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嫌われる勇気 No9 劣等感 その2

劣等感と優越性の追求

劣等感その1で、劣等感の基本について書きました。劣等性(客観的な事実)は、劣等感とは区別し、劣等感は、あくまでも主観的な解釈であること、そして、この劣等感は、多分に成長のために良い役割も果たすということ。では、そもそもどうしてわれわれは劣等感を抱くのか…?

哲人曰く、「人は無力な存在としてこの世界に生を受けます。そして無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています」。そして、それを優越性の欲求と呼び、”向上したいと願うこと””理想の状態を追求すること”と説明されます。

確かにそういう傾向はあるでしょう。特に子ども達は、より幼いほど、どんなことにも貪欲に取り組み、夢中になると思います。ただ走り回る、とかであっても、どんどん速く、笑顔で楽しく、周りを巻き込みながらいつまででもやっています。

そして、この優越性の欲求と対をなすのが劣等感だというのです。つまり、優越性の追求に劣等感はかかせず、その両者は、健康で正常な努力と成長への刺激であるとします。

劣等コンプレックス

「ところが…」と、哲人は続けます。「一歩踏み出す勇気をくじかれ、「状況は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられない人たちがいます。なにもしないうちから「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」とあきられてしまう人たちです」

青年もそれには痛く同意し、「それが劣等感というものでしょう」と迎合しますが、哲人は、その迎合をはねのけるように、「いえ、それは劣等感ではなく、劣等コンプレックスなのです」と返します。どういうことか…

本書によると、劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のこととしています。例えば、「わたしは学歴が低いから、成功できない」とか「わたしは器量が悪いから、結婚できない」と考えるように、「Aであるから、Bできない」という結論を振りかざすことだそうです。

わかるなぁ。実は、私は、「天パだから、見た目がダサい」、「見た目がダサいから、彼女ができない」と思っている時期がありました。今思えば、本当にバカだったですが、当時は本当にそう思っていましたよ。彼女ができないのを天パのせいにしてました…。

青年も一緒です。「それはまっとうな因果関係ですよ!学歴が低ければ、就職や出世の機会も奪われる。社会的に低く見られ、成功できなくなる」と言い放ちます。しかし、哲人は、「違います」と一刀両断。アドラーの「見かけの因果律」という言葉を引用します。

「本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう」

これは、カウンセリングをしていてもよく体験するロジックですし、自分ごととして考えても思い当たる節がゴロゴロあります。

わたしの例

最近の例だと、私、完全に乗り遅れましたし、クオリティも内容もまだまだですが、少し前にYouTubeデビューしたのですが、知人が別の方の感想を正直の教えてくれたのです。その感想が、「この人、何したいかわからない」というものでした。ドキッとしました。心臓を射抜かれた感じがして、からだが強張りました。別に目的がないわけではないけど、確かに不明確だから、もっというと、心理士だから、こんなことしちゃいけないのではないか、と思いました。これが見かけの因果律。目的が不明確だからやらない、心理士だからやらない。

哲人は言います。「問題は、そうした現実にどう立ち向かうかなのです」「単純に、一歩前に踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える”勇気”を持ち合わせていない」と。

グサッ、グサグサグサグサッ!!!

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