【意訳】空からの観察者:リチャード・ディーベンコーンのオーシャン・パーク・ペインティング
クリップソース: Watcher from the Skies: Richard Diebenkorn’s Ocean Park Series
※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
もし間違いを発見された場合は、お手数ですが 山田はじめ のTwitterアカウントへご指摘を頂けると助かります。
Watcher from the Skies: Richard Diebenkorn’s Ocean Park Series
James Gibbons July 15, 2012July 18, 2012
1968年、またとない政府の寛大な活動が始まった。アメリカ内務省の干拓局が40名のアーティストを招待し、全経費を支払った上で、西部の干拓事業の成果を記録する作品を制作させたのだ。
参加を求められた者の中にリチャード・ディーベンコーンがいた。彼は1970年にコロンビア川の渓谷とアリゾナ州のソルト川へ5日間の大探査の旅に出て、崖の上や、上空を往復するヘリから風景を撮影した。
空からの展望に長時間魅了された彼は、自分が見たものに狼狽えていると気付いた。“いつ行われたものであっても、そこでの農業の過程を見ることができたのです──かつて耕されていた畑の幽霊、侵食された土地の補修跡などを。”
ディーベンコーンが高い位置からの鳥瞰によって発見した、耕作と抹消の相互作用。これが彼の晩年の抽象画を理解するひとつの方法である。彼の絵画の多くは、とてつもなく高い場所から吊り下げられ、区画整理された風景(もしくは風景的なもの)を見下ろしている感覚になる。
その質素だが広大なキャンバスを正面から見ると、大地のパリンプセストのようだ:平坦で滑らかに仕上げられているが、そこにはすり減り、削り取られ、塗り替えられながらもまだ消えきっていない、多層的な光学的痕跡が見て取れる。
※パリンプセストとは、まだ紙が貴重だった時代に、以前の内容を消し、上書きして再利用された羊皮紙の写本のこと
ディーベンコーンが晩年の長期間を過ごした南カリフォルニアで描いた抽象画が、展覧会:Richard Diebenkorn: The Ocean Park Series のテーマになっている。本展は(2012年時点で)ワシントンDCのコーコラン美術館で最後の巡回展を開催している(それも、東海岸では唯一の会場だ。)
ディーベンコーンが20年間ほどスタジオを借りていたロサンゼルス近郊の地名を付けられた絵画:オーシャン・パークは、彼の作品の中で最も有名だ。
だがこの展示は(使い古された言葉だが)意外な新事実を明らかにしている。散在していたこのシリーズの絵画を沢山集めるだけでなく、他メディアの関連作品と対話的に配置しているのだ。
ここでは、作品のサイズ、パースペクティブ、色彩、メディウムなどの一致・相違が生み出す電流が展示全体を流れている。タバコの箱のフタに描かれた小さな作品は友人への贈り物として描かれたもので、大型作品と呼応する一方で、愛情や親密感を帯びている。本展のキュレーター、Sarah C. Bancroft が展示カタログ内の素晴らしいエッセイで述べた様に、それらの絵画には “室内にいる人々の注目を集め、実際のサイズとは不相応なほどの壁面の広がりを感じさせる” だけの充分な支配力がある。
このシリーズにおいてよく見られるマリンブルー、イエロー、ピンクといった色調が、1986年の木炭で描かれた Untitled (Ocean Park)などの対照的な作品による、予期せぬ感情的・形式的衝撃の舞台を整えている。
そのドローイングの中では、横長のグレーと黒のパネルが、空気や汚れにも見える不吉な嵐の中で宙吊りになっている。
本展における数点のコラージュも、即座に絵画を連想させるものだ──その色彩の一区画は、私達の眼の前で揺らぎ、震えているように見える──また、頑丈に建設されたオブジェクトにも見える。その作品の鮮やかさの欠如は、まるで大型絵画の下絵をレントゲン撮影したかのようである。
ディーベンコーンの1966年の南カリフォルニアへの移住は、彼のキャリアの転換期と見事に一致している。彼は1955年後半にメイン州の端にあるアシュランドで始めた具象表現を放棄し、サンタモニカのスタジオには持ち込まなかった。彼自身としても唐突に、新しい抽象表現を受け入れたのだ。
彼がこのシリーズで最初に作品として発表したのは “Ocean Park #6” (1968) である。(ディーベンコーンは前の5作品を納得いかずに破棄している)本作では身体の輪郭を思わせる四肢のような形状と曲線に、抽象へ昇華される前の具象的形式の面影が見て取れる。
より明確なのはガッシュで描かれた1969年の “Untitled (View from Studio, Ocean Park)” であり、本作はディーベンコーンの美的転換の象徴として解釈できる。スタジオの外の世界に広がる木々と屋根の風景が、上下の抽象的なレイヤーでサンドイッチされているのだ。その絵画平面は今にも取り囲まれ、鉄格子のように固く閉じ込められてしまいそうだ。
ディーベンコーン自身がスージー・ラーソンとの会話内で喋った話によれば、初期のオーシャン・パーク・ペインティングは、後期の作品よりも空気的・雰囲気的だった。
1970年代の初めから、彼は以前の表現法を慣用的表現へと解体し、より自身の気質を反映したものへと変化させた。それは画家としての原則に基づいているというより、制作し続けたいという欲求を満たすための青写真(設計図)のようだった。
その構図では、グリット構造が建築的な安定性を与えている一方で柔軟で、重厚だが威圧感がない。この特徴が、彼の絵画の古典主義的特徴を最もよく表している。
グリッドは調和と均整を探究するきっかけを与えてくれる、とニコラ・プッサンのように考えていたのだ。
それでもディーベンコーン作品は曖昧なオーラを全体に纏っており、それこそが作品の最も魅力的な特徴でもある。
オーシャン・パークを観ていると、作品を最終形に持っていくための決断とやり直しについて気付かされる。
このシリーズの制作過程に横たわっているドラマは、絵画平面の部分的な揺らめきの中に込められている。それは分配的構造の構図全体によって制御できるものではない。
特徴を挙げていくならば、“Ocean Park #27” (1970) における三角形のエッジ周辺のペンティメントと乱れは、別々の出来事のようだ。
※ペンティメントとは、乾燥などによって塗りつぶした図像や下地の筆致などが表面に浮かび上がってくる現象
Cigar-Box Lid(タバコの箱のフタ)に描かれた滑るようなカーブと分岐路が生み出す視線導線には、ほとんど音楽的とも言える心地良さがある。
後年の凹版印刷作品、 “Blue Surround” (1982) では、中央の緑の矩形が空間を妨げると同時に広がっているように感じられる。それを見つめていると、通り過ぎていってしまうような、あるいは何かの上に浮かんでいるような感覚を受けるかも知れない。
それでも、この手の作品で空間感覚を失うことはない。なぜなら、その魅惑的な感覚的混乱の中に引き込まれているのだから。
これらの多様な知覚体験が、自己満足や、壁面に惹きつけられるような美しさからオーシャン・パークシリーズを解き放っている。こんなにもたくさんの作品が再集結しているのを見ると、自分で作風の境界線を決める言行一致の美徳、それは制限的どころか生産的であり、その細部にどれだけ複雑な変化を生み出すことができるのかを教えてくれる。
ディーベンコーン晩年の抽象画時代は長い安定期だった。なぜなら、サンタモニカだけでなく頻繁にアメリカ西部を巡って、場所、あるいは地域といったフィルターを通して多様な光、気候、色彩、空間を探究していたからだ。
また鈍感でないならば、その作品に南カリフォルニアという環境からの影響を感じ取れるはずだ。(シリーズのタイトルにまで示されているのだから)これらの作品は元々の場所を反映した以上の存在になっている。ディーベンコーンの達成は、オーシャン・パークがどこにでもあるように感じると同時に、どこにもないように感じられることだ:彼はこの世界の中にいるのと同時に、どこか超越的な上空にも存在しているのだ。
ディーベンコーンの友人であるウェイン・ティーボーはこう語っている。“どの場所を描いているのか、はっきり分からないでしょう、、、彼はひねくれた方法で、描く対象を本質化するんです。”
Richard Diebenkorn: The Ocean Series is on view at the Corcoran Gallery of Art (500 Seventeenth Street NW, Washington, DC) through September 23.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?