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我々人間が「生きる意味」とはなにか?──生物学と哲学、2つの立場から──

最近、数々の要因から、みんなの精神が崩壊している。

TLや流れてくるツイートで「生きる意味がない!」と悲しんでいるツイッタラー(フォロワーさん含む)がたくさんいらっしゃるので、彼らと、生きる意味に悩む人たちに向けて「生きる意味」について書きたい。

最初に結論を言うと、人間の生きる意味は2つの答えが出せる……理系的な答えと文系的な答えだ。


生きる意味──理系的な答え

まず理系的な答えから著述したい。

理系的な答えは具体的には生物学的な話になる。

まず前提として、人間のみならず生物は自己複製を行い、自己の遺伝子を後世に残すロボットのようなものだ。すなわちドーキンスの『利己的な遺伝子』の世界である。


リチャード・ドーキンス(1941~)

人間の生きる意味は……生物としてはこの「自己の遺伝子の複製と保存」にあるのは間違いない。

ところで、生物は利他的に見える行動をとることがある。それは自らの遺伝子の生存に有利に働くからである。これまで、生物は種や集団の利益になる行動をとるように進化してきたと広く信じられてきた。というのも、個体の生存という観点から生物の行動を観察すると、利他的としかいいようがない行動や習慣がいくつも確認されてきたためである。

このためいわゆる「種の保存」……要するに保守派の一部が未だに言うところの「個体は『種』の利益を最大化するために行動し、個体が交配相手を探すさまざまな適応を見せるのも『種』を絶えさせないようにするためである」という考えが社会で一時支配的だった。

だが、実際に利益を受け取っているのは、種でも集団でもない。厳密には個体でもなく、遺伝子こそが利益を受け取っている張本人なのだ。生物は利他的に見える行動をとることもあるが、それは種の保存などではなく、遺伝子の生存という意味で有利だからだ。今日まで生き延びていることに成功した遺伝子は、例外なく利己主義であり、ゆえに自然淘汰を生き延びてきたのだといえる。

この利己的遺伝子説で有名なのは社会性昆虫の例だ。
例えば、女王バチと働きバチは、見た目も、することも全く違っているが、もともと同じ親から生まれた個体で、遺伝子型も同じである。その違いは、育てられた時の餌の違いによるもので、普通の蜜や花粉で育てば働きバチに、働きバチが分泌するローヤルゼリーで育てば女王バチになる。したがって、働きバチは自分自身の繁殖を放棄しても、女王バチの卵を育てていれば、自身が繁殖したのと同じように自分と同じ遺伝子を次の世代に伝えることになり、その利他的な遺伝子は淘汰されることなく生き残ることになる。こうして、働きバチが取る一見すると「(女王バチを助け、群れを維持するという)利他的な行動」が、実は「利己的な行動」となっているのである。

リピートすると、理系的な話では、我々が生きるのは自己の遺伝子を残すことだ。具体的には子供を残すことでもあるし、我々の遺伝子を一部引き継ぐ兄弟姉妹の子供(甥や姪)を各種支援するという一見すると利他的な行動(しかし実際は利己的な行動だ)を取るのもいい。ここでは、遺伝子を残すことこそが我々の生きる道だ、生きる意味だ、ということになる。

 DNAのいう真の「目的」は(後の世まで)生き延びることであり、それ以上でもなければそれ以下でもない。

ドーキンス『利己的な遺伝子』

(当初ここに進化生物学の観点からも書いていたのですがさすがに冗長すぎるので消しました。2024年において、長い文章ほど嫌われるものはないのだ。さらに利己的遺伝子説については色々議論があるのでそれは身近な理系の友達にでも聞いてみてね。高らかに語ってくれるでしょう。くわえてドーキンスの「ミーム(人間が受け継いで築き上げた文化的遺伝子)」についても文が長くなるため投稿前に最終的にカットした。これも周囲の理系に質問してみてください、ド文系の私より的確に語れるでしょう。)


生きる意味──文系的な答え

なるほど、我々は何百万・何千万・それ以上もっと前の世代のはるか昔から伝えられている自己の遺伝子を残すために、必死に生きているのはわかった。

しかし……そんなのは残酷ではないか?もし不妊なら終わりだというのか?兄弟姉妹の子供がいないとおしまいだというのか?結婚できないと意味がないのか?一体我々はどうしたらいいのか?

個体群があまり大きくなると、なわばりをもてない個体が出来、彼らは繁殖できないことになろう。ウィン=エドワーズによれば、なわばりの獲得は繁殖への切符あるいは許可証をてにいれるようなものである。成立しうるなわばりの数には限りがあるので、いわば繁殖許可証の発行数が限られているようなものだ。

ドーキンス前掲書

実際、私は結婚したいけども高確率で結婚できないだろう。どうしたら……いい……?

そんな考えが浮かんでくる。

そこでここではもう一つの答え、文系的な答えを書くことにする。もっとも……Twitterで文系がぼろくそに叩かれているようにここに書くことは人によってはアホ文系wwwと馬鹿にするもしれない。そんな人は見たら不快になるので見ちゃだめよ、ブラウザバック推奨よ(古のネットミーム)



前置きは置いておくとして本題に入ろう。

かつてサルトルというフランスの実存主義哲学者はこう述べた。
「実存は本質に先立つ」と。


ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)

この言葉の意味は今回の記事の場合、
「人間は生まれながらに本質(=生きる目的)を持っているのではない、本質(=生きる目的)がある前に、実存(=有機生命体としての存在)があるのだ。 人間は生まれた時は、まだ何者でもなく、何者であるか、何者になるかは、『私はこう生きる』と決めない限り、本質自体がないのである」
という意味合いになる。

「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」、これがサルトルの「実存主義の第一原理」である。


人間はまず先に実存し、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(……)人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。

サルトル『実存主義とはなにか』

サルトルにとって、人間は主体的な存在である、ということが重要である。人間の「本質」は、あらかじめ存在するのではなく、個々の人間の「主体性」によって後から形成されるのだ。人間はもとから人間であるのではなく、人間になるのである。あなたはあなたとして生まれたのではなく、あなたの行動・選択によりあなたになったのだ。

そしてその人間は自分の可能性を未来に向かって自ら投げ出すのだ、という考えからサルトルは「投企」という言葉を使った。そして未来を「自由」に「選択」するのが人間であり、そこには「責任」が伴うので「不安」にもなるし、自分一人で決めることの「孤独」も生じてくる、と考えた。

換言すれば人間が石ころのような事物、机のような道具などと決定的に違うのは、人間だけが未来に向かって自身を投企し、人間は絶えず自己を選択し自己を実現する点である。石ころや机は「ただ存在する」だけでそんなことはできない。サルトルはこのような人間に固有の企てを「自己からの脱出」、「自己の超越」、「自己の乗り越え」と表現し、この「実存」する人間のありようを「自由」と定義した。

ここに有名な言葉の「人間は自由の刑に処せられている」という「実存主義の第二原理」が関わってくる。

もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられた固定された人間性をたよりに説明することはけっしてできないだろう。いいかえれば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。

サルトル前掲書

「自由そのもの」として世界に投げ出された人間は、みずからが行うことを、自分自身で決めていかなくてはならない。「ひとたび世界のなかに投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任がある」のである。

神は存在しないので、自分の行動を正当化する理由や言い訳として、超越的な存在の神を持ち出すことはできない。我々の価値を決定するのは神でも何でもなく、自分ひとりでしかない。そのことを「刑に処せられている」と表現しているのだ。

このような我々の、人間の人生が順風満帆なわけがない。「自由の刑に処せられている」のだから、あらゆることに対し、自分で主体的に判断し、責任を持って行動しなければならない。創造主たる神に責任転嫁できず、自分一人で自分の人生を決めていかねばならない。

ここで私は何が言いたいのかと言うと、サルトル的には本来我々の生きる意味はないのである。我々はただの化学反応する肉塊にすぎない。だがね、しかし、しかしだ。我々は「自由」であるゆえに、自身の人生に「自由」に意味づけしていくことはできるのだ。仕事に打ち込んでもいい。絵を描いてもいい。小説を書いてもいい。YouTubeチャンネルで動画を上げてもいい。Twitterでツイ廃になってもいい。マスターベーションしまくってもいい。ひたすら昼寝してもいい。君や私はなんせ自由なのだ。自由に自分の人生を彩って、意味を付加することはできるのだ。客観視すれば非生産的行動だとしてもいいのだ。自分で自分に意味づけできれば。人生とは自己満足だ。

今や、わたしは、再びわが身を乾かすために、身震いして、そなたから走り去る。それをそなたはけげんに思ってはならぬ!そなたには、わたしが無作法と思われるか?しかし、ここは「わたし」の屋敷内だ。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』

そう、この世は「わたし」の屋敷内だ。わたしたちは己の屋敷内で無作法に好きに生きればいい。もちろん、これは「自由の刑」という辛いものだ。誰も答えをくれないし、どうに生きたら幸せなのかはわからない。繰り返すが全ては「自由」なのだから誰も責任を取ってくれない。生まれ持っての生きる意味などない、神はいないのだから。

大変失礼な物言いだが、私も君たちも正直言って社会的には最底辺だ。そもそも我々男の精神障害者に価値はない。女性とは違うのだ。男の鬱・統合失調症・双極性障害等々は犬も食わない。しかも我々は低賃金のプレカリアートなのだ。しかし(何度も書いていて諸君らも飽きただろうが)、我々は化学反応するクソの詰まった革袋たる自身の本来意味のない人生に、そう自分の人生に自分で自由に意味付けはできる!たとえ自己満足だとしても!自己満足を馬鹿にしてはならぬ。たとえ独りよがりの自己満足だとしても、自分で納得し、自分で選択した生きる意味となればそれでいいのだ。

ということでフォロワーさんは落ち込まないでほしい。生きる意味はたしかにない。だが、同時に生きる意味を自分で「意味づける」ことはできる。私は君たちの書く文章や絵、音楽に動画(これは普段の何気ないツイートなども含む)などすべてが好きだ。そうやって自己表現し続けるのも立派な自己満足=(自分で意味づけする)生きる意味の一つになるのである。これは別になんだっていいのだ。先に述べたマスターベーションだっていい。なにか自身の意思で「主体的に行う」ことが肝要なのだ。

我々は何者でもない。だからこそ何者にも自分でなれる。心が優しい君たちのような人間は、優しい人間として生まれたのではない。自己の意志で優しい行動を取るから優しい人間なのだ。


(サルトルの自由の定義は『存在と無』での「自由は状況のうちにしか存在しないし、状況は自由によってしか存在しない」という言葉があるように詳しく語ればもっと複雑である。例えば「金持ちの自由」と「貧乏人の自由」は理屈はどうであれ、現実には違うというのをサルトルは理解していた。「自由」という語と同じく、この「状況」という語自体も専門用語である。さらにサルトルの唱えたアンガージュマンについても触れなかった。これに触れてしまうと文が際限なく長文になってしまうからであるし、なによりこれは論文ではなく激励の文なのだ。少なくとも私の意図したところでは。このあたりは詳しくは飲み会とかで文系の友達にサルトルの思想について尋ねてみてね)

最後に

ここでは簡単に生きる意味についての理系的(生物学的)な答えと文系的(哲学的)な答えを提示した。ここで肝心なのだが、これはどちらが正しいとかではない。好きな方を選択すればよいし恣意的に組み合わせても良い。なお、『利己的な遺伝子』も『実存主義とはなにか』も色々批判があり、反対意見もたくさんあることは明記しておく。

この2つの本の作者はどちらも無神論者(それも日本のなんちゃって無神論者と違って気合が入った無神論者だ)なので宗教に敬虔な方は論に嫌悪感を覚えるかもしれない。さらに私の愚かな知能より数段優れた博識なインテリからは批判を受けるかもしれない(その可能性は高い。私は馬鹿な神経衰弱の人間なので許してね……)。

この文はあくまで私の考える単なる意見にすぎない。しかも当初書いていた(またはプロットの段階には存在した)要素を削りまくってコンパクトに纏めたたため、抜け落ちた部分等も数多くあるし、論の進め方もお世辞でも巧みではない。しかしとにかく……かかる文が先述したフォロワーさんや悩んでいる人の手助けになれば幸いである。

世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さなければならない。

サルトル 『いまこそ、希望を』

みんな、死んじゃだめ!私との約束だよ!どうしても辛くなったら哀れな私を見て笑って元気だしてね。未来がある心優しい若者が将来を悲観し、苦しんでるのを見るのが一番つらいのだ、晩年のサルトルと同じく年老いた私にとっては。そんな諸君らが少しでも元気を出せたら幸いである。

参考文献(順不同)

・リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』
・ジャン=ポール・サルトル『実存主義とはなにか』
・同上『いまこそ、希望を』
・海老坂武『100分DE名著 サルトル』
・ジャレド・ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したか』
・フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』
・坂部恵・加藤尚武『命題コレクション 哲学』





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