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断片200312

先日会社の先輩と合理的なものの見方と精神的なものの見方(宗教、思想的な)について会話することがあった。

その際、合理的を追求し過ぎるとバランスがわるくてどこかで目に見えないもののとらえ方が必要になってくるのではないかという話をしたところ、
「なんとなく量子論的な感じ」という言葉が出てきた。

なるほど。
自分はただの量子力学ファンなので詳しい数字的な議論はできないのだが、なんとなくわかる。
(そして私はその量子力学の不確実な世界観になぜか惹かれている)

合理性を追求すると、ある程度までは誰もが反論の余地なし、というピッタリポイントまではいくのだろう。しかも効率的に。

しかしさらに純粋に完全なるものを見たいがために対象に迫ると、、、逆に対象がぼやけてしまうのだ。

まさに量子の世界… (多分)

電子はそこにあるし、そこに無い。確率でしか表せない。
あとはこんな理論あるよねたしか。位置を特定すると速さがわからなくなり、速さがわかると位置がわからなくなるっていう有名な方程式が。

最近見た哲学系YouTuberネオ高等遊民さんのヘラクレイトスに関する動画が結構興味深い。数回見返している。

圧倒的な無。無目的に耐えられない人間の知性は、思考の方法として合理性を進化できたのかもしれない。合理的思考は精神安定剤というのは言い得て妙である。

しかも近代(ここ数百年)においてはこの思考により、生活の発展につながった。相性がよかったといえるかも。
「人間は理性によりなんでも問題を解決できる」というような考え方。悪いものがあったら一旦それをぶっ壊す、そうすれば、次には前よりも“よりよいものができる”、そう、人間には理性があるから。

しかし完全を求めようと対象に近づけば近づくほど、その対象は完全に純粋でもなんでもなくただただ不確実なものである、という仮説にぶち当たる。

ある程度までは合理性で片が付くが、求めれば求めるほど合理性ではなんともしがたい部分が出てくる。

福田で言うところの、どうにもならぬもの、というのはもしかしたらこのことに近いのかもしれない。選べたり努力でなんとかできる部分(合理性でなんとかできる部分)はある程度まではあるにしても、それだけでは測れない部分。

ある程度まで突き詰めた(合理的に正しいことで組み立てたもの)は頑健に見えて実は脆弱である。

「行為者は目的に対する意図なくしては決して動かない」という言葉に根づいている伝統的な思想そのものにこそ、もっとも大きな人間の誤りが潜んでいる。そして、この誤りを悪化させたのは、2世紀以上にもわたる科学的知識の盲信だ。さらに、この誤りは脆さの何よりの原因である。
ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性』ダイヤモンド社 p281
人生が一つの目的を有し、人間活動のあらゆる分野がそれぞれの分担においてこの目的にむかつてうごいてゐるといふ考へである。
このやうな歴史の合目的性を意識し愛好することは、いはば知識人の標識でもあり、特権でもあった。なにもぼくはそのことを否定しようといふのではない。が、なんとかしてこの目的を意識のうへにのぼせて、それを眼前ににらんでゐないと、自己の存在と活動の根拠に不安を感じてやまぬといふことになれば、それは知識人の弱さであり、知性のもつ本能的な恐怖感にほかならない。この意味において現代に欠如しているのは知性ではなく、むしろ知性が現代の混乱をおそれ混乱を増大してゐるのである。
(中略)
このやうな考へかたは政治家をして容易に文学者の仕事を理解せしめ、文学者をしてしごく単純に政治家のしごとを理解せしめ、のみならずなにものも生産することを知らない学生をしてすらあらゆる文化領域のいとなみを諒解せしめるがゆゑに、自己の人生観を一日もはやくまとめておきたいひとびとによつて好まれてきたのである。
福田恆存(浜崎洋介編)『保守とは何か』文藝春秋 p13-14

合理的に、理性的に物事を判断してきて、それは社会通念的に正しいとされてきてた。自分が今までやってきたことは強い自分を守っていこうという頑健さを求めた軌跡である。それがこんなにも物事を、自分を、ひいては集団や、社会を脆いものにしているのか?

合理的な考え方のその向こうにある不確実なものの存在、自分の力ではどうにもならぬもののの存在はなんとなく知覚していた。

それがおそらく思想とか哲学とか明確に言語化できないもの。


そろそろ対象がぼやけてくる頃かもしれない。

ある種の絶望を感じている。

目的も因果も起源も無いものを受け入れられる寛容さ、余裕。
何かに対して変わってほしくない、不変の永遠を手に入れたい、そんな純粋な気持ちをどこかに持っている気がする。しかし自分ですら勝手に変わっている。

純粋ってなんだ?完璧ってなんだ?

そんなことを考え始めたら、今までの思考を一旦棚卸したくなる。

でもこれがまさに先に挙げた近代合理性に影響された考え方そのものかもしれない笑
まさに、デカルトの『省察』の境地ではないか!

しかしこの企ては骨の折れるものであり、少しでも気を抜くと私はふだんの生の習慣に引き戻される。(中略)穏やかな眠りの後に苦労の多い目覚めが続き、かくしてこれからは、光のなかではなく、いましがた提起されたさまざまな困難の、解きがたい暗闇のなかで暮らさねばならないのではないか、と恐れるのである。
ルネ・デカルト『省察』ちくま学芸文庫 p41-42

いかに既存の思考の癖を疑うことが難しいか。
ゼロベースとか、オールリセットとか単純にはできない。

単純な未来志向や目先のことについては、これまでほど私のなかでは大きな意味をなさなくなった。

なにか暗闇に手を伸ばしてしまう。思考の海へ深く深く潜ってしまう。身を沈める生き方になってきたようだ。

人々はなにかを知るというということによって、より高く飛べるようになると思っているようです。今まで知らなかった世界が開けてくると思うのでしょうか。が、それは半面の真理にすぎない。(中略)あることを知ったということは、それを知るまえに感じていた未知の世界より、もっと大きな未知の世界を、眼前にひきすえたということであります。
さらに、それは、そのもっと大きな世界を知らなければならぬという責任を引き受けたことを意味します。とすれば、なにかを知るということは、身軽に飛ぶことではなく、重荷を負って背をかがめることになるのです。人々は知識というものについて、その実感を欠いてはいないでしょうか。
福田恆存『私の幸福論』筑摩書房 P81-82

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移行前のキムラ
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