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碧空を征く 最後の海軍航空艦隊 彗星艦爆隊員の手記より 第五章
この記事は、下記の記事の続きです。
昭和100年・戦後80年の節目のこの年。
「碧空を征く」は、特攻隊員としての父の実体験をもとに、戦争の悲劇と平和の尊さを伝える手記です。父が残した言葉を通じて、当時の歴史や心情を振り返り、未来へのメッセージを紡いでいきます。今回は、「関東の雄・K3」です。
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関東の雄・K3 (K3とは攻撃第三飛行隊の略称)
5月1日付け、任 海軍1等飛行兵曹
沖縄作戦も芳しからず、菊水9号作戦(6月3日~6月7日)、菊水10号作戦(6月22日)まで作戦が発動された。
3月から菊水10号作戦まで、沖縄方面で戦没した特攻戦死の数は海軍1,997名(1,639機)に達した。
陸軍は1,021名(886機)を数える。フロート付きの水偵や、練習機の「白菊」まで動員しての特攻攻撃であった。
※菊水作戦特攻出撃機種・機数(防衛庁戦史室資料)
零式艦戦・641、彗星艦爆・251、九九艦爆・135 九六艦爆・12
天山艦攻・39、九七艦攻・95 一式陸攻・78 桜花・72
銀河・155、流星・29 白菊・118 水偵・75 93中練・11
合計1,639機
菊水作戦終了後は、増槽(機外取りつけ燃料タンク)を装備し、3小隊での長時間の編隊飛行、示威飛行を含め、関東一円の上空で頻繁に飛行訓練を実施する。訓練終了後は山中へ誘導路をくねりながら進み、上部を覆った迷彩を施した掩体壕に入れる整備員の苦労は大変なものであった。
日を追うごとに、グラマン、シコロスキーの艦載機の来襲が激化する。時折、飛行場周辺の老兵の機関銃員の下手な射撃を見ると、いらいらして機銃陣地に飛び込み、機銃員に代わって射撃することもあった。
20ミリ機銃に5発に1発の曳光弾もカーブし、なかなか当たらないものである。
茂原基地での生活も安定し、外出時の下宿、千葉了、静江夫妻には我が子のように温かくお世話になった。航空増加食糧を持ち出し、夜遅くまで主と共に飲み、話に花を咲かせ、懐かしい思い出を作った。
決号作戦への展開
本土決戦。決号作戦、米軍が進行すると思われる南九州の志布志湾と、南関東の相模湾を中心に布陣の作戦が立てられた。
米軍が関東に上陸作戦を開始しても、本州中部に攻撃をかけて来ても、九州に上陸して来ようとも、容易にこれを迎え撃つことができるように、武田飛行長、隊長藤井浩大尉、分隊長田上吉信大尉、新谷大尉が率いる601空攻撃第3飛行隊は名古屋空基地に展開した。
百里基地には吉富副長を指揮官とする601空攻撃第1飛行隊が展開している。
7月1日をもって明治基地に進出する。
防諜の経緯もあって夕刻薄暮をもって3機あての発進である。空地分離の作戦による旅ガラスのK3、整備員を後部座席のない43型彗星艦爆の後部機体内に積んでの飛行である。
離陸後、編隊を組む間、脚上げ操作をするも右脚が入らず、指示ランプ赤(故障指示)が点灯するため、繰り返し復旧操作を行うも、赤ランプは消えない。
茂原基地から明治基地までは、気流の悪い箱根越えがあるため、安全を期し茂原基地に引き返す決断をする。
咽頭送話機にて1番機加納中尉にその旨報告し、前方に出てバンクを2~3回繰り返し茂原基地に帰投する。
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茂原基地にて待機する 航空艦隊最後の切り札601空攻撃第3飛行隊に決合作戦の命下る
基地移動前の茂原基地指揮所横にて梶野兵曹と共に
基地に帰投すると、田中兵曹の機と我が機の2機であった。神の加護か、箱根付近は天候が急変し悪化、途中陸軍飛行場藤枝などに不時着した数機との連絡を受けた。
片脚出したままの飛行ではあの天候状態からして、引き返したのは正解であった。2日続けての荒天である。
7月3日午後、残留した田中兵曹と共に2機で明治基地に向かう。箱根越え後、積乱雲が多く、その下を飛ぶ。上昇気流が激しく、機がバラバラになるほど揺れる。後席の整備員が気の毒である。
夕刻、懐かしい明治基地に着陸する。指揮所に報告するとK3は名古屋基地に移動した後であり、休憩もそぞろ煙草一服してすぐ本隊の後を追い名古屋基地に向かう。
我が1番機稲垣兵曹が加納中尉を迎えてくれ、安堵する。早速整備士官に脚の状況を話し、点検整備を依頼する。
名古屋基地は山の上にあり、離着陸はし易い飛行場である。しかし搭乗員の宿舎は、谷を隔てた山間の三角兵舎で迷彩を施した半地下壕であり、入浴は飛行場のある本隊まで行かねばならない不便さ、これも作戦に応じての基地移動の旅がらすにて、致し方なし。
一番困ることは、作戦中は即出撃態勢で飛行服を付けているため、風呂から出ても帰る途中汗が出て元の木阿弥である。
気持ちが悪いため、専ら兵舎前の井戸で水浴びを済ます。
訓練はなく待機で、その上田舎での優雅な生活が続く。
沖縄は陥ちた。・・・・水戸が艦砲射撃された。・・・・ソビエト参戦情報は刻々厳しくなってきた。
【戦後判明せる当時の国内外の状況】
※ 聖断下る。
1945年(昭和20年)8月9日夜11時50分、宮城の吹上御苑にある地下防空壕で歴史的な御前会議が開かれた。
金屏風をめぐらした玉座に天皇が着席し、徹底抗戦をすべきか、否か、と「天皇陛下の思し召しをお伺いして、会議の結論といたしたく存じます。」と鈴木首相が言上し、御聖断を仰いだ。
「堪えがたいこと、忍び難いことであるが、わたしは、この戦争をやめる決心をした」と結ばれたとき、列席者のすすり泣きは号泣にかわった。
時に、8月10日の午前2時20分であった。
※ ソ連の進攻
8月9日の未明、首都新京市街に投じられたソ連機の爆弾と、夜が明けるとともに極東ソ連軍の全面進攻が始まった。
※荒れ狂う、ハルゼー
ハルゼー大将の率いる第三艦隊と、指揮下の第三十八機動部隊は、エセックス型の正規空母9隻、軽空母6隻から成り、かっての南雲部隊のお株を奪う史上最大・最強の航空艦隊であった。
7月1日にレイテ湾を出撃してからすでに1ヵ月半、日本本土沖を南北に往復しながら、縦横に暴れまわってきた。
8月10日、北日本各地をなめつくした大空襲を終えると、ハルゼーはウルシーとレイテへ引きあげて、月末に再出撃する予定であったが、日本降伏の兆候を示す情報が入ったため、もう一押しとばかり居残った。
12日に東京へ攻撃をかける予定であったが、示度740ミリの台風が近づき、天候が悪化したため、翌日に延ばしたところへ、UP電が入ってきたのである。
12日午後6時34分(東京時間)、UP通信社は日本降伏のニュースを世界中に流したのである。
8月13日朝5時26分に空襲警報が発令されてから、夕方6時近くまで、関東地方一帯には、6波、900機を越えるハルゼーの艦載機がたえまなく乱舞していた。
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投稿者のコメント:この章では、父本人の実体験から書かれた文と、後年の書籍などによる情報から引用された文が混在しています。しかし、戦況が刻々と悪化していく様子は十分に伝わります。また、当時の飛行兵でなければ描写できない部分も数多くありました。
特に、この章の中で、父が実際にアメリカ軍の艦載機に向けて、地上から機銃射撃をしたという記述があります。まさに戦闘行為です。戦場に身を置いていたのです。詳しい私のコメントは、おわりに「二つの命日」の章で後述します。
このように父が戦後、記録に残る戦史を調べようとしたのは、自分の当時流された「戦争や時代の潮流」を客観的に俯瞰して、自分と自分の人生を見つめ直す作業だったのではないでしょうか?そして、これからの平和な世界を望む作業だったのでしょう。
あなたはどのようにお考えになりましたか?最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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そして、ついに1945年(昭和20年)8月13日の朝がやってきました。
この日、父は重苦しい運命に直面することになります。
次回、その現実に迫ります。
もくじ
終 章 「事後情報分析からの考察」
おわりに 「二つの命日」
資 料 「あの日の電信の意味するもの」
※ note掲載にあたって
この父の手記は、1990年(平成2年)頃から1995年(平成7年)頃に、父がワープロで当時の記憶をたどりながら、各種文献を基に記したものです。現在では、不適切な表現や誤った表記があるかもしれません。
また、歴史的検証や裏付け調査研究等は不十分です。その点をご理解の上、お読みいただければ幸いです。