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読書ノート 「あいまいの知」 河合隼雄・中沢新一


2003年刊行の古めの本だが、ぜんぜん、今でも読む価値はある。「あいまいさ」を忌避する時代は、危険であると思うし、今はそういった雰囲気が徐々に強くなってはいないかと感じる。しかし「あいまい」がなければものごとは動かないし、そもそも「あいまい」でないものなど、この世には存在しない。皆、「すべてはあいまいなのだ」という現実に目を背け、曲解し、切り取り、我田引水することに拘泥している。時代に逆行する思想をきっちり見ていこう。

 

中沢新一「マトリックスについて」鈴木大拙の中心思想である「四種法界」(中沢表現)

①法界(ダルマダーツ)というものを考える。仏典ではこれは弥勒や観音のような菩薩や大日如来(ビルシャナ仏)などの住んでいる楼閣のことをしめしている場合もありますが、実際にはもっと深い意味がこめられていて、人間の思考能力を絶した究極的な真理だけでできた場所のことをあらわしています。とても美しい場所だと、描かれています。真理と美はひとつだ、と言うのです。

②法界は私たちのよく知っている現実世界(世間界)とは、異なるものである。なぜなら世間界はたくさんの個体の集まりとしてできていて、そこには真実の全体性の認識が欠けているのに、法界にある個体はつねに全体との調和ある全体性のもとに、存在しているからです。しかし、その法界はそのまま世間界であるとも言えます。なぜなら、法界のまっただなかにありながら、世間界の知性に限界づけられた眼には、そこが世間界であるとしか見えないからです。先程の言い方をすれば、法界という超準的世界Non Standard Worldは標準的世界Standard Worldを包摂し、それを生起させる原理となっているのに、標準的世界の知性には、そのことが認識できない、ということになるでしょう。法界はここから見ると、ヴァーチャルな超時空であると、理解することができるでしょう。

③法界は世間界にいる人間が想像でつくりだした観念の産物ではなく、抽象的な空虚でもなく、生き生きとした具体的な個物が充満しているところである。無数の世界が法界から生起してきますが(私たちのすむ世間界も、その多世界のうちのひとつにほかなりません)、そうして生起してくるどの世界も具体性の輝きをもって、法界を荘厳するようにあらわれでてくるのです。その考えからすると、庭に咲く小さなスミレの花はそのままで、法界を荘厳しつつ、この世界に生起した真理だということになります。

④法界のなかでは、多数の個体の間には、完全な秩序が存在している。世間界を構成している多数の個体の間には、このような秩序は存在していないように見受けられます。
 意志を持った個体は、我欲によって勝手に行為する傾向がありますので、とりわけ経済活動のような我欲中心の世界には、美しい予定調和など見いだしようがありません。道徳や法律で我欲を律することによって、相対的な秩序を世間界につくりだすことは可能です。しかし、そのためには我欲を押さえるための強力が必要とされるので、圧迫や罰が発生します。個体が自由な意志にしたがって、そのまま全体の秩序が維持できているのは、法界をおいてほかにない、というのが華厳の考えです。

⑤そこに実現されている秩序を、華厳経はつぎのように表現する。すべてのものがバラバラになってしまうことなく、相互に溶け合っているのだが、それでいてひとつひとつのものはけっして個性を失うことがない、というやり方で荘厳されている。清らかな心で法界に立つものの像が、そこにあるひとつひとつのモノに映っている。しかもいくつかの特別な場所に映っているだけではなく、法界楼閣の全体にわたって、至る所でそうなっている。さまざまな像は、そのやり方で完全に相互映発している。

⑥このように、法界ではすべての個体が、おたがいに溶け合っているとも言えるのですが、しかもそれで個体性が失われるということはまったくおこりません。このことを世間界でおこなわれている数学とのアナロジーでとらえてみますと、個体としての量の間に加法(加えて和にする)や積分をおこなっているひとつの量に「溶かし込んでしまう」計算が、法界には不可能にできていて、あくまでも総体の変化として、相互映発の影響はあらわれる、と考えることができます。つまり、多数の個体は「マトリックス」状に関係しあうような形で、「融合」しあっていることになります。

⑦一つの個物にほかのすべての個物が映っている、というだけでなく、他のすべての小物のなかに、一個物に映った像が映し込まれている。法界という「マトリックス」では、世間界の数学でいう「マトリックス」と違って、個々の要素はほかの要素全体からの変化を受け取りながら、たえまなく全体をダイナミックに変化させていくのです。たとえば、ハイデルベルグ描像で表現された運動量をあらわす演算子の各要素は、自分の対角線上にいる要素と共役関係で結ばれながら、時間とともに変化していきますが、「華厳的マトリックス」では、そのような映発的な関係が、無限個の要素でできた「マトリックス」の全域でみたされながら、全体調和的に変化していくと言われているわけです。

⑧これらの要素をそなえているために、法界は無礙である、と言われる。つまり、法界では、ありとあらゆる個体が、個体性につきものの分割性と相互抵抗性をもっているのもかかわらず、まったくの相入・相即の状態にあります。ここから華厳経のもっとも独創的な考え方である「事事無礙」の思想が、あらわれてくることになります。

 ピート・ハットが言うまでもなく、数学も物理学も完全に証明されうるものではなく、そこには立証不可能な事実が厳然としてある。つまりはすべてはあいまいなのだ。現実世界と記述の中間にあるもの、時間と空間の混じり合うところにできる中間的な領域「どこか別のところ」(アインシュタインの相対性理論によって発見された)、意識と無意識の間に存在する阿頼耶識、それらがなければ世界は成立しない。それをピート・ハットは「現実世界・テリトリー・地図」で説明する。

 そしてこう言う。「対象にどのように焦点を合わせるか、対象をどの角度から見るか、現実世界の一部をいかにして異なる対象に分解するかという、われわれの選択に本来そなわっている曖昧さこそは、いかなる状況の下でも、われわれを自由にしてくれるものなのだ。いったん同一視を行ってしまえば、自分の行った選択を現実世界のものに逆に投影し、地図とテリトリーとの関係という面からだけものごとを見たいという誘惑は大きくなる。しかし焦点をずらして、テリトリーと現実世界という、それとは別の区別に眼を向けるとき、われわれは当初もっていた自由を、テリトリーを超越した自由を、ふたたび手に入れることができるのである」

 「視野を広くもて」「俯瞰してみろ」という言葉の中には、あいまいを受け入れろ、という意味も含まれる。それがないと、人間は自由な活動領域を持てないのだ。そのあいまいを、どこまで意識的に保持確保、現前化できるか。ほおっておくと、そのままエントロピーの法則のごとく固定化定式化しかねない精神。それをどう活性化するのか。そこには「運動」が解決の糸口になるのだろう。老年痴呆が進まぬよう、運動しよう。

金言
「(エリクソンは)アイデンティティというのは、一生かかって形づくられる無意識の過程であるという言い方をはっきりしている。だから「私のアイデンティティが確立した」という完了形でものをいうことは不可能なんですね。ずっとプロセスなんですから」(河合隼雄)



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sakazuki
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