正反対の文章だが、無意識にバタイユの翻訳を真似してしまう者が中国文化省のインターンにいるのかもしれない──多分いないだろうけれど。ここでの本質は、アートワールドの言語を使って上手な文章を書くには、もはや英語の勉強が前提条件とは言い難い、ということだ。

一見すると、これは英語に対するひとつの勝利に思える。我々が慣れ親しんできたアート系文章はますます恍惚的になり、意味のある文章を書くことから開放されていくだろう。だがIAEの急速な開拓の原動力となった状況がなければ、この言語は今にも存続の危機に陥るのかも知れない。IAEには正文法がないがその代わりに、継続的に新しい言葉を取り入れ、外国語っぽい響きにする戦略によって進化してきた。英語話者の立場から、理解できるかどうかの限界に挑んできたのだ。だが、この規範からの逸脱に対して、世界中の読者がまともに疎外感を感じるとも思えない。注12

こういった状況へと向かう重力を最初に知覚したのは我々ではない。この現在進行系の批評の危機は、21世紀の最初の10年が終わる頃に熱を帯びてきたようだ。
美術史家で批評家のスヴェン・ルティケンが嘆くところによれば、批評は “高尚なコピーライティング” 以上のものではなくなってきている。コンテンポラリーアートの商業的状況によって、本格的な批評がなにやら動作不良を起こしている、という考えはここ数年で頻繁に語られるようになったが、市場がどのようにして批評の権威を破壊したのか、説得力のある解説をする者は誰もいなかった。ルティケンの公式は明快だ。“その高尚な批評は、もはや模造品と違う響きを持っていないのではないか?”

批評家は伝統的にIAEのエリート開拓者であったが、もはやそれを制御できていないようだ。事実、彼らは自分たちのゲームにおいて、自分が何をプレイしているのか理解すらしていなさそうな匿名の対戦相手に叩きのめされたように見える。広州のテキストに戻ろう。

この都市は、確立された都市という概念を超えて、新しく形成された巨大集合体であるとみなされています。その特別な空間は、全ての問題をカバーする実験場であり、時間と空間の限界から自由なのです。
(The City has been regarded as a newly-formed huge collective body that goes beyond the established concept of city. It is an extraordinary space and experiment field that covers all the issues and is free of time and space limit.)

IAEに自信のある読者にとって、この文章は立派な作品として胸を打つのかもしれない:

  • 我々は “確立された概念” の一般定義を超越する、という冗長かつ曖昧に定義された現象を起こせる。

  • 我々には時間と空間がある。

我々は無駄に定冠詞を付けるが、冠詞は間違った場所にある。covers all issues and is free from the time and space limit. と書くべきではないか?
誰がこれを書いたのだろう?いや、待った。これはおそらく前衛的文章なのだ。

IAEがないアートワールドなんて想像できるだろうか?プレスリリースを通じて主題の重要さを伝えることができないのなら、彼らが何を簡潔に話すというのか?この特殊な言語抜きで、アートはより広い観衆と地方民を受け入れなくてはならないのか?それに耐えられるのだろうか?もし内部崩壊がおきても、国際的なアートワールドの言語が自然で包括的なものになるとは期待できないだろう。むしろ、この世界のエリートは従来の高尚な英語を使い、そこに信頼感の区別を生み出すはずだ。

きっと我々は、この退廃したIAEの時代を楽しむべきなのだろう。e-flux のプレスリリースを、その中身ではなく、IAEの熟練度でもなく、叙情性を感じるために読むのだ。多くの人は既にそう考え始めている。注13

その基準として、以下のプレスリリースを再定義して読んでみよう。

ペーター・ロジャーズは合成レジンとアルミ鋳物を使い、その主題に粉骨砕身で取り組んでいる。そして、我々の世界に対する認識を斜に捉え、異質なイメージを生み出すことを志向している。そこには真の芸術的創作物の核心と本質がある──埋もれている視覚的認識を人工的なシェイプへと造形し、想像のレールに人を乗せたい、という欲求だ。ペーター・ロジャーズは、あらゆる個人的関心に反して制作に取り組み、いかなる無気力な形式の作品も作らない、という勇敢な決意をもった数少ない彫刻家である。彼の新しいドローイングは、思考の鋳型:世界が傾き、薄汚れた現実を追い払う想像力を捉えるためのものだと言えるだろう。
(Peter Rogiers is toiling through the matter with synthetic resin and cast aluminum at tempting to generate an oblique and “different” imagery out of sink with what we recognize in “our” world. There in lies the core and essence of real artistic production—the desire to mould into plastic shape under mining visual recognition and shunt man onto the track of imagination. Peter Rogiers is and remains one of those sculptors who averse from all personal interests is stuck with his art in brave stubbornness to (certainly) not give into creating  any form of languid art whatsoever.His new drawing can further be considered catching thought-moulds where worlds tilt and imagination chases off grimy reality. )

ペーター・ロジャーズがどんな人か、何をしていて、どこ出身なのかは知らないが、それでもこの人に会ってみたい、と思うことだろう。 

注1:“その全体性においてe-flux は芸術作品であり、形式的にも内容的にも流通を利用している” とヴィドクルは2009年に Dossier で語っている。(その時非常に儲かっていた)e-fluxはアートなのかビジネスなのか、とインタビュアーが聴いた後の発言である。

注2:本文の執筆者たちはLexical Computing によって開発された用語索引ジェネレーター:スケッチエンジンを使ってe-flux の告知文の集積を作成し、インターナショナル・アート・イングリッシュの様式的傾向を調査した。このエッセイが公開された時点では、Lexical Computing はトリプル・キャノピーにスケッチ・エンジンへの無料アクセス権を提供してくれていた。読者がその集積を探索し、用語索引、ワードスケッチ、ヒストグラムの作成による独自分析が可能だったのだが、残念ながらアクセス権は最終的に解除されてしまったので、このエッセイに埋め込まれたスケッチ・エンジンのモジュールはもう機能しない。これらは発表時本来の形式を維持するため、そのまま残されている。

注3

注4
:同様に White Flag Projects は、ダニエル・レフコートの2012年の展示“Mockup”についてこう説明する。“保管室、舞台装置、大霊廟、見本市、図式、ゲーム盤、スタジオ、在庫、小売店、図記号、教室、美術館展示、建築的様式、そして看板描きのワークショップである。”(a storage room, a stage set, a mausoleum, a trade show, a diagram, a game board, a studio, a retail store, a pictograph, a classroom, a museum display, an architectural model, and a sign-maker's workshop.)

注5
:IAEが文章、ましてや散文とみなされるのは稀である。それでも美術業界人が“エッセイ”を執筆したい、または執筆したと主張することはある。それは少なくとも語源的には正しい(評論ではなく随筆という意味で。)そこでの言葉の選択──代替可能性:fungible、凡庸:indifferent、禁止:forbidding──は、アートワールドで文章がどのように理解されているのかについて多くのことを物語っている。文章は、当たり前だが筆者側が表現したもので、読者はそこから多くの意味を受け取る。文章の豊かさとは全て、意味の可変性のためにあるのだ。

注6:アーロン・ヤンがその企業で2012年に行った展示、 "No Fucking Way” のプレスリリースを読んでみよう。“この現実と構造を霞ませる行為はパフォーマンス、推測、判断の領域にのみ存在し、鑑賞者をその消費に巻き込む。なぜならそういったセレブリティに対する我々の観察は、常に仲介されているからだ。”(This blurring of real and constructed, only existing in the realm of performance, speculation and judgment, implicates the viewer in its consumption, since our observation of these celebrities will always be mediated.)

注7:IAEが好んで繰り返される表現の起源をピンポイントで指摘するのは難しい。言葉の無意味な入れ替えについて、避難されるべきなのは誰なのだろう?少なくとも、キアスムス(交錯配列)はポスト構造主義的であるのと同じくらいマルクス主義的だ。テオドール・アドルノの、“神話はいまや啓蒙運動である。そして、啓蒙運動は神話へと先祖返りする。” といった発言にも見て取れる。ベンジャミンは、有名な “複製技術時代の芸術” の最後の一節で、ファシズムによる政治の美学化(aestheticization )を、共産主義によるアートの政治家と対比して書いている。デヴィッド・ルイスはアートフォーラムの中で、ジョージ・コンドの展示についてこうレビューしている。“売春宿から乱交、ピエロまで、その主題は陳腐なものだが、決して陳腐さに関する作品ではない。また、コンドは実際には悪趣味さで遊んでいるようには見えない。むしろ悪趣味さが彼で遊んでいるように見える。”(subject matter, ranging from whores to orgies and clowns, is banal but never aboutbanality, and Condo does not seem to really ‘play’ with bad taste—it appears instead that bad taste plays with him.)

注8:IAEは政治的悲劇という感覚を伝える。政府はいつも、永遠に、誰に対しても最悪だという文脈で、過激派になってしまうほど全てがひどく損なわれているのだ、と。その語彙に基づいて表現するなら、アートは審問(interrogate)し、問題提起(problematize)し、境界線を曖昧(blur boundaries)にする、または曖昧な境界線に焦点を当てる(highlight blurred boundaries)。もちろん、全てのアートが実際に革命を起こす訳ではない。そういった作品の“プラットフォーム”を提供する美術機関も同様だ。だが、アーティストが作品の制作を始めれば、ステイトメントは矮小化された真実となる。実際に行動を起こす、という最も実直な行為が有耶無耶になっていても、作品が審問を目的としていると言うのなら、そういうことになるのだ。あるアーティストは美術館でのレジデンスをアクティビストの訓練キャンプへと変えたが、美術館によるプレスリリースではこう表記されている。“不平等性を維持している場所を抗議運動とアクティビストの講演の場に変える。それは、抗議を実行に移すための有機的で直接的なプロセスを具体化することを目指している。” その活動は言葉の中で死んでしまっているが、一方で美術館は “討論の場として立ち上がっている。”

注9
:スケッチエンジンのヒストグラムの解釈については、こちらのギャラリーを参照。

注10: IAEと歴史的に排他的な関係があるからといって、フランス人は自分が言っていることをもっとしっかり理解しているはずだ、と考えるべきではない。これはe-flux上で Centre International d’Art et du Paysage Ile de Vassivièreが発表したプレスリリースである。“ニコ・ドックスの作品は他の演者と対面し、また関係していくことで、継続的に開発しています。”([Nico] Dockxs [sic] work continually develops in confrontation with, and in relation to, other actors,) “(2人のコラボレーターを)招待するこの機会において、(中略)展示をプロデュースする彼に伴うもの、それはこの展示の期間中を通して、新しいコラボレーションと新しい要素によって展示を豊かにしようとする意図である。このプロジェクトは(中略)反復と進化であり、望ましい場所:時間の上にある即興である。”
(On this occasion he has invited [two collaborators] … to accompany him in producing the exhibition, which they intend to enrich with new collaborations and new elements throughout the duration of the show. The project … is a repetition and an evolution, an improvisation on the favourable terrain that is time.)

注11:2006年のヘルシンキ・ビエンナーレのアナウンスメントとして書かれた、質の悪い(つまり、分かり易い)IAEについて考察してみよう:“アートは現実を理解するための様々な方法を探します。ヘルシンキ現代美術館の国際展:ARS 06は、同時代の現実の一部としてのアートの存在意義に着目しています。この展示のサブタイトルは、Sense of the Real:真実の知覚 です。”(Art seeks diverse ways of understanding reality. Kiasmas [sic] international exhibition ARS 06 focuses on meaning of art as part of the reality of our time. The subtitle of the exhibition is Sense of the Real.)
冒険心には欠けるが、Reality:現実 と the Real:真実 の両方を使っているので、その語彙はIAE的だ。しかし文法を見ると、文章は短すぎるし、直接的すぎる。展示タイトルにも冠詞がひとつしかないとは、少なすぎる。この広報を読むに、筆者は完全なIAE話者ではなく大衆派の還元主義者で、おそらく保守的なのだろう。(つまり、普通の英語としてはまともである)

注12: もしIAEが上流階級のための英語ではなく、正しく包括的であろうとしたなら、その発展の原動力であった差別を効果的に生み出させなくなる。

注13:我々が確認できた中では、IAEで書かれたプレスリリースに詩的な可能性を最初に見出したのはジョセフ・レッドウッド・マルティネスである。

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