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【意訳】レフ・ケシン:絵具で何をするのか

What to do with paint

on Lev Khesin’s Art – Dr. Heinz Stahlhut, 2009

※Chat GPTの翻訳に微修正を加えた文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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「ほら、やっちゃえよ!」
「うん、でも誰か見てたらどうしよう?きっとダメだよね?」
「勇気がないなら、俺がやるよ!」

若手アーティストのレフ・ケシンによる絵画展では、実際にこんな会話が交わされていてもおかしくない。粘り気のある絵具を滑らかに塗り広げた彼の画面は、まだ湿っていて柔らかそうに見える。そこに触れたいと思わせる誘惑はとても強力だ。

表面を指先で軽く触れただけでも形が変わってしまいそうな印象を受けるが、もしアート作品を触るというタブーを侵した者がいたなら、その感触に驚くだろう。力を加えたら簡単に形が変わるほど流動的で柔らかそうな表面に見えるが、しっかりとした弾力を持っている。
レフ・ケシンは、これらの作品を油絵具ではなくシリコンで描いているが、彼が絵画には滅多に使われないこの素材を選択したのには幾つかの理由がある。

まずシリコンという選択によって、ケシンは自分自身をモダニズムの伝統の中に位置付けている。
今まで絵画や彫刻に使われてこなかった素材を使うことで現代性を提示する、という伝統に応答しているのだ。だが、こういったアプローチは既に古典的ではないか?ケシンの世代には少し時代遅れでさえあるのではないか?という疑問も浮かんでくる。

この柔らかくぬたっとした素材の使用については、後期ポップアート以降の作家から着想を得たと考えるべきだろう。
ポップアートはモチーフや素材に関する大規模な実験を行い、ハイアートの規範をことごとく破壊した最初のジャンルである。

ジェームズ・ローゼンクイストの巨大な山盛りスパゲッティや、シンディ・シャーマンによる嘔吐物の写真、ピエロ・マンツォーニによるアーティストのウンコ、あるいはポール・マッカーシーのパフォーマンスにおける排泄物(に見えるもの)のように、“良い趣味”の範疇を明らかに超えていた。

ケシンは近作において、この嫌悪感とゴミという側面をギラつく要素の導入によって意識的に利用している。2006年の“Nihilartikel”や、より明確なものでは2008年の“Ponask”といった作品が顕著な例だろう。

Ponask, 2008, 27 x 24 cm, Silicone and pigments on wood

特にこれらのケシン絵画におけるシリコンは、その柔らかい質感と曖昧な透明感によってワセリンを連想させる。それはマシュー・バーニーの映画やインスタレーションで、腐敗や崩壊を直接的に表現するために多用されている素材である。

光としての色

だがこれでも、そのシリコンの利用について充分説明できているとは言えない。振り返ると、ただ論理的に形式を探求している様にも思えるのだ。

ケシンの撮影した多種多様な写真は、フランク・バドゥールの下で基礎を学んだために色彩への本質的アプローチに長けている。その写真には、夜の濡れた道路に反射するカラフルな光がモチーフとなっているものがいくつかあり、色彩と光、暗闇と反射の相互作用へ特に関心があることが伺える。
ケシンは初期絵画作品において油絵具を使ってその現象を表現しようとしたが、満足のいく結果が得られなかったようだ。

だがシリコンを使用し、透明な物体の中に顔料を部分的に混ぜ、描きながらそれを塗り広げるといった行為によって、色と光の相互浸透を生み出せるようになった。

2006年の“Per Proc”や2008年の“Subfusc”における画面構成では様々な半透明の絵具の層が重ねられているが、その画面を正面から見ると境界をはっきりと認識できない色面が現れる。その絵画的物質に塗り付けられた絵具の量は、絵画の縁を見なければわからない。

厚い板を支持体にすることで、壁から離れた位置に浮いている絵具の縁を見なければ、その様々な絵具の層を絵画史のように読み解くことはできないのだ。さらに、光はその透明な層をすり抜けるので、下層部分が発光しているように見える。

点描主義、フォービズム、表現主義、あるいはマーク・ロスコのカラーフィールド・ペインティングといった美術の潮流において、 色と光の結合は1世紀以上にわたる絵画の目標であった。
だがそこでは通常、色彩の輝きは色の対比によって生み出されるか、絵具の物質性を意識的に抑制し、純粋な光学的現象へと押し上げることで達成されていた。
それとは対照的にケシンは、粘性のある絵具の塊にも魅了されているようで、パレットナイフやスクイージーで塗り付けるだけでなく、様々な道具を使って整形している。

このプロセスでは偶然が重要な役割を果たす。
たとえば、前述の“Ponask”や“Nihilartikel”といった作品では、パンチングされた金属板の穴を通して絵具を支持体に着地させたり、支持体に塗られた絵具にそのパンチングメタルを押し付けている。規則的に穴が空けられた道具を使っているにもかかわらず、結果として得られるかたちは部分的にしか制御できていない。

素材としての絵具

規則的かつ厳密なグリッドのかたちと、柔らかく流動的に見える絵具の不確かさの対比は、アーティストグループ ZEROの初期作品との近似性がある。特に細いグリッドが生み出すブレや、絵画制作において意識的に用いられるランダムな手法のように、3次元的な素材として絵具を扱うことで対比を明確化しているのだ。

この文脈においてレフ・ケシンは、色と絵具を厳密に区別したロバート・ライマンを自身のロールモデルに挙げている。 ライマンにとって、色という言葉は視覚的な外観を意味し、絵具という言葉は三次元的な素材を意味していた。ケシンもこの定義をそのまま取り入れている。
だがケシンの絵画では、この2つの意味が結び付けられ、超越不可能と思える矛盾が架け橋で繋がれている。つまり、色と光の非物質性と絵具の物質性が、作品において同等に重要な位置を占めているのだ。

ケシンはライマンを乗り越えて次の段階へ行っているように見える。ライマン絵画における単色の白は、ZEROの作品のように形而上的な意味合いを持たせるためではなく、むしろ絵具はその内容に対して中立的であると示すために導入されていた。
2007年の“Icasm”のようなケシン作品では、ぬぐう様に塗りつけられた絵具が袋のように垂れ下がることがあり、素材の重さが手に取るように感じられる。

これは視覚と触覚の両方に訴えかけるものであるが、少なくとも西洋では啓蒙時代以降、この2つは明確な対立関係にあると考えられてきた。
視覚は距離を置いた“純粋”で知的な知覚形式と考えられ、それが触覚などの従属的・反抗的知覚に“汚染される”と考えられてきた。この対比は具象表現と抽象表現にまつわる論争にまで続いているが、ケシン作品においてはこの対立が克服されている。

レフ・ケシンの近年の絵画ではその素材選択によって、彼の手が経験豊富であると同時に幸運を掴めると示されているのだ。

※付け加えると、ケシンは絵画だけでなく、自作した機械を使ったドローイングを繰り返し制作しているが、作家と作品の間に明確な距離が設けられている。
ここから、ケシン絵画に込められている含意は、抽象画の性質が持つ形而上的な意味よりも、彼の両親が制作していたイコン画の方に近いのではないか、とも考えられる。その言い伝えを信じるならば、イコン画もまた人間の手によって作られたイメージではないとされているのである。 (注:イコン画は画家の手を通じて神が絵を描かせる、といった解釈がなされている)

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