【意訳】R.H.クェイトマン:ペインティング・オデッセイ
Clip source: R.h. Quaytman The Painting Odyssey
※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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R.h. Quaytman The Painting Odyssey
NY在住のアーティスト、レベッカ・クェイトマンの展示が、ポーランドのウッチにあるMuzeum Sztuki (美術館)で開催された。それは彼女の最初期を振り返る回顧展的な展示で、20年間にわたって取り組み続けているトピックを表現したものだ。
本展では旧作が30点ほどの新作と共に並置されている。彼女は重要だと思ったテーマを語り直し、再解釈することで、新たな矛盾と物語を巧みに生み出しているのだ。
彼女は執筆も行なっており、2001年から続く彼女の連続展はその著書:ペインティング・オデッセイの各章を構成している。
それは芸術的な日記やカレンダーの様なもので、各パートにはレベッカが出会った様々なアーティストとの対話が記録されている。
鑑賞者は自分達が新章のページの中にいるかの様に没入しながら、スリリングなナレーションを楽しむだろう。
そこでは各章の主人公が象徴的な死を遂げるというアイデアが通底しており、その死は同時に、既に構想中の新章への導入にもなっている。
レベッカ・クェイトマンは主に現在と過去から着想を得て、古今東西の出来事のイメージを包括的に利用している。家族のプライベートな歴史、美術史、クェイトマンが訪れた場所の歴史、感情、今まさに直接体験している展示空間──それら全てに一貫性を与えて提示している。
彼女の脳内イメージは別のイメージと重なり合い、浸透し合う。自分の過去作と新作、そして他作家の作品との創造的な対話を形成していく。
多種多様な作品の参照は実に魅力的で、例えば構成主義的な抽象画の隣に、性的なアマゾネスの絵画が並べられたりしている。
レベッカ・クェイトマンの長いキャリアの中で、ペルシア人女性が何度も作品に登場しているが、我々はその絵画をウッチで開催されている第35章:The Sun Does Not Move(太陽は動かない)でも観ることができる。
またこれらの作品は、2年前にWiener Secessionにて第32章として公開されたものと同じである。
その作品はオットー・ファン・フェーンの絵画、The Persian Women と Amazons and Scythiansから着想を得たものだ。その絵画に描かれた女性のパワーとファン・フェーンの語るストーリーに魅了されたのだ、と彼女は2017年に認めている。その絵画に込められたストーリーはキリスト教の物語ではなく、極めて象徴的かつ興味深いものだ。
そこに描かれているペルシア人女性達は、プルタークの物語:On the Bravery of Women から来ている。
この物語は、女性のパワーを剥き出しの性器や胸へと象徴化している。我々が見ているのは、生まれ持った性質を新たな力へと変えた女性達なのだ。
一方で、我々を打つのはそのイメージの同時性だ。オットー・ファン・フェーンの絵画に描かれたペルシャの物語はひとつのフレーム内に収まっているが、実際には様々な場所へと拡がっていった。
レベッカ・クェイトマンの絵画にも似たような同時性を観ることができる。彼女は巨匠の作品を引用しつつ、手仕事や多層化を通じてそこに介入している。
巨匠の作品はまず写真として記録された後、スクリーンプリントへと変換される。そこで絵画の唯一性が抜け落ちるだけでなく、ぼやけて明確なかたちも分からなくなっている。
その視覚効果は、人間の視覚が持つ不完全性・単純化・律動性といった性質を逆手に取る、光学的操作によって生み出されている。
かなり近付いてよく観なければ元々のイメージが分からないのだが、そこまで視認性が悪いのは、目が痛くなるようなストライプ模様によって妨害されているからだ。
ペルシアの男達がそうであったように、我々は“現状”に立ち戻って観ることができない。絵画空間から押し戻されてしまうのだ。クェイトマン作品は我々の知覚のメカニズムに挑戦し、それがどう機能しているのかを暴く──まるで嘲笑うかのように。
もっと細部をしっかり見たいと感じる我々の目も、後ろに下がって異なる角度から絵画を観るように、脳に要求してくる。
こういった多くの相反する力が同時に働き、画面から我々を引き下がらせるのだ。
クェイトマン作品は我々を引き戻す、あるいは押し戻す。巨匠と現代作家、古代性と近代性、親しみ易い物語と秘密。
絵画に込められたこれらのギャップと、イメージ全体を把握させない視覚効果が、我々を不安にすると同時に驚かせてくる。
フロイド的に言うならば“不気味なもの:Unheimliche”なのだ。
これらの相反する力学によって、我々のいる空間が定義され始める。平坦な画面が三次元的に作用するのだ。
絵画は横から見れば、実際にはオブジェクトであると分かる。しかしクェイトマンの絵画の縁は直角ではない。画面縁が斜めにトリミングされた木製パネルに絵を描いており、画面の背部に空間を生み出すことで、絵画が壁から離れている様に見せている。また別の絵画は、棚の上に本の様に立て掛けられている。彼女はこのようにして空間的な構成をおこなっている。
1929年、カタジナ・コブロはヨーロッパの雑誌でこう書いている。
レベッカ・クェイトマン作品においても、そのピクチャー・オブジェクトのかたちとサイズに無作為な選択は存在しない。その理由は、前述の引用文でカタジナ・コブロが語っている通りである。
レベッカ・クェイトマン作品が基本としている8つの寸法は、カタジナ・コブロの作品、特に高さ50cmのSpatial Composition 2 (1928)と黄金比を研究したうえで決められている。
クェイトマンはコブロ作品の寸法に黄金比を掛けて作品サイズを決めている。例えば、最初の寸法に1.618を掛けた20 x 32.36 インチの作品などである。
彼女の後期作品は全てこれらの寸法に基づいており、様々な変化と組み合わせを加えながら制作されている。
クェイトマンはカタジナ・コブロから寸法を参照するだけでなく、インスピレーションも受けている。その事実によって、アメリカ人アーティストであるクェイトマンの芸術的実践は別側面からも議論できる。
クェイトマンの展示は実際に、他の作品やアーティストとの対話だけでなく、美術施設との対話も生み出している。劇場的な宮殿であるMuzeum Sztukiもまた、物語を紐解く舞台へと変えられている。
その演目は絵画(役者)同時のコミュニケーションであり、そこに演劇的な動きとリズムを与えるのは、作品に引き戻されたり押し返される観衆のダンスである。(リズムはカタジナ・コブロとヴワディスワフ・スチシェミンスキの両者にとって極めて重要なものであった)
前述した様に、この美術館で公開された作品群のタイトルは“太陽は動かない:第35章”である。この物語は35番目であるが、The Sun. Chapter 1(太陽:第1章)もまたウッチで発表されており、全てはこの街から始まっている。
この展示でクェイトマンの祖父の肖像画を見ることができるが、1999年にクェイトマンをこの街へと導いたのは彼の物語である。祖父はウッチから来たユダヤ系移民だったのだ。
クェイトマンは今回、ウッチの美術館において自分自身をコブロとスチシェミンスキに同化させているが、彼らの作品との最初の出会いは確かに象徴的だった。
その当時、絵画は世界的に危機的状態にあり、もはや絵画の技術を開拓する新しい革新や可能性は何も出てこないだろうと思われていた。その技術開拓は、もう他に何も出てこない地点に到達した様に見えたのだ。
クェイトマンも同様に危機感を覚え、作家活動と絵画の新しい方向性を見つけようと、自分のルーツを探る旅に出た。そしてその旅が、彼女の作風を開拓する決定的な要因となった。
ウッチ生まれの卓越したポーランド人アーティスト2人の作品は、彼女の空間、視点、形式に対する疑問に回答し、アート作品が採用できうる形式への理解を深めさせた。
それと同時期に、クェイトマンは絵画の物質的側面と、絵画がどの様に空間や鑑賞者との相互作用を生み出すかについて研究を始めている。
彼女は作品の写真を撮る。(カタジナ・コブロのSpatial Compositionや、ファン・フェーンの絵画である)それを削ってそこに描かれている物語の一部をこすり落とし、撮影されたオブジェクトが何なのか分からない状態で提示する。
彼女は喧嘩を仕掛けるかのように、写真と絵画を嘲笑している。だがそれは同時に、写真と絵画が持つ固有の特性と限界を認識可能にしているのだ。
R. H. Quaytman. The Sun Does Not Move. Chapter 35
Curated by Jarosław Suchan
08.11.2019 – 23.02.2020
ms1, Więckowskiego 36, Łódź
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