民俗学者 折口信夫について熱く語る本に対する無駄に長い感想
先日会社の先輩から本を借りた。
北森鴻の『凶笑面』である。蓮杖那智という異端の民俗学者が登場する民俗学ミステリー小説。
民俗学とミステリーを絡めた小説。
私と同じくらいの年齢であれば阿部寛と仲間由紀恵の「TRICK」みたいなやつといえば伝わるだろうか。
その題材となっている民俗学に少し興味が出てきたので、作中でもよく出てくる“マレビト”論の折口信夫(おりくち しのぶ)の著書…ではなく、折口信夫について書かれた本を借りてみた。
折口信夫は「古代人」の心を探ろうとした人である。そのために折口は「類化性能」というアナロジーの力を駆使して文字記録の余白を洞察し、非言語的な民俗資料の奥に、すでに私たちには理解できなくなってしまった「古代の思考」を掘り当てようとしていた。こうして、神々の体系の奥に、精霊の世界が発見され、精霊とともにある「古代人」の心の動きを描き出すことに成功したのである。
中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマ―新書 p10
折口の研ぎ澄まされた直観にかかれば、文字記録の無い時代までも遡れるというのだ。
「え?推測なの??」と思ったけど、文字で記録が始まってからの所謂“史実”とやらはおそらくここ数千年の話で、それ以前のことについては文字記録など存在しないよな…
もっといえば、たとえ文字を持っていたとしても、何かを文字で残す意志がなければ史実にならない可能性もありますよね。「歴史は勝者の歴史」といったありふれた見方もあり、そういう意味で真に客観的な史実などないという考えもありますが、私たちは秩序のない世界に秩序、辻褄の合う物語を求めてしまう生き物なのでその辺はそういうものだと割り切る。この辺は最近ニコ動で見た中野剛志と佐藤健治の対談(2013)で見ると面白いのでいずれ感想を書こうかな…多分。興味のある方がいたら動画をどうぞ。全4回。
さて、話を折口に戻す。
文字が無い古代人でも、共同体を営むために話し言葉で意思疎通はしていただろうし、なんらかの宗教的な営みだってしていたはず。直観のあとに民俗学における学問的アプローチはあると思うが、その時代の人々の思考に迫るためには、文字になっていないところから直観して推測するしかないのだ。
本書の冒頭面白かった視点は、文字で記録を始めた頃(本書では「奈良朝」と書かれていた)の列島の日本人はその時既にそれ以前人々の物事の考え方がわからなくなっていた、というところである。
2020年からすると、縄文時代も弥生時代もほぼおんなじ括りに入ってしまうような感覚だが、冷静に考えたらそうなんだろう。
一応文字や写真、動画などがあるから私は過去の歴史を知ることができるけど、文字記録も無かったら、物心つくまでの社会の状況ですら知る由もない。稲作によって大きな人口を抱えながら既に都市文化を営んでいた人々にとっては、狩猟採集文化を営んでいた古代人の感覚はすでによく分からなくなっていた、という記述もあり、なるほどそういう見方もありますか、と思った。
折口信夫は、古代人の心に迫るために古代人と同じような思考様式をしていた。古代人の心を知るためには、文字記録の行間、わざといわれていないこと、ゆがみをなおすなど文字の背後の意味を読み取らなければならない。
そのためには、古代人がどのようなものの考え方を好んだのか、直観的にとらえる必要があり、折口はそれを磨いていた。それが「類化性能」である。対義語的なものとしては「別化性能」という言葉をあてている。類化性能は、一見するとまるで違っているように見えるものの間に類似性や共通性を見出す能力。別化性能はものごとの違いを見抜く能力。
で、古代人は類化性能を生かしながら森羅万象を描こうとしていたと考えるのが折口信夫の考えだという。
これは面白い。もちろん現代でも比喩として類化性能が発揮される場面もあるが、特にここ数百年の近代においては近代合理主義が経済的にも社会的にも社会通念化しているので、この曖昧な類化性能よりも別化性能の方が相性はよさそうである。
というわけで、私が感じたこの本の面白ポイントはこちら。
① 異世界との出会いは共同体の外からくるという発想
② 文字を持つ前の古代日本人のもっていた精神世界観 ”タマ”
③ 明治維新の時に国家統一の理念で急いで作った国家神道の脆弱さ
タマにできることできないこと、合理化できなかったこと、合理的な宗教、非合理的な宗教的な話です。
順番に見ていこう。
① 異世界との出会いは共同体の外からくるという発想
柳田国男と折口信夫。民俗学界の巨人の二人には共通の考え方もあるが、違う点もあった。それは、日本人の抱く神の観念(おそらく古事記の世界)よりも前に存在していたはずの神の原型に対する見解である。
のちの宗教や文学の元になるともいえる「異世界のものとの出会い」というのは、共同体の中からでてくるもの(共同体に同質な一体感をもたらす霊)=柳田國男の考え方
ではなく、
共同体の外からやってきて共同体に何か強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動であるというのが折口のマレビト論。
文学や宗教は、みんなが同質の考えや体験をしているところからは生まれず、どこか異質な体験に触れた時に発生するのではないかという考えである。比喩や掛詞のように、全然違うもののなかに共通性を見出すという行為はまさに類化性能を発揮した例である。ここから、異質なものと自分の中に共通性を見出すそれが文学や宗教の起源ではないか、と。
② 文字を持つ前の古代日本人のもっていた精神世界観 ”タマ”
日本の宗教の原型は、先述の通り、私たちが文献で知る「神」よりも前にあったはずである。それが、“タマ”である。
タマの性質はこんな感じ↓
・増減する
・特定の性格、機能も無い
・明確な名前なし
・形が変わる
・体系に組織されにくい(しにくい?)
・威力のある動物とむすびつく
・人間度が低い
自分がこれらを読んで連想したのはもののけ姫に出てくる「コダマ」である。多分近い気がする。古代人が超越的なものを考えるものの見方としてはこの“タマ”という考えが大元にあるという。
しかし、タマ的なものに天照大神や大国主命などという名前がついたり特定の性格がつくと人間度が高くなり、組織化されて、特定の物語ができていく。それこそ神に名前を付けるというのは別化性能の領域である。ある種の合理的思考ともいえる別化性能では、“タマ”をうまくとらえることができない。タマは類化性能と相性が良いのだ。
③ 明治維新の時に国家統一の理念で急いで作った国家神道の脆弱さ
ほかの誰よりも折口信夫には、神道には何ができて、何ができないか、どこが良いところで、どこは宗教としてだめだかが、はっきり見えていた。明治以来、政府内のイデオローグたちはたいした見識もなしに、神道をキリスト教に向かいあえるほどの宗教に仕立て上げることができるなどと信じて、日本人の霊性の伝統に致命的な打撃を与えるような、めちゃくちゃな施策をたびたび断行してきた。
その過程を通じて、神道は国家の「正義」をささえる、国民の倫理性の源泉としての位置づけを与えられるようになった。つまり、神道は合理化されて、近代主義の逆立ちした表現形態に、たどりついてしまうことになったのである。
土地土地に根づいた古い形をもった神道が、日本人の生活を導く倫理の源泉となってきた歴史的事実が、近代国家としての日本の「国民」を薫育し、教化していくための道徳原理ともなる、という合理的な形にすりかえられてしまった。その結果として、神道はその内的な生命を委縮させ、頽廃させることになったのである。
中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマ―新書 p101-102
日本の古来の土着の信仰(先述のタマとか)は、キリスト教、仏教、イスラム教のように合理化して頑強にする過程を経てこなかった、という。
それを明治政府の近代化政策により、そういう土着的な信仰を神道としてキリスト教に対抗できる頑強な宗教、日本人の規範になるような宗教に昇華できるはずだと、信じた。しかし本来のふんわりしたタマ的精神性を、そういう民俗性を理解していなかったがゆえに失敗、間違ったナショナリズム(国粋主義)に使われてしまった、的なことがこの本から読み取れた。
(あらゆる物事は人間の理性によって完璧にコントロールできるはずであるというような近代合理性については先に挙げた対談動画でも取り上げられている。)
この辺りも日本の近代が抱える抑圧された精神性につながるような気がする。これも面白い視点である。
以上が中沢新一氏の本を読んだ感想である。
先日国立博物館の「出雲と大和」を見に行った時に感じた“仏教が入ってくる前と後で感じた圧の差”はこういう精神性から来ているのだと感じた。
長いなwwここまで読んだ人いるんか??
ダメ押しで、福田恆存の表現を引用しながら、下記のようなことを考えた。
礼賛的国粋主義は私の主義ではないが、国としての独立感を意識するようなナショナリズム、もっというとパトリオティズム(愛郷心、愛国心)的な感覚って本来はもっと意識されていいものではないか。
自分自身はこれまで受けてきた教育や世間の風潮から、「そういうことをいうと「戦前回帰」というレッテルを貼られてしまう」「そういうなことを思うのは悪いことである」というまさに自虐史観があった。
しかし、過去の歴史や社会を顧みると、逆にそのような拠り所となるような“物語”の無いあらゆる集団は脆弱なのではないかと最近思うようになった。
人が合理的に考えたものよりも、生まれる前からずっとそこにあったとかそういう歴史や文化のような無意識のうちに根づいているものって、アイデンティティの大元でいざという時の芯だと思うし、自分はそういうのを大事にしたいと考えている。ま、そういうのを自覚したのはここ最近なのだが。
日本が他国と比べて優れている、劣っているといって、長所を探し出しそれにすがって称賛したり、短所を徹底的につぶしていくのは愚かなことで、今あるものに何ができて何ができないのかを批評し、自己を確立し、ジタバタせずに構えていたいものだ。
国や会社や個人の在り方にも多少通じそうだよな、というお話でございました。4100字ww