苦海浄土と石牟礼道子の話
(読書感想文、最後に動画あり)
石牟礼道子は、いしむれ みちこ、と読みます。水俣病(みなまたびょう)患者の代弁者と見られがちですが、このたびご縁があり、いろいろな方向で探ってみました。上と下の画像は石牟礼本人。下は患者の写真を2枚掲げています。メチル水銀中毒の悲惨さがよくわかります。
さて、私の興味を持つ分野は狭く、四大公害の一つ、水俣病の持つ禍々しいイメージと補償問題のもめ事は視界に入りませんでした。テレビで見かけても遠い世界のニュースだと思っていました。令和の今なお解決していない公害の話は、ややこしそう……その認識を変えたのは、たまたま私が熊本県の水俣病資料館に行ったから。
資料館の入館者を見下ろすカラスさん。私はほんと、こういうのが好きですね。こっち、見てるのでアップします。
そこで私は初めて石牟礼道子の文章に触れました。
「杢(もく)よい」
……杢太郎(もくたろう)という名の水俣病の孫を呼びかける声、「よい」 はその呼びかけですね。熊本弁の。
資料館内にはあちこちに患者のパネルがありました。その壁面のすみに書かれた文面……石牟礼道子が書いたもの……その水俣病患者の描写がちょっと読むだけで、様子が見える、感じる……その紹介されたほんの数行の文に私は引き寄せられた。
だから石牟礼道子は語り部と言われるのか、これは患者の人権がどうのこうのだけじゃない。ぜひ読まなきゃ! と帰宅して一番に本を購入して読みました……まだ全著作読んでない。
石牟礼道子の作品を読んで分かったこと
↓ ↓ ↓
① 石牟礼道子は水俣病専門の作家ではない。
② チッソ糾弾御用達の社会活動家でもない。
③ 純粋な作家さんでした。
すでに故人だが作家だったからエッセイも小説もある。熊本で生まれ育った人なので、ただひたすら熊本ラブな食べ物本も出されている。ひゃー、今まで全然知らなかった。公害の苦しみや嘆き、怒りを訴える人と思い込んで避けていて申し訳なかったわ……というわけで、ひよこに取り上げてみます。(※ ひよこというのは、ふじたごうらこ専用の読書エッセイ欄のことです)
https://ncode.syosetu.com/n3617ck/
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その前に水俣病のことを多分学校の授業で名前は知ってはいるけど、良く知らない読者様のためにちょっとだけ説明させてください。そのぐらい知ってるというひとは飛ばしてください。私は常識のないひよこなので書きながら勉強しています。
水俣病は、熊本県水俣市で起こりました。当時は伝染病ではないかと思われていました。工場排水中の有機水銀の一種、メチル水銀による公害だと公式に認定されたのは、昭和三十一年(西暦1956年)です。それまでは、原因不明の奇病とされていました。
最初は海辺の猫が踊る、カラスが落ちてくる現象……ですんでいた……漁師たちは水揚げ量の変化はわかっていた。でも魚の味は変わらない。普段の食生活には影響がない。毎日のように海で獲れた新鮮な魚を食べる。でもその魚はメチル水銀入りだった。今にして思えばアレがそうだったのか、ですね。
徐々に漁師の住まう村に活気がなくなる。働き盛りの大人から子どもまで奇病にかかってしまった。
その場所が水俣市だったと書くと都市部のような誤解を招きますが、正確には八代海(やつしろかい) 別名不知火(しらぬい)海の海岸に連なって住んでいた漁村です。ちょっと話が逸れますが、私は不知火という言葉だけは知っていて、語感がカッコいいと思っていました。白土三平の忍者漫画にも不知火という男がいたり、カムイ伝の章の名前で出てきます。そうか、語源は熊本発祥だったのか、実在していたのね……不知火(しらぬい)というのはある時期に灯が一列に海上にともる蜃気楼の一種です。昔は怪物がなせる技と恐れられていました。八代海は不知火が名物でもあるのです。とらえどころがないイメージで幻想的です。日本語って本当に素晴らしい。私は実際に不知火海=八代海も見て来ました。例の資料館から。
資料館のあるエコパーク水俣はそれこそ水俣病の発生現場です。村ごと全部埋め立てられたのです。資料館から周辺と海を見渡せますが、公害があったとは思えぬぐらいに美しく綺麗な場所でした。多分公害が起きたときの海と色は変わってないでしょう。さぞ巨額の税金が投入されたでしょう……。
この美しい海に吐きだされた工場排水が体に悪いとは当時は誰も思わない。魚を介して毒を食べて身体にため込んでいるとは誰も思わない。第一公害という概念や言葉すら存在していなかった時代の話です。魚業に携わり、魚をたくさん食べる人々が多く罹患しました。身体の具合が悪いので更に栄養をつけようと思って毒を含んだ魚を食べる。悪循環です。そして次世代……子供を産んだらその子も産まれながらにして水俣病になりました。それが胎児性水俣病です。
メチル水銀を垂れ流したのはチッソ株式会社です。原子の窒素と読み方は一緒でもまったく別です。令和三年現在でもなお保障問題は全解決といえず、化学部門はとうに別の関連会社になり、現在は水俣病の保証業務を専業としています。ウィキを見ればわかりますが日本人なら誰でも知っている旭化成、積水化学工業、日本ガスなどの数多くの企業の母体企業でもある。チッソというだけで公害病を連想させるので悪影響もそりゃありますが、チッソは表にはでなくても日本を代表する化学企業の母体です。令和二年現在で一番最新のニュースでは関連企業でコロナウイルス高感度検出事業にも関わっています。
水俣病の症状は主に神経症状です。簡単に書きだしています。
① 足の末端感覚が麻痺する「感覚障害」
② 視野が狭くなる「視野障害」
③ 歩行障害などの「運動失調」、
④ 口がもつれるなどの「言語障害」
⑤ 聞こえなくなる「聴力障害」
もろに神経内科に受診案件ですが当時は奇病とされて誰も原因がわからなかった。資料館では神経内科ではなく ⇒ ⇒ 「精神科」 ⇒ で撮られた写真が展示されています。
重症、劇症の場合は、患者は非常に苦しみコンクリートの壁を両手でひきむしろうとしてもがき、腕の骨までが露出したとあります。どれほどの痛みがあったのか……資料館には、その患者が壊した壁の写真も展示されています……慄然とします……。
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本作を書いた石牟礼道子(いしむれみちこ)は熊本県天草出身、十六歳の時から水俣市内の学校で代用教員をしていました。二十歳ですでに結婚しています。石牟礼という苗字の人と。
つまり結婚時の姓がそのままペンネームになっています。結婚前から同人誌を書いていたのでこの変わった名前が筆名になるだろうと大いに気に入ったとエッセイにあっておもしろかったです。お見合いだったようですが、ご主人の性格よりも苗字を選んだぽい。旧姓は吉田道子だったので、吉田姓はよくある苗字。作家的には石牟礼道子の方が確かにカッコいいですね。
十代のころにかいた文章も読みましたが、文章好きは伝わっても、すごい書き手だとまでは私は思いませんでした。希死念慮が感じられる短編がいくつかある。死ななきゃならないと……自殺を試みるも失敗して胃洗浄を受ける話もリアルでした。
それが水俣病患者のことを書き始めると筆力が一気に増大、開花した。本作一つで日本全国まで水俣病の悲劇を生々しく伝えた。
我が国の四大公害のうち水俣病の知名度が抜群であるのは、石牟礼の筆のおかげでもあろう。患者の嘆きを代弁する大変に力強い筆です。以下は、チッソの対応がどうのこうと書くと趣旨が分散してしまうので、石牟礼文学の一部に触れた私なりの感想を書いてみます。
先に書いたように私は石牟礼道子の名を知っていても、作家というよりも社会活動家だと思っていました。弱い立場の人々に寄り添い、義を重んじる語り部、巫女という人もいるのでその静かな印象にも苦手意識があった。私は、石牟礼の最大の理解者の渡辺京二氏が心配していたことずばりの未読者でした。彼は苦海浄土のあとがきにこう書いています。簡単に要約します。
……文学としての価値よりも、公害の悲惨さを告発、公害を起こした企業への怨念の書、という位置づけをされるということを懸念した……
⇒ ⇒ 実際、その通りになったわけです。本作は恨みが籠った告発文という位置づけは私を含む読み手は禍々しいイメージを持ちます。だから敬遠していました。
この渡辺氏が最初に石牟礼を見出した人です。苦海浄土を世にだしたのもこの人です。でも最初から大手の出版社から出されたわけではありません。つまり本作はすぐに有名になったわけではない。最初は熊本風土記という同人誌に掲載されただけです。部数もわずかだったでしょう。渡辺氏が主宰者です。原稿の題名も「苦海浄土」 ではなく、「海と空のあいだに」 というちょっと甘めのポエムを連想させるそれです。
私はこんなに力のある文章が最初は同人誌発だったとは思わず、びっくりしました。純文学系の同人誌ってアレですよ、少ない発行で少ない読者で、作者はただひたすら自費でがんばるというイメージです……。
掲載を連載で引き受けたものの渡辺は、経費不足で廃刊してしまう。同人誌は儲からない。ゆえに本作も連載中止。だが渡辺はこの作品は必ず世に出ると信じていた。当時の石牟礼の原作は句読点が間違ったりなどして渡辺が清書を手伝っていたそうです。だから石牟礼は処女作ですんなりと世に出たかと思っていたが、それも違う。熊本風土記よりも以前に地元の同人誌に書きモノをしていた。十代のころから書くことは好きだったようです。
何度も書く。私はその十代のころの作品も読みましたが、普通に上手、だけど天才の片鱗が……というのはなかった。それが水俣病に関わって、人の心を動かす文面を書くなんて……。
渡辺は一番最初に読むことができて幸せだったとまで書いている。同人誌が廃刊になっても本作はこのまま埋もれさせることはできない。使命感があった。伝手を頼って、大手に出版を決める。これも通常は無名作家ではありえない行程で、いかに石牟礼の筆が圧巻であったかわかろうというものです。多分渡辺氏も大手出版の編集者たちに一度だけでいいから読んでみてくれ、の一言で、すませられたのでは。
読ませて出版決定、それだけ作品に欠点が見いだされなかったということです。大きな出版社の編集部にも本作を世に出すべきだと思わせるのは本当にすごい。
渡辺はその石牟礼に頼まれて「水俣病を告発する会」 も立ち上げました。社会活動家の面も確かにある。石牟礼たちは裁判を挟まずチッソ側と直接交渉しようとしたそうです。渡辺はこれで揉めて逮捕歴があるほどです。この人は石牟礼の晩年も石牟礼に寄り添い、視力が悪くなった石牟礼のために部屋の片づけや清書など手伝っておられました。彼女の人生には必ず渡辺が出てくる。ソウルメイトを思い出します。ケンカとか、しなかったのかな……。渡辺氏 →「この句読点の使い方はダメだよ」 石牟礼⇒「えっ、また?」 とか……。冗談ですけど。
甘さを感じる題名の「空と海のあいだ」 、改め、題名から深呼吸して読ませる「苦海浄土」 の持つ筆力は文学界で注目されました。大宅壮一(おおやそういち)賞に選ばれるも、石牟礼はなんと受賞を辞退。これも逆に注目され評判を呼び、更に広く読まれた。私が持っているのは、新装版で講談社文庫のもの。今なお日本中の書店で容易に入手できる。不朽の作品です。熊本県の同人誌から出発したものが、ここまでになっています。
でも石牟礼はなぜそこまで患者に寄り添うのか。寄り添ったのか。苦海浄土を出版したとき、石牟礼の実父がお上に逆らうことになるいって大変心配したとあります。それほど水俣市内にあるチッソから恩恵を受けている人々との軋轢があったということです。それでもなおやった。ちょっとでも功名心があれば、賞を受けるはず。
私は石牟礼が人を見捨てられぬ性格だったからだと見ました。エッセイや対談集を読んでいたら、異性への強い恋愛感情や色っぽい話がほぼない。計算高いところもまるでない。伏線をあちこちに張って、読者をあっと言わせようともしてない。
そのかわりに物事の観察力と他人への同情心が卓抜している。これは成育環境が影響していると思いました。ボランティア活動をしている人は売名や何らかの信仰心以外では心の余裕がないとできない。
私が注目した話がある。代用教員のころとあったので、十六、七才か。チッソではなく窒素肥料工業だったころの話で、アメリカから工場が爆撃された時、石牟礼は水俣駅にいた。皆が我勝ちに駅にある防空壕に隠れようとする。小さな桜の木の下に行こうともする。先に入ったものが後から入ってこれないようにしていて怒号が飛び交う。入れろ、入れるなで。
爆撃中なので空にはアメリカの飛行機。生死がかかった騒ぎの中、石牟礼はどこにいたかというと、その光景を近くで立ってみていたのですね。隠れようともしてない。ただ観察していた。
その前後の時期でも駅で見かける身寄りのないおじいさんが気になり、お弁当のほかにおにぎりを持って行ってそっと置いてやるという慈善行為もしている。そういうことがさりげなくできるお嬢さんだった。
もっと幼児期にさかのぼると、母方の祖母の気がふれていた。幼い石牟礼と世話をしあう関係だった。どのぐらい気がふれていたかというと、昭和天皇の熊本巡幸時に、見苦しいから陛下が滞在している間は島へ追いやれと命令されていた……この時は石牟礼の父親が巡査に怒って、精神疾患患者の島流しは中止にさせ、そのかわりに陛下熊本滞在時は外出させないことで落ち着いたとある。石牟礼の祖母がこうなったのは、祖父の女道楽で子供を二人も産ませてからとある。そんなものを見たくもないといって盲目にもなった。おまけに石牟礼の実家のお隣は女郎部屋、今で言う売春を商売にしていたところです。五、六才のころに、トラブルで女郎が殺された犯行現場も死体が運ばれるところも肉眼で見ている。殺人犯は中学生でその弟は石牟礼と同級生だった。事件後犯人の家族は引っ越しをするが、後年、再会する。でもなにもなかった。話すことぐらいはしてもよかったかという後悔めいたエッセイも書いている。異性関係に潔癖なのはそういう生い立ちもあるかも。
石牟礼は祖母を世話していた。逆にその祖母も孫の石牟礼を世話をしていた。お互いが世話をしあっていた。となりにいた女郎たちは当時は淫売(いんばい)と軽蔑されていた。近所の人は石牟礼に優しくとも女郎を見かけると顔がゆがむ。気が触れた祖母に対しても同じようなこともあったろう。そういうのをじっと観察できる子だった。つまり心理的に健康な生育歴は持っていない。でも人情に篤い、心の優しい女性になった。
石牟礼には一人息子がいるが、その子を病院に連れて行ったときにたまたま水俣病患者を見る機会があった。ゆらゆらと歩くその姿にくぎつけになった。その瞬間から石牟礼は石牟礼にしかできぬ水俣病の語り部になったといってよい。
苦海浄土は患者や患者の嘆きをそのまま書いているわけではない。読者が客観的に感じることができるように医師の報告書も挿入している。しかし、文章は組み立てるもの。ずらずら写して書くだけでは読まれない。心も動かない。石牟礼の作った目次を見るとそれだけでもう深呼吸が出る。
……空に泥を投げるとき、
……もういっぺん人間に、
患者から得たインスピレーションでも聞いた言葉でもその取り捨て選択は石牟礼次第。石牟礼は書くことで、水俣病の悲惨さを実感させることができた。読む人全員の心を筆一本で虜にできた。まさに窯変。しかもチッソへの恨み言を書いてもどこか、からっとして暖かい。
元の生活に戻りたい、元の身体に戻りたい。当たり前の感情を書く。母に捨てられた胎児性患者の祖父は恨むなよと諭す。そして祖父が死んだらこの子はどうなるかという不安も。こういった心情をメインに書いている。しかしこれは誰が書いても同じことにはならぬ。石牟礼だからこの文体になった。
悲惨な話なのに本を閉じずに先を読めるのは筆がいいから。熊本弁を知らないのに読みやすい。読後も悲惨ねえ、かわいそうねえ、だけで終わらない。心の中に何がか残る。名作の条件を満たしている。これは石牟礼の筆だけができる神業でしょう。
本作で石牟礼は職業作家の道が開けた。次から次へ小説の注文が来る。結構書いている。地元熊本愛にあふれた文章ばかり。飾り気のない正直な書き方で好感を持った。熊本のゆるキャラのクマモンも好きそうな感じかな。そこまでは知らないけれど。
水俣病患者の人々が心を開いて吐露したことに、石牟礼の筆が加わるとかくも迫力のある筆になる。石牟礼が長生きだったらノーベル文学賞受賞もおかしくないと誰かが書いているが私もそうだと思う。でもノーベル賞あげるよと言われても「いりません」 というかもね、彼女なら。
晩年はパーキンソン病に罹患したが、石牟礼は水俣病だと思っていたらしい。それはありえないけれど、石牟礼は本当に己の心に飾り付けをすることはなく、書き続けていた。筆が持てなくなると口述筆記をしてもらっていた。生涯創作する人だった。ずっと寂しかった、死にたいと思うことも多かったと正直に書く。作家としての地位が確立しても、そんなことを書いている。
実際に石牟礼は十代でも二十代でも自殺を試みている。幼いころから精神を病んだ祖母と過ごした。石牟礼の実弟も繊細で幼子を残して列車に飛び込んで自殺した。痛ましい思いを込めた文章も書いている。
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さてさて、苦海浄土を発刊した折に、石牟礼道子は以下のことを言って笑ったそうです。
↓ ↓ ↓
「みんな私の本のことを聞き書きだと思っているのね」
この発言は重要です。私も渡辺氏の解説を読むまで患者との会話を膨らませて書いたと思っていた。水俣病患者の取材で患者からの聞き取りをして、それを文章として読ませたと。でも全然違う。患者の様子を見たり取材は行っていたが一度か二度だけだそうだ。
リアルに迫る患者の独り言や夫婦や親子の会話はすべて創作。ならばノンフィクションの大きな賞を辞退するのは石牟礼の性格ならば当然の行為だとも思える。
でも水俣病患者がいたからこそ書けたのは事実。彼らがいないと、石牟礼の苦海浄土は存在しなかった。石牟礼の力だけではないという謙虚さからきた辞退もつじつまがあう。間違ってはいない。
石牟礼は文章を書くのが好きで、熱を込めて書き上げることができた。それで出版までいけた。水俣病の悲惨さを世間に知らしめて、被害者補償の力にもなった、それでよかったと思っていたのではないか。功名心がない人でしょう。
聞き書きだとは目次にも「ゆき女きき書」 の章がある。そういう形態をした創作というのも、なんら問題はない。実態を見て書いているからだ。
資料館にもあったゆき女の有名なセリフを抜いてみる。熊本弁ですけどわかるでしょう。
⇒ ⇒ うちゃぼんのう深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。
ぼんのうとは、仏教用語の煩悩のことです。いろいろな苦しみのことを言いますね。句読点無しなのは息継ぎもなくそのまま読めってことです。その文章もまた女ざかりの患者の経過や嘆き、つぶやきを書きつつ。客観的な事象も書きつつ。話し言葉をそのまま各段落に、はめこむ。この手法を私は非常に見事だと思いました。なんで今まで読まなかったのだろう。たとえ患者の発言そのままだとしても、読者に向けたメッセージになっている。血の吐くような患者の言葉を具現している。
彼女はノンフィクション作家だと思っていたが、これが患者に触発された創作だとしたら天才です。これはもう本当に読んでみないとわからない。苦海浄土に出会えてよかったと思いました。
令和二年も終わりになろうとしていますが、補償問題はまだ解決に至っていません。第二水俣病といわれる新潟水俣病もまだ訴訟が継続されている。これは当時の化学者の責任ですよ。かれらは新聞に奇病発生の第一報で何も思わなかったのか。水銀そのものは古来から梅毒の治療などに使用はされていたが、過量服薬による水銀中毒も知らぬはずはない、が、これは誰も書かないので私が間違ってますかね……。それにしても公害は本当に恐ろしい。その悲惨さを知る筆頭作が本作であることは間違いない。化学者とその卵、次世代を担う子供たちに読み継がれるべき作品だと思います。
資料館を出て駅に向かうときに途中のチッソ関連会社の前に看板が出ていました。「水俣病」 という名称を使わないでほしいというものです。「メチル水銀症」 にしてほしいという。水俣市民の有志が立ち上げたもので水俣病が有名になったゆえに、差別と偏見があるというもの。非常に大事な問題でもあるし私がいうことではないが、石牟礼が生きていたらどうしただろうと思った。
現在コロナウイルスが蔓延し世界中が苦しんでいる。正式には「COVIDコビック-19」 になっているが、初期のころは最初の発祥地の地名を取って「武漢肺炎」 とマスコミも使っていた。けれどWHOの肝いりで、地名を感じさせぬ名になった。WHOの言い分ではウイルスは人類共通の試練で、ウイルスを特定の国と関連付けるのは、国際機関のガイドラインに反するというもの。巷では中国に気をつかっているなどと言われていたが、どうだろう。少数とはいえども水俣病が有名になって困っている人も実際にいることを考えれば、そして当時から続く水俣病と一部の水俣市民との軋轢も考えると世の中は一筋縄ではいかぬとつくづく思う。
水俣病患者の写真を撮ったことで著名になった写真家もいるが、象徴的な写真の一部は被写体の家族から公開を拒否されたという。患者の写真を撮るために日参するも、彼らは患者に決して触らなかったなど、あとからそういう事実も出ている。だけど石牟礼道子については誰もなにも言わぬ。バッシングも何もない。それだけ筆が強い。患者の嘆きがそれだけ代弁している。また石牟礼も実際にデモに参加し活動もした。当時の美智子皇后(現上皇后)にも、水俣へ来てくださいと実際にお願いをしている。それもかなった。
どういう記者でもなしえない筆で石牟礼は後世に苦海浄土を残した。水俣病保障問題をこの一冊で世の耳目をひきつけた。たった一冊で。もうそれだけで。石牟礼道子は本当に素晴らしい作家。尊敬します。
以下は私の好きな石牟礼の逸話です。
石牟礼が美智子皇后(現、上皇后)に水俣に来てもらいたいと手紙を出した。胎児性水俣病患者に会ってほしい……が、雅子妃殿下(現、皇后)の祖父はチッソの偉い人だったので変に責めたり直訴状のようになっても困る。それで一句だけ書いた。
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祈るべき 天とおもえど 天の病む
苦海浄土を読んでいれば意味がなんとなく通じるが、それを普通に送ったのがすごい。案の定、苦海浄土を読んでないらしき宮内庁職員から「天」 は陛下のことかと電話で質問が……石牟礼が著名な作家だからこその問いだが、無名が送ったら不敬罪になる。とても豪儀で私は石牟礼のそういうところが好きになった。結果、両陛下は会ってくださって、石牟礼の願いはかなった。良い話だと思っている。
動画、約5分