読書ノート 「日本仏教入門」 末木文美士
ここでは、明恵についての記述を追う。
独創的思想家、明恵
明恵上人高弁(1173-1232)は、南都系の思想家の中でも最も独創的で、豊かな実りに満ちた一人である。…愛すべき様々な逸話に富み、また、『夢記』に見られる不思議な夢の記録者であった明恵は、同時にまた華厳を中心とした独創的な思想家でもあった。その思想は時期によっては大きな変転があり、常に誠実な求道者として模索を続けたその姿勢がうかがわれる。
明恵の思想は、大まかに三つの時期に分けることができる。初期は主として紀州の隠遁期に当たる。1181(養和元)年、神護寺に入り、1188(文治4)年に具足戒を受けた明恵は、しかし、1195(建久6)年、当時の俗化した寺院に飽き足らず、故郷の紀州に隠遁する。10年に及ぶ隠遁の間、母方の湯浅氏の庇護の下に勉学と修業に励み、また、弟子の喜海を相手に『華厳経』の講義を始めた。この時期の著作『唯心勧行式』『華厳唯心義』などには『華厳経』に基づく実践方法が述べられるが、具体的にな方法は様々に変わりながら、その姿勢は一生の間、一貫している。
また、この時期の『随意別願文』には熱烈な釈迦仏への思慕の念が表明され、これも明恵の一生を貫く信仰となる。釈迦を「慈父」と呼ぶ明恵は、末法の時代に辺地の日本に生まれたことを歎き悲しみ、せめて来世で釈迦仏にお目にかかりたいとの切実な思いを綿々と記している。なんとか釈迦の遺跡に触れたいという思いは、二度に渡る天竺渡航という破天荒な計画にまで至るのである。
1206(建永元)年、明恵は後鳥羽院から栂尾の地を賜り、隠遁生活を離れ、社会的な活動が活発化する。この時期を中期とする。
1212(建暦2)年、念仏の教えを説いて一世を風靡した法然が亡くなった。生前、法然に対して尊敬の念を抱いていた明恵は、しかし、法然の死後に出版されたその主著『選択本願念仏集』(『選択集』)を読んで、烈火の如く憤った。そこには噂に聞いていた高い人格者、法然と異なり、仏教の常識に挑戦し、極めて極端な説が展開されていたからである。翌年、『選択集』を論破するために、明恵は『摧邪輪』を一気に書き上げる。それがこの時期の明恵の主著ともされるものである。それは、本書が単に法然に対する批判書というだけでなく、そこに明恵自身の仏教観を見ることができるからである。本書においては、次項に少し詳しくみることにしよう。
ここで指摘しておきたいのは、明恵が本書に先立って、『金獅子章光顕鈔』や、更にそれ以前の初期の『唯心勧行式』で、華厳宗の中での異議に対してきわめて厳しい批判をなしていることである。それらは主として我々が迷いの世界にいることを忘れ、修行をしなくても簡単に悟れるという安易な理解に向けられたものであった。このような動向は本覚思想と呼ばれ、当時、諸宗を問わず流行したものであったが、明恵はそれに対して、きわめて毅然たる態度を取って修行の必要性を強調したのである。法然批判、特に菩薩心否定に対する厳しい批判は、このような明恵の批判精神の文脈において読まれなければならない。
明恵はこうして厳しく法然を批判したが、その念仏の容易な実践法が広く社会に受け入れられたことは、認めなければならなかった。それに対して、華厳の教えは教えとしては深遠でも、誰でもわかることではなく、その実践も容易ではない。法然の教えに触れた明恵は、容易にできて、しかも仏道の根幹に触れることのできる実践法の開拓を自らに課した。その一つが『三時三宝礼』である。それは、中央に仏法僧の三宝の名を記し、その周囲に菩薩心の四種の形態を記したものを掲げ、一日三回これを礼拝し、それによって菩薩心を強め、三宝の世界に帰入してゆくことを図ったものである。
こうした実践法の工夫はその後も続けられるが、1220(承久2)年に仏法観を生み出し、これが明恵の代表的な実践法とされる。そこで、これ以後を第3期とする。仏法観というのは、作法通りに座禅を組み、蓮華の上に座った毘盧遮那如来を観じ、更にその足下から100億の光明が現じて世界の一切を照らし出すのを観ずるのである。明恵はこの方法を李通玄(635-730、異説あり)の『華厳経』の注釈書を通じて学んでいる。李通玄は唐代の在家の華厳学者であるが、独自の実践性の強い解釈を推し進め、華厳宗の系譜の中でも異端的なところに位置しいる。明恵は李通玄の他にも、新羅の元暁や義湘など、正統を外れた華厳の思想家たちに共鳴を覚えており、正統意識に曇らされない自由な発想がうかがわれる。
明恵は建久2年、自ら仏法観を修して瑞相を得てから、その実践に打ち込む。だが、なぜ明恵が最後に到達したものが仏法観だったのか。思うに、明恵のこれまでのさまざまな実践は、初期の華厳唯心観にしても、中期の三時三宝礼にしても、いささか抽象的なきらいを免れなかった。他方で初期の『随意別願文』以来の熱烈な仏への信仰を有する明恵としては、その心情と実践の間にいささかの隔たりを感じていたのではなかったか。仏法観は仏の発する光を観ずることにより、その光にすっぽりと包みこまれてしまうというもので、仏の世界に没入するものである。このような形で、「華厳経』に基づきながら、しかも若い頃からの仏への一途な思いをも満足させる実践として到達したのが仏法観であったように思われる。明恵はこのような仏法観の行法と理論を『華厳修禅観照入解脱門義』『華厳仏光三昧観秘宝蔵』などに詳しく記している。
ところで、仏法観を修しながら、明恵がその補助として採用したのが光明真言である。光明真言というのは、「オン アボギャ ベイロシャノウ マガボダラ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱える真言(呪)であるが、光明のように真理を照らし出すところから光明真言と呼ばれる。明恵は仏法観における光明信仰からこの真言へと思い至ったものと思われる。しかもこの真言は難しい理論や実践に程遠い一般の人達にも近づきやすいところから、晩年の明恵は光明真言の普及に力を尽くすことになった。光明真言はまた、それを唱えることによって清められた土砂を遺体や墓にかけると、死者がたやすく往生できると信じられており、その面からも広く普及することになった。のちに西大寺を復興した叡尊は明恵の光明真言の実践を受け継ぎ、その流れは今日に至るまで綿々として続いている。
以上のように、明恵は一生の間、さまざまな理論と実践に取り組み続けた。それを一貫性がないとして批判する向きもあるが、既存の理論や実践に安住できないからこそ、様々な模索がなされ続けたのであり、その真摯で一途な求道の態度は終始一貫しているといわねばならない。
なるほど。いい勉強になりました。
仏教史的な概説なので、明恵の『夢記』については触れられていないが、実践を行う上で、夢の機能を検討していくことが、我々のような衆人には必要であろう。だからこそ、京都の哲学者たちは河合隼雄に対して、「明恵をやらなあかんでえ~」と言い続けたのであろう。
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