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刻まれた父の名前 祭りとともに、僕は大きくなった

同級生の声はため息交じりだった。

「曳やままつりが中止になったのは、戦争中と今のコロナ禍くらいかな。600年以上続けてきたのが、“コロナさん”で止まりました」

嘆き声の主は水谷光佑こうすけさん。僕の中学の同級生だ。
幼い頃から、祭りの舞台を踏んできた。22歳になった今も、地元で祭りを支え続けている。

祭りへの想いを問われると、水谷さんはせきを切ったように語り出した。

「俺、思ったことがあるんやけどさ…」

その言葉の続きを聴いて、胸が熱くなった。

2年連続の祭り中止。
祭りとは何か。伝統とは何か。

今、脈々と受け継がれてきたものの意義が問い直されている。
だからこそ僕は、水谷さんの声に耳を澄ます意味があると思う。


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岐阜県不破郡垂井町ふわぐんたるいちょう
2万5000人ほどが暮らし、自然豊かな風景が広がる田舎町だ。

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中山道の宿場町としても栄えたこの地には、600年以上続く祭りがある。

垂井曳やままつり。

5月のGWに開かれ、絢爛なやまと迫力のある子ども歌舞伎が披露される。南北朝時代の文和2年(1353年)が起源とされ、今まで続いてきた歴史がある。

男性の力強い「おいさ」のかけ声。朝から晩まで渦巻く熱気。
垂井に暮らす人にとって、祭りは初夏の風物詩でもある。

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水谷さんは生まれてからずっと、この町で過ごしてきた。


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水谷さんは小学4年生の頃、初めて子ども歌舞伎に出演した。

芸児げいじ」と呼ばれる役者は、4月上旬に渡される録音テープをもとに、台詞を覚え始める。本番の数週間前からは、学校を公欠して稽古に励む。

水谷さんにとって、実は“1年越し”の初舞台だった。

「小学3年生のときに初めて応募したんやけど、そのときは抽選で漏れてさ。5人募集のところを、6人応募して。たまたまハズレくじを引いて、落選しちゃった」

前年はまさかの抽選漏れ。
だからこそ、初めての晴れ舞台には、母・智子さんと親子で力が入った。

「朝から夜の20時くらいまで1日中ずっと稽古してたね。お母さんに『まだ全然できていない』って、当日の朝まで怒られとった。泣きながらやってたな」

今となっては、清々しく懐かしむことができる。
泣いていた思い出を、笑いながら振り返っていた。


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中学へ進んで以降は、剣道部の活動と重なり、祭りと距離を置いていた。それでも、想いが絶えることはなかった。

「ほんとは祭りに関わりたかった。遠征に行きたくないな、と思ってたくらい」

高校を卒業すると、青年神事係(青年)としてふたたび祭りに関わるようになった。

青年は18~29歳の男性で構成される。年齢を重ねるにつれ「芸児係」「見返し」「舞台」と役職があがり、やがて「総代」を任されるようになる(30歳以上は「協力会」「祭典委員」など、さらに位があがる)。

芸児係:芸児とよばれる小学生に付き添って世話をする
見返し:軕の上から声を出し、曳き手に指示を与えたり、扇子や提灯を振ったりする
舞台:拍子木を叩いたり、歌舞伎のときに音を出したりする

水谷さんは青年1年目に芸児係を担当した。

曳やままつりは、女人禁制という決まりがある。祭り期間中、女性は芸児に触れることが許されない。母親も例外ではなく、息子が歌舞伎に出演する場合も、直接面倒を見ることはできない。

その代わりに世話をするのが芸児係だ。1か月前から、スムーズに動けるよう準備する。祭り当日は、母親との橋渡し役も担う。

「お母さんから『あの子、寒そうにしていないですか?』とか、『毛布渡しておいてください』とか、『ちゃんと水分とってますか?』って言われて、それで水分をとらせに行ったりして」

初夏の日照りを浴び、白粉おしろいを塗った芸児は顔がかゆくなる。それを察し、気を配ることも、芸児係には求められる。

「かいてあげたくなるけど、そういうときは爪楊枝つまようじでちゅんちゅんってやるんだよ」

化粧が崩れないように、爪楊枝を手にして歩み寄る。暑さに耐え、そっと子どもをあやす。

祭りを支えてきた水谷さんの表情が、どこか得意げに見えた。

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青年2年目は見返しを任された。

垂井地区は「東町」「中町」「西町」に分かれ、それぞれの町ごとに軕を保有する。水谷さんが住む東町の軕は「鳳凰山ほうおうざん」と呼ばれる。

見返しは鳳凰山の上に乗り、大きな声で先導しなければならない。

「めちゃめちゃ怖いよ。足汗をかくし、滑るんだよね」

少しずつ、水谷さんの語調が早まっていく。

「厳密に歌舞伎をする場所が決められてて。軕の前後移動も、ピッタリ止めないと芸が始まらないんだよ。上に乗っていると、ガタガタするんや。それで扇子や提灯を振ったりする」

屋根に寝そべり、声を出す役である「鬼」も務めた。「あぁよいさ!」「やまかっせ!」という声を威勢よく響かせた。

祭りの日は朝から晩までお酒を飲む。地元で顔が知れた者同士が集まれば、荒々しい声も飛び交う。

「協力会の人たちも地元で知っとる人ばっかで、俺らは息子みたいなものやから。俺の声が出てないと、『おい、もっと声出せ』って野次られてさ」

大人たちの荒々しさは、愛情の裏返しであることを知っている。だからこそ、若者も必死に応える。そういう輪のなかで揉まれることで、祭りへの愛着は生まれてゆく。

水谷さんは軕の上を「怖い」と言いつつ、「楽しかったよ」と振り返った。

楽しかった。
その素直な実感にこそ、祭りに魅せられる理由が詰まっている気がした。

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青年1年目に芸児係を、2年目に見返しを。
着実に経験を積み、いよいよ3年目を迎えるー。そのはずだった。

コロナウイルスが蔓延し始めた2020年。
垂井曳やままつりは、戦後初めて中止となった。

「納得いかんよね。マジか、って感じ」

そして、事態は収束しないまま1年が過ぎた。

2021年。 
非情にも、2年連続中止の決定が伝えられた。

水谷さんは肩を落とした。青年として支えるはずだった祭りが、2年続けて消えてしまった。

「お母さんは『オリンピックはやるのに、なんでうちの祭りは出来んのや』って。お父さんとも『連続でなくなるのはたまらんな』って」

ぶつけようのない怒り。納得のいかない感情。
無力感ばかりが、募り積もった。


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2年連続の中止を避けるべく、策は練っていた。

「開催を1日だけにして、芸を3回とか、5回に短縮するという方法もあったよ」

コロナ禍では、これまでの慣例は通用しない。そのことも分かっていた。

「ルール通りにやるのが一番良いんだけど、俺らも妥協せんと。今まで通りにやらせろっていうのも、無理な話やもんで」

妥協策を考え、目指していた2年ぶりの開催。それでも叶わなかった。

「俺らがどんだけやりたいって言っても、万が一のときは、年配の人たちが責任とらなあかんから。それはしょうがないんだけど。そういう選択をしたのは、時代がしょうがない。うん……。難しい判断やったと思うよ」

コロナ禍では、何をやるにしても感染対策がついて回るようになった。ただ、祭りにはそれにも限界がある。

「芸児は白粉を塗っているのに、マスクなんか出来ないよ。透明のフェイスシールドをつけたとしても、台無しになってしまう」

化粧を纏った子ども歌舞伎や、大声で曳く大きな軕。
マスクやフェイスシールドをしてしまっては、祭りそのものが成り立たなくなる。

「やっとれん……。ほんとに早くコロナが収まってほしいんやけどね」

水谷さんは、切実そうに呟いた。
祭りはこれからどうなってしまうのか。

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時に「たった2年でなぜ伝統が途切れるのか」という声を耳にすることがある。

確かに中止になったとしても、祭りを知る人がいなくなるわけではない。伝える手段さえ失われなければ、祭りは継承されるのかもしれない。

だが、垂井曳やままつりには独自の慣習がある。

「この祭りは年功序列でどんどん位があがってしまう。それに、青年は30歳までって決まってるから。そうすると、俺みたいにある役職を経験しないまま、総代になる人が出てくるかもしれん」

決められた役職を経験しない世代が生まれること。それは何を意味するのか。

「『こうやってやるんだよ』って流れを分かっとるやつが1人でもおればいいんやけど、みんな分からなくなっちゃうからね」

人に言葉で教わるだけではわからないことを、経験は補うことができる。
空白の2年は、そうした貴重な機会が失われたことを意味するのだ。

それは青年に限ったことではない。
水谷さんは、10歳ほど年下の子どもたちを想う。

「歌舞伎は小学生までしかやれないからね。今の小学5・6年生の子たちは、ちょうど祭りに参加できる年齢なのに、それができないっていうのが、ちょっと可哀想」

今の子どもたちが大人になったとき、生の経験を伝えることはできない。“たった2年”に思える空白の代償は、未来にも影響を及ぼす。

水谷さんは垂井で生まれ育ち、祭りとともに大きくなった。
だからこそ、知り得た事実がある。

「軕の上には見返ししか入れないスペースがあるんやけどね…」

そう言って、一つのエピソードを教えてくれた。


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それは2年前、祭りが終わったあとのことだ。
鳳凰山には、見返しだけが入れるスペースがある。仲間と連れ立って、記念に名前を書くことになった。

鳳凰山に入り、あらためてそのスペースを見回す。年季の入った木壁には、歴代の見返しの名前がビッシリ書かれていた。なんとなく眺めていると、水谷さんはハッとした。

そこに刻まれていたのは、父・研二けんじさんの名前だった。

「ちょっと感動した。おぉ、名前あるやんって」

興奮しつつ、研二さんの名前の近くに、自分の名前を書いた。鳳凰山に親子二代で見返しを務めた証を刻んだ。

「祭りは好きやったけど、見返しは青年じゃないとなれないから。それで初めて上ったら、ちゃんと名前あるやんって。感動した」

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研二さんは垂井で生まれ、ずっと祭りを支えてきた。その背中を見て、自分も見返しを務めるまでに成長した。

幼い頃は知り得なかったこと。若き日の父も祭りに熱を注いでいたこと。
その一つひとつが、青年となった今、実感できるようになった。

それゆえかもしれない。水谷さんは穏やかにこう言っていた。

「多分、自分の子どもが祭りをやってたら、可愛いかなって思う」


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水谷さんは昨年、救急救命士の資格を取得した。今は看護師も目指し、専門学校へ通っている。将来は資格を活かし、救急外来で働きたいと考えている。

しかし、地元には水谷さんが望むような大きな病院はない。そのため、町を離れることも視野に入れている。

「悩みどころやよね」と切り出し、水谷さんは真剣な表情を浮かべた。

「自分のキャリアっていうか、夢っていうか、それを追いかけるか。地元の祭りを追いかけるか。どっちがいいのかなって…。それはみんな思うことなんやよね、祭りが好きであれば」

祭りに関わり続ける道と、夢を追いかける道。
選択を迫られる人にとって、この2年の空白はあまりに大きい。祭りに関わることができる時間は、それほど残されていないからだ。

垂井にふたたび明かりが灯されるのはいつになるのか。


◇   ◇   ◇


日本各地で祭りの中止や簡素化が相次いでいる。
“不要不急”という言葉も相まって、「そもそも祭りは必要なのか」という声も大きさを増しているように思う。

祭りとは何か。伝統とは何か。
根源的な問いを突きつけられ、祭りは岐路に立たされている。

「俺、思ったことがあるんやけどさ…」

水谷さんはあらたまって、熱く、強く、言葉を紡いだ。

「小学5・6年生くらいの頃は、周りに支えられとるって意識がないんやけど。でも、意外とみんな、周りに支えられて今まで頑張ってこれたっていうのは、青年になって思ったかな」

泣きながら稽古した子ども歌舞伎。陰で祭りを支えた芸児係。声をからして務めた見返し。大人たちからの愛に満ちた檄。鳳凰山に刻まれた父の名前。

祭りがあるからこそ、幼い頃はわからなかった大人の支えに気付くことができる。これからは自分も故郷へ尽くそうとする想いが芽生える。

水谷さんの語りは、祭りや伝統の意義をそう言い換えているような気がした。

「来年はやれると思うから」

水谷さんは、前を向き、そう意気込んだ。

祭りは不要不急ではない。
尊い人生が詰まったものなのだから。

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