エモーショナル/アノミー
エモーショナルの一般的解釈は、感情的なこと、感情に訴えてくるもの、興奮するもの、だというが、そんな簡単な言葉で、こんなエモい痛みが言い表せていいものか。
例えば、米津玄師の音楽と歌声を聴くときの感動。それは心臓を力まかせに握り潰されるような激痛、横隔膜を剥ぎとられるに近い焦燥、理由もなくこぼれる涙、喉の奥を爪で引っ掻かれているような終末感。それらを一言で表すと、エモさ。なんて便利な言葉なのだろう。
知っている。音楽でも、小説でも、エッセイでも、何でもそう。心に響くのは、それが自分の欲しているものだから。言ってほしい言葉、私が言いたかった言葉。それらが、自分の力ではとても辿り着くことのできない世界として、目の前にあるからなのだ。からからに干乾びた地面に、水がぐんぐんと吸い込まれていく、その快楽と同時に、とめどない欲望が自分の内にあることを思い知らされる瞬間。きらめきに巡り合い、きらめきに触れた感動と、嫉妬と焦り。それらがめちゃくちゃに絡まり合って、目も眩むようなきらめくかたまりに膝をつき、許しを請うて、私は世界にうなだれる。
この感動を、揺さぶられた気持ちをどうにか昇華したくて、スキやイイネがたったひとつじゃ物足りなくて、連打したい衝動が「お金を払う」という行為に結び付く。いくらでもいい、持ってってくれ。有り金全部振り込むからさ、口座番号教えてくれよ。
万や億を超える再生回数やPV数を見るにつけ、それらが、私一人の感情じゃないことに驚く。逆算的に、これが私たちの餓えているものだとしたら?そこに金儲けの端緒を見出す者、世界の終わりを見出す者と、いや我こそはと足掻き続ける者が、そこから続々生まれてくるのだとしたら?私たちの憧れと欲望は、身の丈や分を超えて次々と限界値を超えてゆく。その先にあるものは何?
19世紀末、エミール・デュルケームは言った。
社会に煽られて、人間の欲求が無規制状態に陥る時、ひとは自らが叶えられない欲求に常に裏切られ、無限の苦しみしか残らないのだ、と。
彼はそのことを「アノミー」と呼んだ。
「人は行動し、運動し、努力することにいかなる快感を味わおうとも、そのうえになお、自分の努力が無意味ではないこと、また自分がその歩みの中で前進していることを感じていなければならない。ところが、いかなる目的にも向かっていない時には、またそれと同じことだが、目ざす目的が果てしのない彼方にあるときには、人は前進していないも同然である。かれが目的から隔てられているその距離は、どんなに歩もうともつねに変わらないのであって、すべては、あたかも一か所で空しく足掻いているかのような有様になってしまう。来し方を振り返って、既に歩んできた道程を一瞥するときに感じる誇らしい気持ちでさえ、むなしい満足を与えるだけであろう。これから歩むべき距離は、だからといって一向に縮まってはいないからである。それゆえ、仮に手の届かない目的を追い求めるならば、人は果てるところのない不満の状態をもって罰せられる。…」
(エミール・デュルケーム『自殺論』 第5章「アノミー的自殺」より)
私は、きらめく甘いかたまりに群がる一匹の蟻になる。輝くものが自分のものになるわけでなく、もちろん、それを生み出せる天才になれるでもなく、自分が憧れる世界を嫌と言うほど見せつけられているのに、完全に蚊帳の外へ追い出されたその他大勢であることを、静かに思い知らされてゆく。
ひと月のお小遣いを一生懸命に貯めて、ようやく一枚のCDを買えた頃の満足感はもうどこにも無くなってしまった。あまりにも簡単に、世界中の心臓を揺さぶる輝きを、心を震わせるきらめきを、手に入れることができる時代。だからこそ、その他大勢である私はとてつもない無力感に襲われ、そして中毒患者のようにそこから抜け出せないことを知る。
それが、この心臓の痛みや理由もなくこぼれる涙、エモさの正体なのだとしたら、今この世界は「アノミー」と言う毒に侵された病体だ。この美しくきらめくものたちに囲まれて生きたまま死ねることだけが、唯一つの救いだと言うのか。世界よ。