【エッセイ】嫌いな人との共存の為には何が必要?
ふと思ったことがありまして…
私はかねてから単一の統治、単一の政府の下に世界は営まれるべきだと考えてきました。
無論全てを破壊し一つに統合するという意味ではなくて、致命的な形骸・慣習を壊してまずは持続可能性、ついで進歩主義的な追求に邁進するべきと、考えてきたのです。
ただその時の具体的な様子をイメージできなくて、口先だけで桃源郷を唱えているのでした。
そこで「もし嫌いな人を前に、それでも彼と共存しなければならないとしたら?」と思われたのです。
そして脳内・心のリソースの余裕があるという前提のもと、理性を働かせて「お互いの自由を(必ずしも認める必要はなく)許し、少しの距離があれば、そうしなくもない」と。
これはリベラリズム初期に確立された自然権の解釈ですね。
シンプル故にどの時代でも適用できるかもしれません。
しかし各々の余裕が担保できなくなれば途端に理性は主導権を失い、利己的で排他的な環境に戻るでしょう。
そうして、結局「余裕の無さに起因した共存不能」が生き辛くさせてるんだろうなと思ったのでした。
かくかくしかじか、ご覧の通りまだ理想を唱えているに過ぎず、骨子のレベルですら運用に程遠いのが現実です。
この「イデオロギーの種」は芽も出ておらず、今しばらく涵養の時間が必要な様です。
もっとも、それだけの時間があるかは怪しいですがね…
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