読書ノート 阿川弘之 海軍提督三部作
阿川弘之 海軍提督三部作
「山本五十六」
「米内光政」
「井上成美」
戦争について語る。現在の日本において、戦争を語るにはどうすればいいのか。もしくは、私が戦争を語るには、どうすればいいのか。
第二次世界大戦の時代を生きた父(空襲を経験したものの、徴兵寸前で終戦を迎えたため、実際の戦場には赴いていない)から戦争の話を聞いた経験もなく、
「戦争を知らない子供たち」の歌の更にその後の世代、冷戦が終了し、民族紛争が世界の主たる争いとなる20世紀後半を生き、
更には衆愚政治の象徴としての米国の保護主義、ブレグジットと、共産党一党独裁のデータ管理主義を邁進する中国、欧州ポピュリズムとロシアによるウクライナ侵攻が、「戦前」の空気を醸成し出している2023年に、
新型コロナウイルスが生んだコミュニケーションの変化がもたらす経済構造の劇的変化(これは保護主義を後押しする)が起こる、格差の増大と共に弱者へのまなざしが弱まる、そんな時代のなかで、なにを思えばいいのか。
三つの視点から語る。
一つ目は、子供時代の戦争に対する感覚。
二つ目は海軍反省会の著作やメディアに関する考察、
そして三つ目はこの阿川弘之の三部作についての考察から、戦争、特に先の世界大戦から導き出された日本や私達の課題を整理し、自分のスタンスを明確化できればいいと考える。
憲法問題、安全保障問題、組織に内在する負の要素、その警鐘と対策、併せて人間のかたまり(集団・地域・国・国際社会)に対してどのような方向性を持っていくべきかを考えてみる。
小学生の頃の不安は、核戦争が起こることへの不安であった。
広島の原爆資料館に、あまり遠出しない家族が自家用車に乗って広島まで行き、原爆資料館のみを見学して帰ってくる、今から思えば不自然な旅行をした。
多分に父親の意志が大きいのだろうが、その経験は、第二次世界大戦=広島・長崎の原爆による大量殺人(終戦ではなく、人が無差別に沢山殺されたこと)となって小学生の脳みそに埋め込まれた。
折しも漫画「サイボーグ009」を愛読し、「死の商人(武器商人)」を悪の根源としながら、それは人間の性でもある、ということを認識しだした年頃でもある。
原爆資料館の体験は、私にひとつのイメージを湧き上がらせた。それは、一瞬にして世界が滅ぶイメージである。
ボタン一つで世界が滅ぶ、その恐怖におののきながら、世の中に、将来に対する不安を持つ。これは同世代が少なからず持つ世界観となったと感じる。
ただ、恐れているだけで、そして単純に、冷戦が終わり、核兵器がなくなればいいと思っていたのであった。単純に、である。
いろいろなことが私の中を過ぎ去り、だんだんそのようなことも自分の前景には置かれないようになっていった。
当時も、そればかりに囚われては日々の生活が出来ないのではと言った気持ちを記していた記憶がある。
就職し、結婚し、転勤し、父が死に、そのような曖昧な不安に付き合う時間もないまま、生命活動を継続していた。
実家にいる兄から、時々に送られてくるテレビ録画(CDに焼かれていたり、メモリースティックに入れられたりして、それは私の手元に届けられた)の中に、NHKスペシャル「海軍反省会」についての番組があった。
戦後、海軍の中枢部にいた将校たちが、自分達の行いの振り返り、「反省会」と称した会合を行っていた、その記録をまとめたものである。
将校たちは、自分たちの反省を行いながら、その反省はおおくは、「負けてしまったことに対する反省」であり、その反省は勝っていれば出てこない部類の反省が多かった。中には当時の軍令部の所業を凶弾する発言をする者もいるのだが、全体的な空気は、「皆、大変でしたなあ(自分たちが)」であって、そこから波及した、国民への謝罪や良心の呵責を吐露するようなことは少ない。
NHKの番組の作り手としてその部分への厳しい目線があり、更にはそれは現代の組織の中にも内在されており、全体の空気に飲まれたり、上司や同僚に忖度することで大きな間違いを見過ごしかねない危険な要素があらかじめ組み込まれていることに対する警鐘を鳴らしていた。このあたりの考察は更に別の機会にすべきかもしれない。私が戦争を考える、ひとつの大きな契機になった。
その後に、阿川弘之「井上成美」を読んだ。次に、「米内光政」、最後に「山本五十六」を読んだ。ここではまず、私より戦争を知らない、興味がない読者に対して、彼らが何者か、何をなしたか、についてまとめてみる。
井上 成美(いのうえ しげよし/せいび、1889年〈明治22年〉12月9日 - 1975年〈昭和50年〉12月15日)
階級は海軍大将。日本海軍で最後に大将に昇進した。帝国海軍きっての知性と言われ、終始無謀な対米戦争に否定的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論を退け、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供達に英語を教えながら清貧の生活を貫いた。
米内 光政(よない みつまさ、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)
最終階級は海軍大将。位階は従二位。連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。海軍兵学校での席次は中以下、無口で鈍重と言われた。敗戦時の工作を海軍大臣として主導し、戦争を終結、日本海軍を葬り去った。「国に事がなければ、或いは全く余人の目につかないままで終わる人であったかもしれない」(小泉信三)
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)
最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。戦争に反対しながら、自ら対米戦争の火蓋を切らねばならなかった。史上最大の作戦であるミッドウエー開戦時の連合艦隊司令長官。最後は前線視察の際、ブーゲンビル島上空の襲撃を受け壮絶な最後を遂げる。
現在の知名度で言えば、連合艦隊司令長官で、戦死した山本五十六がいちばん有名である。海軍大臣、内閣総理大臣の職についた米内も歴史の表ページに残ることとなるが、井上は最後の海軍大将という記述のみ、教科書などには記されるだろう。
この3人は、当時の戦局を冷静に見つめ、日本に勝算がないことを認識し、組織を動かしていた。米内は井上とともに、既に終戦一年前より戦争終結に向けて動き、井上は米内を支えつつ、「最終的には国民の命を優先する、そのためには国体も維持しなくてもよい」という持論を曲げなかった。
なってしまった戦争の終わり方として、一億総玉砕を本気で考える陸軍と最後までしのぎを削る役割は米内だが、それを支えたのは井上であった。
井上は偏屈でつまらない人物、米内は朴訥で凡夫、山本は好色で、人たらし、といった印象だが、彼らが曲げなかったのは、国を思うとき、そのイメージは天皇ではなく、一般の庶民の姿であった。抽象的な国体(天皇)ではなく、村の風景、農村、漁村、街の営みをいかに守るかということであり、そのためには自分自身などいっこうに構わない、という利他の精神であった、と思う。
当時の海軍には、日本の秀才が集まり、その中での秀でた才能を持つエリート集団の中、集団論理を維持しながら、なおかつその論理に縛られない「複眼の士」であったとも言えるのではないか。そういった意味でも彼らは極めて東洋的・日本人的であったということができる。西洋の知識と経験を得て、そこから有り得べき日本を見極め、くにのあり方を模索したのだが、時既に遅し。時局は最悪の方へ舵を切ってしまっていたのだ。
日本を今の状態にしてくれた功績として、米内・井上は素晴らしい仕事をした。坂本龍馬同様に、旧態の仕組みや組織の中からい出て、意志をもってあたらしい国を作る基礎となったと言える。司馬遼太郎が言う「異胎」化した日本をもとに戻すための、隅鬼のような役割を果たしたと言えるだろう。
井上とともに終戦工作を実行的に取り組んだ人物に、高木惣吉・海軍将校がいる。高木は、旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ、働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たし、海軍大学校を首席で卒業する。健康に恵まれず、海上勤務は少なかったが、軍政方面で活躍。海軍部外に幅広い人脈を有し、ブレーントラストを組織した。米内光政、井上成美の密命により終戦工作に従事。各方面と連携をとりながらの終戦への基盤づくりを行った功績は大きいとされる。
軍令部の中で、戦争遂行を叫ぶグループももちろんあった。黒島少将や中澤中将は、決して特攻を良しとは思っていなかったが、「時の空気」やそれ以外の選択肢を発見できない中、自分を正当化し、人間のあるべき姿を蚊帳の外に出してしまった。戦後その反省や怨念に苦しむことになるのだが、それはまた別の話。
海軍の罪や誤謬について、これらの著作や資料で理解が進んだのだが、ここから先の問いとして、では何故日本の陸軍はあのような、ナチスに近い残酷性と非人間性を身に付けていったのだろう。私の中にそれが謎として残っている。
知的エリートとしての海軍と、農村の第二子、三子の行き場所としての陸軍、庶民の暮らしにも一層の共感を持っていたはずの陸軍のパーソナリティが、どこから間違っていったのだろう。それは一種の精神革命であったのだろうか。階級闘争であったのだろうか。天皇を一神教の本尊としながらも、天皇を超えていこうという思惑があったのだろうか。日本人の勤勉・真面目・儒教精神から逸脱していく、陸軍の病理の異質さ。
この「異胎」の病理を暴くことが我々にもとめられる宿題ではなかろうか。
陸軍における病理を第三項排除と中空構造理論から明らかにすることができないだろうか。そうすれば、日本の精神的なセーフティーネットは強化され、更に安全な「くに」として、世界中に影響を与えることができるとも夢想する。
陸軍悪玉論というものがある。国際社会における孤立、太平洋戦争開戦と敗戦についての責任はすべて陸軍にあるというものだそうである。現在ではこれは見直しがされ、海軍もそれ相応の責任があるというのが妥当な見解であろう。
先程も触れたが、海軍は知的エリートの少数のグループ、陸軍は学歴格差が少なく、またその構成数も多く、庶民に近かった(第二次世界大戦期における、陸軍構成総数は約143万人、海軍は約43万人)。
敗戦後生き残った海軍関係者には阿川弘之のような富裕層出身、東京帝国大学卒業、海軍兵科予備学生第2期といった言論者が海軍擁護の著書をなし、阿川は徹底的な陸軍嫌悪・海軍賛美を著書や発言で繰り返している。
以下はウイキペディアの「陸軍悪玉論」よりの抜粋である。
「…阿川は著書『米内光政』にて、米内(海軍大臣)および政府が妨害・阻止した、(陸軍参謀本部のトップが主導し日中戦争停戦を意図した和平工作である)トラウトマン和平工作について意図的に一切触れず、また「陸軍という武家にかつがれた近衛首相は、一月十六日、有名な『国民政府を相手とせず』の声明を発表した」
と綴り(陸軍全体が和平派ではなかったとはいえ)陸軍に責任を擦り付けるかたちで事実を歪曲し、陸軍悪玉・海軍善玉へと読者を誘導している。なお史実の米内は、和平交渉継続を強く主張し第一次近衛声明の発表を断固阻止しようと食い下がる陸軍参謀本部次長多田駿中将に対し、軍部大臣現役武官制復活当時の大本営政府連絡会議の場において「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝し、和平工作を頓挫に追い込んだ中心人物であった。
また阿川が和平派として賛美している井上成美には、支那方面艦隊参謀長当時に中国・重慶への市街地無差別爆撃を強く提唱していた負の面も存在している。重慶爆撃自体は当初は中国軍の最高統帥機関および政府の最高政治機関といった戦略施設を爆撃対象としていたが、井上らはその対象を拡大した大規模無差別爆撃(百一号作戦)を起案・提唱し繰り返し実施させている。この重慶無差別爆撃はドイツによるゲルニカ爆撃と並び「枢軸国(日本)が先に行った無差別爆撃」として、のちの太平洋戦争末期のアメリカによる日本無差別爆撃(日本本土空襲や日本への原子爆弾投下など)と相殺され、連合国軍の爆撃を正当化させることとなる。」
海軍と陸軍の罪や誤謬は特徴が異なる。海軍の誤謬は官僚の誤謬に近い。陸軍はどうか。これらを両方とも、客観的に平等に同量に、解き明かすことが肝要であろう。
話は終わらない。個人的にも、公的な世界においても。戦争という非動物的な行い、集団による暴力の塊については、人間はこれからも考え、悩み、取り組んでいくだろう。徒労に終わろうが終わるまいが。
と考えると、現代のポピュリズム、IOTを駆使する大衆迎合主義にも一定の評価を付け加えることができるか。数値化できる大衆の世論として、マスメディアの評価基準はなにか。視聴率、閲覧数、検索数?共感のインフレーションが生むものは神か悪魔か。
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