1940年の壁
わたしには、わたしだけの壁がある
幼い頃からわたしを囲い続けた壁が、近頃、緩やかにではあるが破壊されはじめた
1940年の壁
自分でも意味がわからないのだが、物心がついた頃から、1940年以降に生まれた人間の本は読まないと決めていた。
本屋に足をはこぶ。いいなと思った本を見つける。まず、作者紹介を見る。1941年生まれ、アウト。どれだけ惹かれていたとしても、本を戻す。
幼い頃から現在まで、これを繰り返してきた。
今更ながら、理由を見つけていきたい。
わたしは小説のジャンルに疎いので、1940年以降に生まれた人間の作品を現代文学として一括りにして良いかはわからないが、ここではそうする。
ちなみに、あくまで文学であって、詩や思想書は含まないこととする。
わたしが登場人物と同時代に生きているとか、作者と社会的価値観を少しであっても共有していると、なんとなく、その近さゆえの、本質的な遠さを感じる。
社会的背景が要請する同じ病みを深層に抱えているというか、妙になまなましい。
インターネットやスマホを想起させる言葉や、直接的な表現が出てきたらもう我慢ができない。
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やや横道に逸れるが、巷にはブルーライト文学なんてのもある。そうでなくとも、帯には「泣ける!」「もっと早くに読んでおけば!」と書いてある。それは、誰の声?
この前なんて、本屋さんで、5分シリーズなんてものが売られていた。
なんと、泣きたい時にそれを読んだら5分で涙することができるのだとか、できないとか。
タイパ(わたしのだいきらいなことば)はここまで来たか。もはや、私たちの感情はインスタント化している。未知との遭遇だった。
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現代文学を読んだことがないわけではない。
小学生の頃、自分の状況を危惧して少なからず現代小説を読んだこともある。
携帯小説なんかも読んだ。『若草物語』を読むわたしの隣で、当時にしてはませた女友達が『恋空』を読んでいて、「お姉さんだ〜、では、わたしも….」となったのだ。面白かったから、トイレの中でまで読んでいたことは覚えている。だけど、それは友達の姿をなぞっているだけであって、わたしではなかった。
中高生の頃は一切読まなかった。ウッドワードとバーンスタインの『大統領の陰謀』は読んだが、あれは文学ではないから、本当に読んでないんだと思う。
大学生に入ってから、人の勧めを以前よりまっすぐ受け止められるようになった。色んなことを学ぶうちに、視野を広げる楽しみをより深くおぼえ、このような食わず嫌いが矯正され始めた。
正確に何冊かはわからないが、幾つか現代文学を読んだ。
それでも、「いま」の文学にはやはりあまり触れなかった。
金原ひとみ作品を数冊と、朝井リョウ『正欲』ぐらいしか読んでないんじゃないだろうか。これらが合わなかったわけではなく、むしろ飲むように読んだ。数年経った今でも、読んでいる最中の感覚を思い出せるほどには熱中した。
ただ、やっぱり、時代が同じであるが故の、同じ深層の病みに耐えられなかった。
思い過ごしだよと言われればそうなのかもしれないが、文学のなかの共感という部分には共振も含まれると考えているので、やはりわたしには、その、揺れてしまう部分が確実に「在る」のだ。
だから、文学とわたしの間には、すこし慕情を抱くぐらいの空間・時間的な距離があることが望ましい。
そんなこんなで、「いま」の文学、というか、言葉そのものから逃走したり捕まったりしていたわたしだが、先日、自分でも驚く出来事があった。
今月号(2025年1月)の『新潮』には蓮實重彦と千葉雅也の対談が掲載されている。わたしにとっては一大事である。
1200円。
全くバイトをしないくせに毎日1日2食外食をする人間には、正直、痛い。
普段、本を買うときに値段は気にしないが、これは、考えものだった。
だって、絶対、わたしのことだからハスミンの対談以外読まない。
そのときは後輩と一緒に本屋にいた。連れ回した挙句、1200円で何をウジウジと、とか思われるのが恥ずかしくて、来月払いのカードで購入した。
この対談には満足した。せっかくだしと思い、ほかの人たちの随筆を読んだ。
正直あまり期待していなかった。少しお堅いツイッターを眺める気持ちでいた、が、もう面白くて仕方がなくて、その日は午前3時まで眠れなかった。
そのときのメモを引用する。
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デカルトが、「現代のことを知っておかないと、自分の時代で迷子になる」風のことを言った所以がよくわかった。私は、もうすこしで、後戻りがきかないほど、迷い切ってしまうところだった。
自分は人文をやる人間である以上、歴史から逃れることはできない。歴史を愛してきたし、同世代の人たちと歴史に対する思いが異なるものなんとなくではあるが、感じている。
ただ、みんな、どうして「いま」のものに親しむことができるのか、わからなかった。流行りの曲を聴いて、流行りの格好をして(これは私もするが)、流行りの喫茶店に行く。
ブルデューの考えをここに引用するのならば、私がこれらに親しまなかったのは文化資本の違い、あるいは文化的オムニボア、というものが当てはまる。ただ、概念づけるだけではなく、私は「いま」を恐れていて、自分を否定しない(彼らは卓越的な死をもって受け入れてくれるから)過去に逃げていたにすぎないのかもしれない。そう認める必要がある。認めることを知る必要がある。
いずれにせよ、自分が同時代の人びとの声と言葉に抵抗なく接することができたことに喜びと驚きを感じている。
流行りの曲を聴いて、流行りの喫茶店に行きたくはない。でも、たまには流行に身を乗らせるのも世界の楽しみ方、「共有」のよろこびのひとつなのかもしれない。
数ヶ月、こうして自分の考えや感じたことを記録することを無意識的に避けてきたが、いま、自分の「いま」と向き合うことができるようになった。
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なんとも、午前3時の文章という感じだ。
要するに、私は文学のうちから自分の視点を取り除きたかったのかもしれない。自分を意識するのが怖いから
先のメモで触れているように、わたしは音楽にも同じことを感じている。映画にも。これについてもまた機会があれば言葉にしたい。
こんな感じで、だんだんと壁が破壊されはじめている。もちろん、ルミエールの映画みたいに一瞬で壁が復元されるかもしれない。
おわり。