絵画工学(仮)について
なぜ絵画工学が必要なのか
『良い絵とは何か?』― おそらく全ての画家にとって最大の疑問のはずだが、納得の行く答えは未だに一度も聞いたことがない。歴史に名を刻んだ巨匠たちでさえも、この答えには辿り着けなかったのだろうか?
あるいは実際にそうなのかも知れない。良い絵をどう解釈するかは個人の価値観や時代、場所によって異なる。掴んだと思っても指の間をすり抜け、『良い絵』の定義は無限に拡張していく。
ゆえに良い絵とは何か?と問う事自体が不毛であり、結局は鑑賞者が良いと思ったものが良い絵である、という退屈な答えこそが真理なのだろう。
しかし、そもそも良い絵の見分け方がわかったところでアーティストにとってはあまり意味がないのではないか。それよりも真に求められているのは具体的に絵が上達する方法、つまり良い絵の描き方を知ることではないだろうか。そしてそのヒントは既に無数に存在する傑作絵画の中に間違いなく隠されているーたとえ画家本人が言語化できていなかったとしても。
それらを分析していけば、時代や状況に対応した『良い絵』を描くために必要な要素を抽出し、整理することもできるはずだ。いや、していかなければならない。
絵の解釈から分析へ
現在、ITや製造業など市場競争を生き抜く上で常に技術革新が求められる業界では、実践重視の試行錯誤とPDCAサイクルによって成果を上げようとする、修業の様なアプローチが時代遅れとなりつつある。凄まじいスピードで状況が変化する現代においては、誰もが初心者として未知の領域の開拓を要求されるからだ。だが前述の修業スタイルは、荒削りな状態に磨きをかける際にはとても有効なのだが、熟練者の的確なアドバイスを受けたり先行事例の参照ができる、成熟したジャンルでなければ成立しない方法論なのだ。何の前例もない状態でとりあえず計画を立てて行動を起こしても、それが効果的なのかどうか誰も判断できない。いや、見当違いなことをやっている可能性が非常に高い。五里霧中のままPDCAサイクルを回し始めると、何の成果も上がらないまま同じところをぐるぐると彷徨い続ける恐れがあるのだ。それでは雪山で遭難しているのと同じようなものである。
ましてや、修行スタイルでは上達に余りにも時間がかかってしまう。10年かけて何かを掴んでも、その手法は既に時代遅れになっている可能性が高い。現代アートの世界も競争の激しい他業界と同じく変化が早く、常に新しいアイデアとオリジナリティが求められている。なので良い絵の描き方の修得に対して従来の修業スタイルは本来相性が悪いと言えるだろう。
そこで私が提案したいのが、分析と実験を重視した絵画制作の方法論、つまり絵画のエンジニアリングである。
絵の解釈から分析へ。実践から実験へ。更に良い絵の“誰でも描ける化”へ。それが多くのアーティストにとって本当に必要なアイデアである、と私は考えている。この一連の思考実験を仮に絵画工学と名付け、本文ではその概要を説明していきたい。
良い絵の必須条件
まずは分析の前に、良い絵に必須となる最低条件とは何かを定義する必要がある。確実に言えることは、絵画は視覚芸術である以上、鑑賞者の視線をその画面内に捕まえる事ができなければならない、ということだ。作品はまず観てもらえない以上、作品として成立しない。また、一瞥した程度で素通りされてしまう絵画も優れた作品とは呼べないだろう。
だが作品が鑑賞者の視線を捉えても心に響かぬまま何の印象も残すことができないのなら、これも作品としては失格である。ただ鑑賞させるだけではなく、充実した鑑賞体験を鑑賞者に与えなければならない。
この事から、ここでは良い絵の最低条件を『鑑賞者の視線を捕まえ、充実した鑑賞体験を与える作品のこと』と仮定義し、それを元に絵画に必要となる構造を考えていく。逆に言えばこの定義さえ満たしているのならば、どんな素材・手法・展示方法を用いても絵画(あるいは絵画的な作品)になりうると考えて良いだろう。
これが独善的な仮定であることは間違いないが、とりあえずの具体的な基準を設けたところで、以降では品質工学の考え方を援用して絵画の構造を分類・整理していきたい。
まずは絵画の制作から鑑賞までの一連の流れを図にしたものを作成した。追って各要素に対して簡単な解説を加える。
制作コスト
絵画のエンジニアリングでは、作品製作時に消費・利用されるリソースの全てを『制作コスト』と表現する。制作コストには画材・支持体といった制作時に消費される物資コスト、技術・知識などの知的コスト、道具やスタジオなどの設備コスト、そして作業時間・集中力・体力といった要素も制作時に消費される労働コストと捉えることになる。
制作ノイズ
制作ノイズは、凡ミスや技術的な未熟さ、画材の品質から技法や画材の選択ミスまで、制作を制御不能にしたり予期せぬ悪影響を作品へ与えてしまう要素のことである。より高級な画材、より高度な技術、より長い制作時間…とコストを大量投入すれば除去することも可能であるが、効果的な制作プロセスの考案によって制作ノイズを無効化することが最も効果的な対策と言えるだろう。
基礎構造
視覚芸術における根本的な要素、いわゆる視覚言語のことを指す。心理面というよりは人間の脳や眼が持つ性質に働きかけ、鑑賞者の視線を惹き付けるための要素である。基礎構造は大きく3つに分類する事ができる。
視線誘導:鑑賞者の視線を捕らえ、コントールする要素。
画面深度: 作品内に視線を引き込み没入してもらう為の奥行きを与える要素
作品空間: 問答無用に鑑賞の視線に割り込む性質を持つ要素
内容
鑑賞者に与える鑑賞体験をコントロールするため、基礎構造に上乗せされる様々な非視覚的な要素のこと。アイデア、情報、物語の3つに分類できる。基礎構造に対して上乗せする内容の比重が多い場合は作品が相対的にコンセプチュアル・アート的になっていくので、視覚芸術とは異なるロジックで作品を提示する必要が出てくるかもしれない。
また、鑑賞者が作品の内容を理解(ダウンロード)してしまう事で、それ以降の鑑賞体験が変質することに注意が必要である。逆に鑑賞者が自分の妄想や想像に基づいた内容を作品に投影(アップロード)してくる事もありうるため、内容を重視した作品は双方向的かつ変質しやすく、その設計は非常に難しい。
鑑賞
作品が鑑賞者の視線を捕まえている状況のこと。
作品と鑑賞者の相性に合わせて鑑賞が設計されていなければ、意図した鑑賞体験を充分に与える事ができない恐れがある。鑑賞はその性質に応じて4つに分類できる。
注目 : 眼を惹く要素に視線や気持ちが釘付けになっている状態
没入: 視線及び気持ちが作品に深くのめり込んでいる状態
解析: 不明瞭な要素を理解・読解しようと作品全体をスキャンしている状態
対話: 作品の発する問いかけにより鑑賞者の思考が喚起されている状態
鑑賞ノイズ
鑑賞時に発生する、鑑賞体験を与えることを阻害する要素のこと。
作品が状況や相手によって全く異なる印象を与える現象は、鑑賞ノイズに起因すると考える事ができる。価値観や関心度・先入観・文化の違いなど鑑賞者に由来する人的ノイズと、騒音・空間の装飾・人の多さなど、展示場所の状況に由来する環境ノイズがある。
何が作品にとってノイズになってしまうかは相対的に変化するため、ある場所で有効だった方法が別の場所でも有効とは限らない。よって展示ごとに鑑賞ノイズとなり得る要素を洗い出し、対策を考慮し直す必要がある。
なお人的ノイズは、主に内容に対する誤解や無理解を引き起こし、意図せぬ解釈を生んでしまう。一方で環境ノイズは、主に基礎構造の持つ視覚効果を相殺し、展示空間の中で作品を目立たなくしてしまう。
鑑賞体験
作品が鑑賞者に与えた影響であり、鑑賞後も継続的に心に残るものを指す。この鑑賞体験の充実度が高いほどに良い作品であるといえる。
視覚的充実感: 視覚的な美しさや面白さに浸った状態
思惟的充実感: 作品によって喚起された考察や想像に浸った状態
発 見: 作品から新しい情報や価値観、考え方を受け取ること
感 動: 作品によって喜怒哀楽などの感情を揺り動かされること
分類の意義
これらの分類は地味だが重要な作業だと私は考えている。例えばアーティストが行き詰まりを感じ、スランプに陥っているときは大抵、問題があるのは認識しているがその問題がなにかを特定できていないために解決策へたどり着けていない状態である。
分類作業はこの様な状況を打破するきっかけになりうる。重要部分だけに集中できるように意図的に細部を無視し、複雑に入り組んだ事象を単純な構造へと整理するからだ。そして真摯に制作に取り組んでいるアーティストならば、問題を特定できると同時に解決策も思いつくことだろう。
以上に列挙した各要素には実制作に応用できる様に更に細分化しているが、今回は概論ということでここまでに留めておく。以降は絵画工学において、良い絵を描く際に重要となる考え方を3つ挙げよう。
1. コストがかからない手法ほど良い絵を描ける
鑑賞体験を単純化した計算表で表すならば、
鑑賞体験= 作品(コスト✕制作✕展示)✕1/ノイズ となる。
つまり良い作品を制作するには、質の高いコスト(制作費・技術・時間など)を沢山投入し、制作・展示によって作品化する際にその費用対効果を増幅した上で、ノイズの影響をなるべく受けさせない様にする工夫が必要となる。
だがここで問題となるのは、コストは常に不足するということだ。時間は人類みな平等に1日に24時間しか持たない。技巧では老成した先人達に勝つのは難しく、知識を習得できる幅にも限界がある。若者がお金を捻出しても、プロの予算には遠く及ばないだろう。よって、コストの質と量に過度に頼った制作で他者の一歩先を行こうとするのはかなり無茶がある。
なのでむしろ必要なコストが少なくて済む費用対効果の高い制作方法を考案した方が、より良い作品を、より早く、より簡単に、より安定して制作できる様になるのである。
前述の通り、コストは常に不足するし融通が効かない。なのでコストの質と量に依存した作品は、凡ミスや破損といった制作ノイズ(不測の事態)に悪影響を受けやすい繊細な作品になってしまう。高価な画材を使い、高度な技術を用い、時間をかけて作られた作品ほど失敗時の損失が多く、修正にも相当なコストが必要となるのである。よってコストを沢山使う作品ほどにコスト不足と失敗のリスクに悩まされる可能性が高く、結果的に納期や予算の都合上、妥協した作品を世に出さざるを得ない状況に追い込まれる恐れがあるのだ。
その点、低コストでも優れた作品を作れる方法を考案できればコストに余裕が生まれる。そしてそのコストを更なるクオリティ向上の為に利用することができる。ミスした場合も必要なコストが少ないためリカバリーが容易く、クオリティを落とさずに済む。
この様に、費用対効果の優れた制作プロセスの考案できれば、単なる省エネや節約だけでなく作品とその制作プロセスを継続的に向上させることができるのである。
アーティストは自分が投入した努力の量で作品の価値を測ってしまいがちだ。作品に付加価値を与えるため、あえて非効率的な手法を選択することさえある。だが結局のところ鑑賞者は得られた鑑賞体験の充実度でその作品の良さを判断しているため、生みの苦しみはあくまでも主観的な、作家本人にとっての作品の価値を上げているに過ぎないのである。
またコンテンポラリー・アートにおいて歴史の転換点となった革命的な絵画のほぼ全てには、今までよりも良い絵をもっと簡単に、早く、安価で、誰でも描ける様にしてしまう類いのアイデアが含まれている。我々もそれに習い、正解よりも説得力のある間違いというか、未来の技術標準になりうる反則、または錬金術的な制作手法を開発していくべきだろう。
2. ロバストネスな絵画の重要視
良い作品を制作するにあたって着目すべきポイントのもう一つが、ノイズの影響を抑えることである。制作ノイズは時間とお金をかければ何とかコントロールできるが、鑑賞ノイズ、特に人的ノイズをコントロールする事は非常に難しく、作品制作における最難関のひとつである。
そもそも現代アートは、鑑賞ノイズを徹底的に排除してきたジャンルである。ホワイトキューブによって環境ノイズを漂白し、作家本人やキュレーターの書く文章などによって人的ノイズも可能な限り補正されてきた。
結果として現代アートは、作品自体にはノイズ耐性が組み込まれず、特定の条件下でしか作品として成立しない―鑑賞ノイズに弱いまま発展してきた。そして保護され、隔離されている環境下だからこそできる過激な表現や、繊細かつギリギリのバランスで作品を成立させることに作家のセンスが問われてきた。
だが鑑賞ノイズを完全に排除する事は基本的に不可能だ。特に現在、我々は鑑賞者と展示場所を自分で限定する事ができなくなりつつあり、鑑賞ノイズに晒される機会が増えている。作品がSNS上で予期せぬ人の目に触れ、先入観によって誤解や過小評価を受けたり、地域アートにおいても、その土地の慣習と折り合いを付けつつ、アートに縁の無かった人々にも作品を観せる必要が生まれている。現代アート作品がその繊細なバランスのままギャラリーの外で展示されれば、意図せぬ解釈をされて炎上したり、既存の空間を侵略的に破壊したり、空間内で目立たぬまま埋没してしまう可能性が非常に高い。
かといって当たり障りの無い、キャッチーな、いわゆる大衆向けのつまらない作品をつくることはアーティストの沽券に関わる。ではどうすれば良いのか?
まず第一に、鑑賞ノイズの排除は無視しても良い。前述の様に、鑑賞ノイズは状況によって相対的に変化する。ある条件に最適化させると別の条件下では通用しなくなったりするため予測が難しく、工夫を凝らしてもイタチごっこになるだけである。なので、プランニングの段階から鑑賞ノイズの影響を受けにくくする事を目指すことが重要となる。つまり、誤解されても理解されなくても楽しむ事ができる作品。空間に押しつぶされない強固な視覚言語が組み込まれた作品。そういった構造を持った作品の設計が非常に効果的となる。
このように、ノイズに晒されても影響を受けにくい作品をロバストネス(頑強)な作品とここでは呼ぶ。ロバスト性をプランニングの段階で作品に組み込むことができていれば、操作不能な外的要素に翻弄されることなく、特殊な状況下でも様々な障壁をブチ抜いて鑑賞者に鑑賞体験を叩き込むことができる。
また、制作工程においても制作ノイズ(ミス・技量不足・偶然性)の悪影響を減らし、むしろ効果的に利用するロバストネスな制作手法を考案することもできるが、それは別の機会に解説することにする。
3.『効率的な失敗』でリスクを分散
いくら分析したところで机上の空論だけでは何の役にも立たない、というのが実践を重視するアーティストの意見だろう。それには私も同意する。実際に手を動かし、試してみなければ分からないことは間違いなくたくさんある。だが前述の通り、それではいくら時間とお金があっても足りないのである。
なので、私はアイデアを思い付いたらまずは実験を何度も繰り返してみることを提案する。ここでいう実験とは、エスキースや習作とも違う、失敗を前提に行う簡単な試作のことである。
なぜ作品未満の試作品をつくることが重要なのか。それは、たとえ失敗しても痛手が少ないために、突拍子もないアイデアでもとりあえず実際の効果を確かめる事ができるからだ。
思い付いたアイデアをいきなり実戦投入していると、失敗時には画材費と制作時間が無駄になってしまう。人はそれを恐れて無意識のうちに保守的になり、過激なチャレンジは控え、保守的なチャレンジやいつもの慣れたやり方を繰り返してしまう。
もしくは度胸のある者ほど本当に失敗して致命的な痛手を被ってしまう。
それでは折角思い付いたアイデアの真価も充分に確認できないし、チャレンジ精神が自分の首を締めることに繋がる。上手くいかない可能性が高いアイデアは試してみる機会すら回って来ないだろう。次のステップへ飛躍するきっかけを自分で逃し続けることになってしまうのだ。
その点、実験の目的は情報を得る事であり、成功も失敗も貴重な経験のひとつとなってくれる。実験結果を記録して積み重ねていけば、失敗が後に思いがけない形で活用される可能性もあるのだ。例えばスタイロフォームが有機溶剤で溶けてしまったという失敗の経験が、スタイロフォームを有機溶剤で溶かして造形する、という新しい技法の開発に繋がったりする。このような偶然の成果も、実験した回数が少なければ巡り会える確率は低いのである。
この様に、リスクの低い状況下で失敗を気にせず実験行為を繰り返すことを、効率良く失敗する と言う。誰もやった事のない事に挑戦すれば失敗するのが当然で、成功することの方が稀である。
実戦投入する前に実験と失敗を繰り返しておけば、効果が測定でき、事前にリスクを分散できる。上手く行くか分からない技法をいきなり120号キャンバスで試す、といった無駄なリスクを背負う必要がなくなるのだ。
アイデア発見のリスクと無駄なコストを削減できれば、継続可能な制作活動を構築する大きな助けになってくれるはずだ。
絵画のトータル・デザインへ
以上の通り、これからの画家がその創造性を発揮するべき領域はキャンバスの上だけに留まらないだろうし、留めるべきではない。投入するコストから鑑賞体験まで、作品の制作から鑑賞プロセスまで、全体をデザインする事が今後の画家の仕事になっていくことだろう。更には実際の作品制作よりも、作品制作プロセス制作にコストを掛ける時代へと突入して行くかもしれない。なぜなら個々の作品制作に費やすコストは掛け捨ての“消費”だが、制作プロセス考案に費やすコストは回収できる“投資”になるからである。
例えば、販売価格10万円の作品に実質5万円を掛けて制作したとする。その作品が10万で売れたとしても、実際の利益は半分になる。つまり5万円は制作過程で消費してしまったため、2度と帰ってこないのだ。更に販売価格の半分をギャラリーと折半するとなれば、自分の利益は相殺されて0円になってしまう。そこから更に展示に掛かった時間と労力を差し引けば、アーティストとしては赤字になってしまうだろう。
そこで、販売価格10万円の作品を2万円で制作できる手法の考案に5万円を投資したとしよう。そうすれば作品が売れる度に3万円の利益が出るため、2つ売れれば投資した5万円はすぐに回収できるし、3つ以上売れれば黒字を生み出せるようになる。
そこで生まれた金銭的・時間的な余裕は成長と効率化への更なる投資に回せるため、この相乗効果の連鎖を生み出せれば、キャリアに従ってインフレしていくハードルの高さにも対応する準備ができるだろう。
では逆に、無理をして根性で作品を制作していたらどうなるか。販売価格10万円の作品に、実質10万円のコストを掛けているとしよう。作品が売れてもギャラリーと利益を折半すると5万円の損失が出るため、売れるほどに損をするという皮肉な状況になるだろう。ならば、とせめて損失を相殺する為に、コストに合わせて販売価格を20万円に設定したとする。しかし、それでは実質10万円相当のクオリティの作品を2倍の価格で販売することになるので、売れさえしなくなる可能性が高い。そうなれば自己損失が10万円に増えるだけでなく、ギャラリー側にも損失が発生するのだ。
この様に、最初から制作コストと作品のクオリティ・利益のバランスが歪だと、たとえ作品が売れても無理が無理を呼び、最終的に行き詰まってしまうのだ。このような負の努力スパイラルに堕ちることだけは絶対に避けたいところだ。今やバイトで食っていくことも厳しくなりつつある時代である。制作が生活の大きな負担になってしまえば、愚直に清貧を貫くのにも限界がくるだろう。作家として希望を持てる将来像を描く為には、制作プロセスを正常化・高効率化していく姿勢が必要なのではないだろうか。
まとめ
以上が私の考える絵画工学の概要である。この考え方を応用すれば、他者の作品の長所や短所を単純化して把握したり、自分に合った作品制作プロセスを考案したり、新しいアイデアの発見を促したり、といったことに利用できる。
ただこの考え方の弱点は、分析ということばを多用しつつも、あまりにも良い絵の描き方に自由度が高いために統計の取りようがなく、数学的に分析することが難しいという点だろう。本当ならば、この考え方を誰もが簡単に利用できる様にするため、分析・計算ツールを作成し、共有したいところである。
以上、多々矛盾した記述もあったかも知れないが、拙文が作品制作を新たな視点で考えるきっかけになれば幸いである。
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