結局は、わたしとわたし
嫌われる勇気 No11 比較
劣等感についての長い長い解説を一通り終えて、一息つこうと思ってみても、この本は、その暇を与えてはくれません…
地続きでない?
青年は、疑問を呈します。「”優越性の追求”については、普遍的な欲求だとして認めているのでしょう?一方で、過剰な劣等感や優越感に関しては、警鐘を鳴らしている。いっそのこと「優越性の追求」そのものを否定してくれればわかりやすいのに」
確かにそうです。境目が分かり辛い。より良い自分になるための努力や向上心は認めるが、それをこじらせると、劣等コンプレックス、優越コンプレックス、ひいては、偽りの優越感に浸り、不幸自慢を始める。それらは地続きに見えてしまい、結局、悪くなるのであれば最初から優越性の追求や劣等感など持たない方が良い。私も思います。しかし、そこには根本的な勘違いがありました…
劣等感の本当の意味
哲人は、「同じ平らかな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。そんな姿をイメージしてください」と言います。すかさず青年が、「人生は競争ではない、と?」と返します。良いハーモニーです。「ええ。誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです」と哲人。「いや、それは無理でしょう。われわれはどうしたって他者と自分を引き比べてしまう。劣等感とは、まさにそこから生まれるのではありませんか」と青年。
そうですよね。誰か他の人と比べるから劣等感を感じる。誰もが、私も、そう思っちゃいますよね。しかし…哲人は言います。「健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、”理想の自分”との比較から生まれるものです」と。哲人は続けます「まったく同じ人間などどこにもいません。他者との間に違いがあることを積極的に認めましょう。しかし、われわれは、”同じではないけれど対等”なのです」。
なんとなくわかってきた。もう一歩!!
同じではないけれど対等
頭に?の青年が絞り出すように、「すべての人は対等である。同じ地平を歩いている。とはいえ、そこには”差”がありますよね?~結局は優劣の問題に行き着く」と言ったか言わないかの内に、「違います」と哲人がピシャリ…。「われわれが歩くのは、誰かと競争するためではない。いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです」
関係ないのです。他の誰かは関係ない。自分の位置を知るために必要なだけ。例えば、私が天パであることを知るためには、直毛の他者がいなければ知りようがない。それで、自分の位置を知ったら、あとは、その位置から前に進もうと努力する勇気が持てるかどうか。
劣等感、それは、自分の理想とのギャップ。結局はわたしとわたし。
深いです。深淵なる深さ…