現代絵画とRTA:ゲームの再定義
現代絵画はよく分からない:
現代絵画、中でも抽象画やミニマルアートと呼ばれる作品をほとんどの人は理解できない。何を意味しているのか?なぜ評価されているのか??それらを想像することさえ難しい。
実際、現代絵画で探求されているテーマの多くはあまりに専門的過ぎるので、丁寧に説明しても「だから何?」と感じてしまうのがオチだろう。そんなどうでも良いことで大金を稼いでいるなんて間違っている、と怒りを覚える可能性すらある。
だがそれでも現代絵画は、一部の人間にとってこれ以上ないほどに面白いジャンルである。その魅力を全人類に納得させるのは難しいが、興味を持つきっかけぐらいは提供したいものだ。
そこで本稿では、ゲームプレイ:特にRTA(リアルタイムアタック)を参照しながら、現代絵画がどういった考え方に基づいて制作されているのかを可能な限り言語化していきたい。
そもそもRTAとは?:
一般的なゲームプレイでは、ゲーム開発者が設定したルールをみんなで守らなければ楽しめない。チーターが紛れ込んだりバグ技が発見されると、プレイヤー達の熱は一気に冷めてしまう。共通ルールが破壊され、競技性が失われるからだ。
だが近年人気を増しているRTAはむしろ、ルールの破壊と再定義によって新たな競技性を創出していくジャンルである。
RTAのは、本来なら全く競技性のない1人プレイ用のゲームで行われることが多い。RTA走者と呼ばれるプレイヤー達は、そのゲームの目的をプレイ開始からクリアまでの最短記録更新を目指すタイムアタックへと勝手に置き換えてしまうのだ。
「可能な限り早くクリアする」という新たな目的が与えられると、そのゲームにおける課題や楽しみ方も再定義される。本来のルールやストーリー、正規ルートを可能な限り無視することが最優先事項になるのだ。
それにともない、RTA走者は新しいテクニック・新しい最適ルート・新しい攻略法を次々に開発していく。
ゲームにおけるやり込み要素といえば一般的に、全てのキャラとアイテムをカンストまで強化する、ノーミスで高得点を叩き出す、世界観に浸って長時間プレイする、といったものをイメージするだろう。
しかしRTA走者にとってのやり込みとは、プログラミングやハードウェアの処理能力の領域までゲームを理解した上で、制作者の想定の範疇を超えた挙動を引き出し、それを使いこなすことにある。
なので優れたRTA走者はプレイヤースキルが高いだけでなく、並外れた発想力・分析力によって次々と新しいテクニックを考案できる者たちなのだ。
ゲームのルールがプレイヤーによって再解釈・再定義され、想像を超えたプレイングが提示されるとき、それを観ている我々の知的好奇心も刺激される。
現代絵画とRTAの類似点:
前置きが長くなってしまったが、現代絵画はRTAと発想の方向性がとても似ている。まずは以下に類似点を列挙してみよう。
現代絵画のルールとは?:
RTAと同じように、現代絵画は絵画を再定義する。伝統的な内容、技術、画材などを可能な限り無視して、最短距離で魅力的な絵画を生み出そうとする。
そもそも絵画というジャンルは、印刷技術の発展、写真の登場、デジタルツールの発展、AI画像生成ツールの登場など、チート級の革新的技術が登場する度に、何度も危うい立場に陥ってきた歴史がある。それでもなお生き残っているのは、絵画の定義と役割が常に更新され続けてきたからである。
しかし、RTAならゲームクリアの最速時間更新という分かりやすい目標があるが、現代絵画は一体何を目標としているのか?何をもって良い絵だと判断しているのか?
近代以前の絵画なら、重要な物事を視覚的に記録・表現することが主な目的だったと言えるだろう。
だが現代絵画の目的は、絵画の新しい形式の発明へと移り変わった。
そして、何を絵画とみなすのかの判断基準は一言に集約できる:
『作品をじっくり観続けてしまう状況(鑑賞)が成立するのなら、それは絵画である』
つまり、鑑賞者の関心を視覚的・心理的に捕まえ続けることができるなら、過程や方法なぞどうでもいいのだ。
意味や内容もいらない。場合によっては物質的に存在している必要すらない。逆に政治性や個人的な感情などをぎゅうぎゅうに詰め込んでも、鑑賞が成立するのならば良い絵だとみなすことができる。
参考となる現代絵画:
では最後に、いくつかの具体的な作品を列挙し、現代画家がどんな思想でどんな技術を開発しているのか解説してみよう。
ロバート・ライマン
ロバート・ライマンほどRTA的発想を持った画家は他にいないかも知れない。彼は極めて少ない手数と控えめな要素だけで作品と展示を構成してしまう。広大な展示空間を使った大規模個展ですら、小さい作品ばかりの22点だけで成立させている。
一方で彼は、多種多様な画材・技法・様式を無数に考案したことでも知られている。そのひとつ、 Untitled (1962) を紹介しよう。
小さくて薄い作品は目立たないので、展示しても気付いてもらえないことがある。だからこそドローイングなどの小作品は、額に入れて輪郭を強調した上で展示される。あるいは、最初から迫力のある大型作品を制作しようとする画家が多い。
だがこのライマン作品は48.3 x 48.3 cmしかない。しかも壁面と同じ白を基調としており、塗り残しも多い。キャンバスは木枠に張られず、壁面に直接ホッチキスで留めているだけである。
それなのになぜ、この作品は魅力的な絵画として成立しているのだろうか?
その秘訣は、色と質感の対比にある。
彼はキャンバスの輪郭を大きく塗り残しているが、それはリネン本来の有機的かつ複雑な色味と質感が、他の要素との対比によって眼を惹く要素に変わるからである。
ホチキス針に引っ張られた布のうねうねとした輪郭線は、展示壁面の幾何学的で平坦な質感の中でとても目立つ。
またリネン生地本来の色は有機的かつ複雑であると同時に、白の隣に配置されると相対的にとても暗い。つまり色彩的にも壁面との対比が効いているので、塗り残し部分は鑑賞者の視線を引き付けるフレームとしての機能を発揮してくれるのだ。
更に、厚塗された白い油絵具の艶めかしい質感と、粗いリネンのざらざらした質感が呼応し、その小さな画面の中には豊かな視覚情報が詰まっている。
この様にロバート・ライマンは、絵画として弱いはずの要素を強みへと変換してしまう、魔術的な方法論をいくつも発明している。
李禹煥:
近代から現代にかけて、絵画は様々な要素を削ぎ落としてきた。
宗教的ではなくてもいい、正確に現実を描かなくてもいい、そもそもモチーフはいらない、、、
その系譜の終着点とでもいうべき抽象画が、モノクローム・ペインティングと呼ばれる単色で塗られた巨大な絵画である。
一例として、李禹煥の《風景》1968ー2015年を挙げよう。
この絵画は、巨大なキャンバス全体にまばゆい蛍光ピンクがスプレー塗装された作品である。
だが、この絵画には見るべきものが何もないではないか?塗装業者の仕事と何が違うのか?絵画として成立していると言えるのか?
結論から言うと、この作品はずっと観ていられるほど魅力的だ。しかしその視覚効果は実物と対峙しなければ体験できないタイプのもので、画像から想像できないのも仕方ない。
人間は基本的に、視界のどこかにピントを合わせ、そこを基準に空間感覚を掴もうとする。だが、視界全体が巨大な単色の画面に覆われてしまうとどうなるか。
人間の目はどこにもピントを合わせることができず、平衡感覚を失って足元がふわつき、無重力空間に放り出されたような感覚を覚える。
つまりモノクローム・ペインティングは、鑑賞者の空間感覚をバグらせるのだ。特にこの作品はスプレーを使っているため手仕事の痕跡がほとんどなく、画面に近づいても掴み所がない。
何も観るところがないからこそ、ずっと観続けてしまう──この絵画は、日常生活ではありえない奇妙な視覚体験を与えてくれるのである。
ウェイド・ゲイトン
一部の現代画家達は、より簡単に絵画を制作できる方法を考えている。画面構成や手作業を省略するだけでなく、勝手に絵画が生成されて欲しいと思っている。
現在、その最先端を走っているのがウェイド・ゲイトンだ。彼はブラシどころかシルクスクリーンも使わずに、プリンターで絵画を制作している。
手仕事至上主義者は、複雑な味わい深さは人間の手仕事にしか出せないと主張する。だがゲイトンはプリンターにしか出せない複雑な表情によって、手仕事の味わい深さをあっさりとと代用してしまっている。例としてUntitled, 2009について説明しよう。
この作品は、単色の画像データをPCからプリンタへ飛ばし、リネンキャンバスに無理やり印刷したものだ。そのままではプリンタに収まりきらないので、ゲイトンはキャンバスを折り畳み、半分ずつ印刷している。
だがこのプリンタはそもそも布用ではない。なので画面は無数の印刷ミスで構成されている。
プリンタヘッダのピッチが微妙にズレて、元画像に存在しないストライプ模様が表れている。布が引っ掛かった際にはピッチが重なり、濃くなっているのが分かる。また、キャンバス表面のシワによって微妙な濃淡も生まれている。
水墨画は墨の濃淡を巧みに操ることで画面内に奥行き感や空気感を表現しているが、ゲイトン作品ではプリンタの様々な印刷エラーがそれに近い視覚効果を勝手に生み出しているのだ。
瞑想的、神秘的、知的な印象の抽象絵画が、一種の物理的グリッチによって半自動的に生成されてしまうこの現象は、極めてバグ技的と言えるのではないだろうか。
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